薄暮
稲荷の敷地を抜け、元の場所まで戻った崇志は、そのまま次の停留所に足を向けた。
まるで引き止められたように離れることができなかった『稲荷神社前』のバス停から、すんなり身を返すことができる。これは実母に対しての未練を断ちきったからだろうか。何にせよ、ありがたい。
怨霊とか狐憑きとか、考えてみれば、以前は一笑に付していた存在だった。僧侶を目指しても、なお、本気で信じることができなかった霊異の類。
「持衰とか実母さんとか、下手に身近だったから、祟り神なんて壮大な妄想にまで惑わされたんだよ」
たったいま経験した数々の現象を『妄想』と位置づけ、正常な世界に戻ろうとした。
幹線にはとぎれることのない車の列が流れている。向かいの家々には暖かな灯が入っていた。どこからか団欒の声。すれ違う歩行者の影も目に入る。
稲荷神社の境内の閑散さに比べて、ここは生者の密度の濃い世界だ。
「やっと抜けたか」
己の精神に巣食った闇と決別できた安堵に、自然と頬が緩んだ。
ポケットの中で携帯が鳴る。晴彦か? 根拠はないが、実母の呪縛から解かれたとたんに繋がった回線だけに、相手を期待する。
表示を見ると。
夢璃の番号を示している。
「……ああ、さっき電話したからか」
一方的な切り方をした通話。そのことで文句でも言うつもりなんだろう。受話ボタンを押す。
夢璃はなかなか声を出さなかった。『さっきのは何?!』の第一声があるものと思っていた崇志は、数十秒の沈黙を守ったが、諦めて自分のほうから話しかけた。
「さっきは悪かった。ちょっとイライラしてて……」
言い訳まじりの謝罪を伝えると、元恋人は、
「……怒ってたんじゃないんだ? よかった」
と笑顔を連想させる声音で返事をした。
「怒る? 昨日のことで?」
崇志が夢璃に腹をたてる理由はいくつかあるが、彼女が崇志に対して罪悪感を持つ原因は、とりあえずそれぐらいしか思いあたらない。
「昨日のことなら、美耶も大事にはならなかったし、お前だけが悪かったわけでもない。怒ってないよ」
狐憑き状態だった夢璃を責めるのは気の毒に感じ、そう宥めた。荼枳尼天の祟りを否定したばかりの青年には、元恋人が精神錯乱を起こした理由に自分が絡んでいるような後ろめたさもあったからだ。
その言葉を聞いた夢璃は、一変して、明るい声を響かせた。
「あたし、すぐに謝りにいこうと思ったの。とりあえず自宅に帰ってから、崇志の家に向かうつもりだったの」
「ああ、うん……」
矢継ぎ早の弁解にも嫌悪が沸かないのは、現実感のある夢璃の存在に癒されているからなのか、それとも、まだ彼女に愛情の欠片が残っているからなのか。
「それも別に気にしてない。どうせ美耶を病院に連れていってたから、謝りにきてもらっても自宅にはいなかったし」
元恋人へかける言葉が、ことさらに優しくなってしまう自分に苦笑する崇志。
……電話、切りたくねえな……。
つらつらと弁明をくりかえす夢璃の声に、酔う。
「もうそれはいい」
「謝らなくていいから」
夢璃を気づかう自分の反応に、心地よさを覚える。
京都からこっちに戻ってきたら、こいつと、もう1度、しっかり話をしよう。つきあうにはコツのいるやつだけど、俺なら受けとめられる。東海林が俺との復縁を望んでるんなら、元の鞘に戻ってもいい。
そんな幻想さえ浮かんでくる。
「ねえ、崇志、いま、どこにいるの?」
夢璃の質問に、周囲を見回してから、答える。
「稲荷神社から500メートルぐらい離れたとこ。あ、俺さ……いまから、いったん京都に戻るから……」
「うそ……」
つかの間の別離に対して、彼女は、予想どおり、不満を口にした。離れたくないと願う夢璃に、自尊心を満たされる。
舞いあがりそうになる心を抑えて、崇志は恋仲に戻る予定の元恋人を諌めた。
「すぐに帰ってくるよ。ほんと、すぐだから。帰ってきたら連絡する。それまで」
待っててくれ、と言いかけて。
現実的な弊害を思いだした。夢璃は、いまは裕貴の恋人だ。
半分意識が飛んでいたとはいえ、裕貴が昨日夢璃にした凶行は、これからも2人が関係を保っていけるレベルではない、と崇志には思えた。けれど、自然消滅のような結果に任せて、夢璃を裕貴から奪うような真似はしたくない。
「松原とは、あれからどうなったんだ?」
彼らがどういう状況になっているのかを知った上で、裕貴本人にもコンタクトを取ろうと決意する。
夢璃は返事を逡巡しているようだった。裕貴に暴力を受けたことを蒸し返したくないだけかもしれないが、無言を通されれば、崇志自身も身の振り方を迷う。
「俺、お前とやりなおすこと、真剣に考えようと思うんだ。だから松原にもそれを伝えたい」
そう言って勇気づけると、
「ほんと?」
と小さな声に力がこもった。
「本当にあたしを助けてくれる?」
期待に満ちた返答は、でも、崇志が予想していた言葉とは少し違った。
助ける? 夢璃を助ける?
何から?
裕貴から引き離すことを、彼女は『助け』と表現したのだろうか?
「松原と何かあったのか?」
幾分、表情を引き締めて尋ねると、夢璃は声をひそめて、
「うん……。だから、さっき、崇志が電話を切っちゃったときに、裕貴くんに何か言われたのかと思ったの」
と答えた。
「俺は、松原とはあれから疎遠のままだ」
裕貴とは縁が切れていることを伝えると、夢璃は、
「そうよね……。裕貴くんは、崇志に、直接、文句を言えるような人じゃないもの」
嘲笑を交えて返事を返した。
昨日、崇志と別れてから、と彼女は始める。
狐憑きから醒め、自身の行動にショックを受けていた夢璃は、混乱を収めるために、とりあえず場所を移ろうとしたのだそうだ。かといって、美耶の血の付着した口元や衣服をそのままにして自宅に戻るわけにはいかなかった。
「だから裕貴くんに電話したの。裕貴くんの家には、あたしの服が残ってるから」
あんな目に遭いながらも、頼るところが裕貴の元しかない理由は、崇志にも漠然とわかる。夢璃は家族の理解に恵まれていない。彼女の資質が身内からも拒否されているのか、それとも、存在そのものが疎まれているのかは定かでないが、つきあっている当時は、そのあたりの愚痴をよく聞かされていた。
俺が連れ帰ってやらなかったからか……。
美耶の怪我に動揺して、夢璃の立場を失念していたことを少し悔やんだ。
が、すぐに考えなおす。崇志にとっての優先順位は、夢璃より美耶のほうが上だ。それは揺るぎようがない。
先を促すと、夢璃は、こう続けた。
「裕貴くんに、神社まで車で迎えにきてもらって、家に行ったの。裕貴くん、実家がすぐそばなのにアパート借りてるのよ。前につきあってた娘と同棲するためだったみたい。結婚する気だったんだって」
自分が割りこんで破談に追いやった相手のことを、他人ごとのように話す。
「少しは反省しろよ」
ぼそりと呈した苦言は聞こえなかったようだ。夢璃は、そのまま、説明を継ぐ。
「アパートに着くまでは、裕貴くん、なんにも喋らなかったの。また殴られるかって、ちょっとビクビクしちゃったけど」
笑い声。暴力を1番に心配していた崇志も、その穏やかな言い方に、ほっと胸をなでおろす。
「殴られたりはしなかったんだな?」
それでも、改めて確認すると、
「それはなかったよ。ええっと、ちょっと……アパートに着いてからは強引だったけど」
言葉を濁しながら照れ笑いをする元恋人。
昨日の稲荷神社での裕貴の所業は、夢璃にとって手痛い経験なのだと、崇志は認識していた。恋人からただの性交目的だと罵倒されたのだから。でも、電話口の夢璃は、そんなことに構いもせずに、裕貴と肉体関係を重ねたことをほのめかす。
呆れる……べきなのだろう、と、崇志自身もわかっていた。けれど、心に沸きあがってきたのは憐憫の情だった。自尊心を保つことより、流されるままに異性に身を委ねてしまう彼女の未来を、本気で憂う。
「お前……ほんっとに馬鹿だな」
感情の発露を隠しもせずにぶつけると、夢璃は、
「……うん……。そうかもね……」
としおらしく答えた。そして、
「あたし、やっぱり、裕貴くんより崇志のほうが好き、かな……」
と呟いた。
松原には任せられない。
夢璃の悪癖を利用するだけの裕貴に対して、不信感が増大する。
もっとうまい扱い方があるだろう。こいつは病人みたいなもんだ。
美耶という、常識では判断できない身内を持った崇志にとって、夢璃の破綻した人格は庇うべき対象にしか見えない。
夢璃は、そんな崇志の心情を感じ取ったのか、信頼しきった様子で、最初の『相談』の内容を暴露した。
「裕貴くんは、あたしが裕貴くんと別れて崇志とつきあうのを許してくれないんだって。崇志のこと、すごくライバル視してるの。だから、あたし、裕貴くんで我慢しなくちゃいけないのかなって思ってた。ちょっと怖いとこがある人だし」
崇志の返事を待たず、続ける。
「でも、あたし、本当はもう裕貴くんとは終わりたいの。崇志のほうがいいの。崇志があたしのことをなんとも思ってないなら、寂しいから、裕貴くんと続けてもいいかなって思ってたけど、本当は崇志のほうがいいの」
だから……崇志、あたしを助けてくれる? 電話越しに甘い懇願をする。
夢璃の甘言を鵜呑みにしてはいけない。かろうじて頭の片隅が警告を発した。けれど、すぐに力をなくして、しぼんでいく。
夢璃は、崇志が裕貴に恨まれるのを危惧して彼と別れられないと言う。それは崇志にとっても歓迎できない事情だ。と同時に、夢璃をいじらしく感じる要素でもあった。
俺が話をつけてやらないと。
過剰な責任感が、またも裏目に出る。
夢璃に完全に支配されてしまった青年は、
「わかった」
と短く返事をした。
「松原には俺から話をする。お前は、もうあいつとは会うな」
夢璃の期待どおりの台詞を伝えてしまう。




