行暮(ゆきくれ)
居間のドアが開き、父が顔を出した。
「晴彦くん、寒いだろう。こっちに入ったらどうだね?」
依怙地になって階段につながれたままを甘んじている持衰につきあっていた少年は、笑って首を振った。
「いえ。ここのほうが落ちつきます。持衰さんは見張ってないと心配やし」
そして、母の与えてくれた布団に包まって寝息を立てている少女を見やって、
「持衰さんは念動力を持ってるもんな。手錠ぐらいは外して出ていってしまいそうや」
と、苦笑しつつ、つけくわえた。
崇志の軌跡を追えなくなった、と持衰が騒いだのは1時間ほど前。兄はすでに電車に乗りこんでいたはずだ。一応、携帯へかけてみたが、電波が届かなくなっていた。旅程には地下鉄も含まれている。そのせいだと思われる。
「それにしても、着信履歴ぐらい残るやろうに……。崇志兄、横着しないで返事返してくれればいいのに……」
もともとマメに連絡を取る習慣のない崇志は、もしかしたら携帯を見ることさえしていないのかもしれない。
晴彦はポケットから自分の電話を取りだし、もう1度、兄の番号を押した。コールさえ繋がらずに『電波の届かないところにおられるか……』のアナウンスが流れる。
「崇志兄、阿呆すぎ……」
密かに不安を増大させている少年は、平気な態度を取りつくろいながらも、小声で、無神経な青年を非難した。
少しすると、夕食を盆に乗せた母が近づいた。
「……崇志は、あとどれぐらいで京都に着くのかしら……」
晴彦の前に食事を置きながら、沈んだ声音でそう問う。
「たぶん、あと40分ぐらいです」
少年は携帯で時刻を確認して答えた。19時を回った。順調に行けば20時前には到着する。
父が再度顔を覗かせ、階段下に設置したファンヒーターの火力を強めてくれた。
「雪が降りはじめたよ」
そう伝えられて、晴彦は初めて自分の手が冷えきっていることに気づいた。けれど、一番に懸念するのはそこではなく。
「……電車、止まってないやろうか……」
兄が間違いなく目的地に近づいているかどうかを気にかける。父と母は、そんな少年の様子に目を細めた。
礼を言って夕食を受けとり、箸をつける晴彦の横で、少女が小さく身じろぎをする。階段に座った状態で寝込んでいるので危なっかしい。父が布団越しに娘の体を支えると、ぼんやりとした顔を上げ、周囲を見回した。
「……お前はのんきだな」
少年の食事風景を見とがめる持衰。晴彦は、幾分、バツが悪そうな顔をしながらも、
「ごめん」
と謝ったきりで中断しようとはしなかった。その様子に苛立ったのか、持衰はさらに非難を強くする。
「『タカシ』を追いだしておいて、よく平気でいられるものだ。お前は『おれ』にカガ神を使わせたくないのかもしれないが、『おれ』はもともとカガ神と一体として生まれてきた身だ。『タカシ』の居場所さえ知ることができれば、彼の蛇神に助けを請うなどたやすいこと」
「蛇神さんは、そんなに親切な神さんと違うやろ」
箸を置き、静かに反論する少年の顔には、怒りも呆れの感情も浮かんではいなかった。己を責める持衰から視線を外したまま、抑揚を抑えた声で続ける。
「土地いうんは、恵みももたらしてくれるけど、災害ももたらす。恵みだけ望んで厄災を嫌った人間が、自分たちに都合がいいように土地のエネルギーを使おうとして作ったのが地母神や。プラスもマイナスもある自然の一面を、そのまま受け入れようとせずに、強引に歪めたエゴの結果や」
「カガ神はそんなに嫌な神とは違う!」
悲鳴に近い怒声を上げ、持衰は晴彦に掴みかかった。手すりと繋がっている左手の手錠が耳障りな金属音を響かせる。
「『おれ』はカガ神になることで人間の弱さを捨てられた。いまだって『タカシ』を救うために自分がどうなるのかなんて考えることもない。お前は人間だから自分のことを1番に考える。『タカシ』をここから追いだしたのだって『ミヤ』のためだ。お前は『タカシ』より『ミヤ』のほうが大事なのだ!」
肩口に伸びてきた少女の手を、体をずらしてかわした晴彦は、今度は困った表情を浮かべた。
「だって」
言い訳しながら、持衰の顔を見る。
「オレ、崇志兄からそれを頼まれてここに来たんやし」
美耶ちゃんを優先せんかったら崇志兄に怒られる。少年は頭を掻きながら、肩入れする対象をはっきりと口にした。
がちん、と硬質な音がした。その場にいた父母と晴彦はいっせいに視線を向ける。
ファンヒーターが床から浮きあがっていた。安全装置が自動的に火を消した音だった。父親が慌てて押さえつける。
今度は少年の手元で木材の奏でる乾いた音が響いた。盆の上を滑った箸が、そのままこぼれて宙に舞う。
鋭い先端が、操っている持衰自身に向いた。晴彦が手を伸ばして回収する。
母が、不穏な行動を示す持衰から、本能的に娘の体を抱きしめて庇った。
「持衰ちゃん……何をしてるの……?」
尋ねても、冷淡な態度を固持した持衰は答えない。
「自傷行為に走ろうとしたんです、きっと。巫女である持衰さんが自分を贄として捧げれば、蛇神さんは力を増す」
晴彦は溜息をついて持衰の頭を軽く小突いた。
母の腕の中で、持衰は小さく呟く。
「『タカシ』の瑕と合わせようとしただけだ。『おれ』が胸を突けば、瑕同士がつながって、兄の行方を追えるかもしれない。死ぬような怪我ではない。案じないでほしい」
「駄目に決まってるでしょう」
美津子は少女をますますきつく抱きしめながら、持衰の凶行をとがめた。
「崇志なら、いまごろ京都に着いてるわよ。持衰ちゃんがそんなことしたら、きっと怒るわ」
「でも……」
納得しない持衰は、ちらっと晴彦を見やった。凶器を背後に隠す少年をわずかに睨み、また関心を母に戻す。
「『ミヤ』だってそれを望んでいる。『おれ』がカガ神を招魂すれば、自分も身が危うくなることを知っているのに、邪魔をしない。だから、『おれ』は、『ミヤ』ともども消える覚悟で『タカシ』を助けようとしたのだ」
火の消えたファンヒーターが、思いだしたようにぬるい風を吐きだした。雪の舞う屋外の風音が、寒々と廊下に鳴き渡る。
母と場所を変わった父が、厳しい声で、持衰に対して問いかけた。
「君は、明日になったら美耶を返してくれると言ったね。あれはその場限りの詭弁だったのかね?」
ムスッとした表情を維持したまま、答える持衰。
「嘘などついていない。返すつもりではいる。ただ、どうなるかは『おれ』にもわからない」
持衰には崇志を救う力がある。それを信じきっていた父母は、不安定な言動に困惑した。
「持衰は安江さんよりもずっと強い能力を持っていたんじゃなかったのかね、晴彦くん?」
父の質問に、少年は軽く手を振って、
「崇志兄の実母さんが単体の怨念だとしたら、持衰さんの中にいるカガ神で充分に対抗できたと思うんです。でも、実母さんは、とり憑いていた期間が長くて、姿形も変化してしまうほど、人間から離れてしまってます」
と答えた。
「つまり、安江さんは、持衰の操る蛇神と同じぐらいの力を持っているということかね?」
さらに問いを重ねる父。傍らで持衰が『操っているのではない。奉じているのだ』と大声を上げるのを無視して、少年は、また返事を返す。
「実母さんの実態については、オレもよくわかりません。持衰さんもわからないと言ってました。ただ、京都まで崇志兄を追いかけた姿を見たとき、もう人間として戻るのは無理やろうと思ったそうです」
人間以外の何かが憑依したのかもしれません。柔軟な脳を持つ十代は、実母という単身の存在が悪鬼と成り下がっていく過程を、かなり正確にイメージしていた。
そんな実母のまとわりつく中、当の崇志を見放してしまった。晴彦が持つ罪悪感は、けっして小さいものではなかった。けれど。
「実母さんをそこまで大きな存在としてしまったのは、たぶん、崇志兄本人です。本当なら、幼かった自分の罪なんかに囚われずに、この家でのびのびとしてたらよかったん」
死者は忘れることで存在が軽くなる。亡者を抱えることができない生者にとって、忘却は必要な行為である。
「持衰さんが言うには、逆に、死者にとっても、いつまでも忘れてもらえないことは不幸なことなんやって。未練から解かれて魂を神さんに預けるタイミングを失ってしまうから。実母さんが、忘れることで簡単に成仏してくれる人やったかどうかは、オレにもわかりません。でも、この仕組みを話したら、崇志兄自身は自分を責めるやろうなと思ったんです。その上、もし、持衰さんと美耶ちゃんが実母さんに負けてしまったら……」
崇志兄の救出を最優先して、持衰さんたちをないがしろにしたら、結局、1番苦しむのは崇志兄じゃないんでしょうか。言外にそう言い置いて、少年は話を決する。




