大禍時(おおまがどき)
またここか……。
冷えきった土の上で佇みながら、未だに冷静になれない崇志は、自分の行動の滑稽さに、半ば諦めを覚えつつあった。
稲荷神社の境内に戻ってきてしまったのだ。
合理的な理由はあった。夢璃との電話のあとに連絡をつけた裕貴が、
「話? 東海林のことで? ……いいよ。オレも言いたいことがあるから、行ってやるよ。どこ?」
挑戦的な言動で尋ねてきたからだ。『稲荷神社のそば』などとあやふやな表現を伝えるのは、自身の立場を矮小にするような気がしてできなかった。
「稲荷まで来てくれ」
とっさにそう返してしまった己の行動を、著しく奇妙だとは、いまでも思えない。
ただ。
俺、やっぱり呼ばれてるのかな……。
実母の執念が関係していない、とは言いきれない気がする。
やっぱり、最後に顔を見てくればよかったな……。
このまま、京都にも逃げられず、実家に帰ることも叶わないなら、せめて妹の寝顔だけでも刻みつけておけばよかった、と思った。
悲観的な気分を払拭できない自分に、イライラだけが募る。このままでは実母にとり殺される。負の未来が明確に迫っているのに、対抗手段を考える脳が、麻痺したように動かない。
結局は逃げきれないんだ、俺……。
己の支配者である実母を怒らせた。その恐怖が、ますます意識を萎縮させる。
濃紺の空気が満ちる境内を、崇志は、わざと乱暴な足取りで横切った。濁った水を満たす手水舎の水盤に柄杓をつっこみ、冷水を頭に浴びせかける。痛いほどの感覚に、ようやく思考が回ってきた。
「諦めてどうする。俺が死んだら、あいつの世話を誰がするんだよ」
妹のことを思い浮かべて気力を奮う。
「それに、……の立場も悪くなる。あいつは、あいつの考える限りのベストな選択をしたはずだ」
京都行きを手配した少年のことを気づかう。
過去の思い出をなぞり、死んだ実父母の代わりに奮闘してくれた仮の身内に、勇気を得ようとした。愛情深く関わってきた近親友人を名指して、自分の本来の居場所を確立しようとした。
それなのに。
濡れた剃髪を拭いもせず、崇志は、呆然と、己の記憶をかき回した。
あいつら、どんな顔してた……? なんて名前だった……?
網膜と鼓膜に、不明瞭な容姿と声が浮かび、すぐに消える。意味のない線画の羅列が、名前の代わりに存在を示す。
宝物のように思っていた誰かがいたはずだ。揺らぐ思念の中で、一瞬だけ、細い肢体に艶やかな黒髪の後ろ姿が現れる。
…………。
喉まで出かかった呼称は、残念ながら、形にはならなかった。
強烈な孤独感に吐き気がする。
「……ここまで、何もかも取りあげなくてもいいだろ、実母さん……」
すべての失せた崇志の中で、代わりに大きく湧いた実母の面影は、歪んだ満足そうな笑みを浮かべていた。
土を踏む足音がした。
「早川、来たぞ……って、何やってんの、お前?」
嘲笑混じりの声がする。
手水舎の柱にもたれて座りこんでいた崇志は、同年代の青年の声に視線を上げた。
誰だ……?
名前が出てこない。たしか、自分が呼びだした相手だと思うのに……。
細面の神経質そうな顔を眺めていると、徐々に、だが、細い追憶の糸がつながる。そうだ、松原だ。東海林のことで話をつけるはずだったんだ、と。
そもそも、彼と自分はどんな縁があったのか。裕貴の話しかける声を虚ろに聞き流しながら、崇志は過去をとり戻す作業に没頭しつづけた。
高校時。後ろ暗い小児期の性格を、少しずつ改善していった崇志は、多くの友人を持つ人望を備えることができるようになっていた。当時は家庭も安定していて、悩みといえば、興味本位から交際した夢璃に振りまわされることぐらいだった。
そんな中、友人の集う片隅から、ときおり、非好意的な視線を送る同年生がいたのだ。親が資産家だと噂される彼は、自己顕示欲と支配欲が強く、周囲の評判は悪かった。
あいつって中身ねえくせに偉そうなんだよ。あんまり近づかないほうがいいぜ。
友人たちの忠言に従って、彼との距離を保っていた崇志だったが、相手のほうから一気に間を詰めてくる隙を作ってしまった。
へえ、早川って坊さんになんの? なんで? 坊主って楽して儲かるみたいじゃん。お前もそういう打算的なとこがあるんだな。
崇志が僧侶を希望していると聞きつけた裕貴は、日参に近い間隔で揶揄を続けた。家庭の事情の手前、本当の理由を明かすことができなかった兄は、不愉快な感情を押し殺しつつ、彼の存在を半ば無視した。
忘れてた。そういえば、松原って嫌な奴だったな……。
夢璃から裕貴と交際したいと持ちかけられたとき、うかつにも、崇志は、裕貴の人となりを完全に失念して、協力してしまった。裏を返せば、それほど夢璃から興味が逸れていたということだ。
自分の交際相手なのに、なんで、俺って東海林にあんなに冷たかったんだ……。
己の薄情さを責める気持ちと、もう1つ、反発する気持ちが芽生える。
東海林になんかに関わってられなかったんだよ。
得体のしれない存在に巣食われて、生命さえ疎かにしかねない妹のことで頭がいっぱいだったのだ。
名前……。あの子の名前と顔……。
思いだせない少女。考えれば考えるほど、彼女への慕情や保護欲さえ霧散していく。
現実に存在していたことを疑うほど。
俺には、もう、東海林と実母さんしか残っていないのか。
暗い視線を地面に落としたまま立ちあがる。裕貴が慌てたように後退った。
人を呼びだしといて、その態度は何だよ?!
文句を叩きつける裕貴の言い分はもっともだ。自己弁護しかしていないとはいえ、彼の言葉に対してまったく無反応だったのは、崇志も反省するべきところだった。
「悪」
かった、と謝罪を続けようとして……でも留まる。これから言い伏せようとしている相手に、軟弱な態度は見せられない。
「お前の話を聞く気はない」
一方的に宣言して、会話を打ち切る。
「東海林を俺に返してほしい」
不親切なほど短く要求を伝えると、裕貴は、最初、ぽかんと呆れた顔をしたが、すぐに皮肉めいた笑みを浮かべた。
「お前が要らないっつったから引き受けてやったのに、いまさら何だよ?」
「説明する気もない」
都合のいいように他人の事情に介入してくる彼には、何を言っても揚げ足を取られると思って、返答を断った。裕貴の顔が、今度は不快感に歪む。
なんで坊主なんかになりたいの? へえ、漫画の影響? お前、それ終わってるって。ああ、坊主って寺の婿養子になればいいんだ? 案外、逆玉狙いだったりして。巫女萌えとかあるしなあ。
嫌味を連ねていた当時の裕貴には、好意的な感情は持たないながらも、悪意のない冗談だと割りきって接することができた。でもいまは無理だ。些細な表情の変化にさえ、己の中の嫌悪感がむきだしになる。
俺って、こんなにこいつのこと嫌いだったか……?
戸惑うほどの憎悪が身内を駆ける。
東海林はこんな奴とつきあってきたのか。俺はそれに協力したのか。こんなクズにあいつは抱かれたのか。俺が、顔も思いだせない妹に遠慮して家を出ている間に。
腕を伸ばして、背後の柄杓を取った。水を汲みあげ、感情のまま、裕貴に向かって道具ごと投げつける。
「お前が黙っていなくなればいいんだよっ!」
激高を顕わにすると、裕貴からも怒号が飛んだ。
「ふざけんなよ、てめえっ! 東海林もお前もぶっ殺してやるからなっ!!」
薄明が消え、深い宵闇が訪れるこの時間は、魔が現れると、古から恐れられてきた。
赤黒く夜に沈む鳥居が不自然に揺れはじめた。青白い灯が周囲を囲んでいく。




