誰彼(たそがれ)
いくらなんでも遅い……。
もう1度、携帯の時刻を確認した崇志は、ありえない数字を見て戦慄した。本来乗るはずだったバスの到着予定時刻から、すでに1時間以上が過ぎている。
慌ててバス停の表示版を見ると、その間に3台ほどが通りすぎた計算になっていた。でも見ていない。バスどころか、ここに立ってから、往来を行き来する車にすら気づかなかった。
拳を握りしめて、湧きあがる恐怖心に対抗する。
怖がれば隙ができる。実母に負ける……。
空を見あげて、未だ残る残照に疑問を持つ。
この時間で、こんなに明るいわけはないよな……。
再度、携帯を取りだすと、時計は正常な時間を示していた。なんだ、錯覚だったんだ。ほっとする。
実母は恐れるほどの存在なのか。
崇志の中で、ゆっくりと膨らんでいく亡き母への不信。かつて感じていた親愛や孝行の感情は、自分でも薄情だと思うほど霧散している。
実母さんが俺に執着しなかったら、俺は早川の子どもとして、気兼ねなく父さんや母さんに甘えられたんじゃないか? 美耶に対して嫉妬することもなかったんじゃないか? 僧侶になるなんて理由で、あの家を出ることもなかったんじゃないか? そうしたら、いまみたいな歪んだ家庭にしちまうこともなかったはずだ。
実母さんさえいなかったら……。
利己のために母親を否定する自分が、なんだかひどく禍々しい存在になりつつあるように思う。けれど、そう考えてもしかたがないと冷徹に割りきる感情も小さくない。
だから、実母さん、もうどっかに行ってくれ。俺の前から消えてくれ。
実母さえ消失してくれれば、陰なく、明るい場所で生きていける気がする。だから祈る。実母にいなくなってほしい、と。
崇志……。
悲しげな女の声が聞こえた。気がした。
地面に視線を落としていた崇志は、ゆっくりと顔を上げて、稲荷をふりむいた。
誰もいない……。
なぜ実母は成仏しないのだろう。彼女の気持ちが崇志にはわからない。息子が幼いうちなら、心配で離れられないという執念はありえただろう。けれど、いまは明らかに弊害となっている立場だ。
自分なら……と考える。実母のように未練ある相手を遺して死んだ場合、俺はさまようだろうか。たとえば……もし、いま、美耶を遺して死んだとしたら……。
ふ……ふ……。
微かな女の笑い声が聞こえた。気がした。
吸いこんだ息を腹に溜め、喝を入れる。
「うぜえんだよ! とっとと消えろ!」
足元から伸びる細長い自分の影に、何かが覆いかぶさっている気がした。それをかき消すように、夕闇がますます濃さを増す。
どうして俺は、いつも束縛されなきゃならないんだ?
脳が勝手に描くのは、実母との思い出ではなく、夢璃との交際の一幕だった。
「崇志が考えていいのは、あたしのことだけでしょう? 他の女のことなんて考えないで。たとえ妹でも」
嫉妬深くて理不尽だった元恋人。美耶から関心が離れないままつきあってしまった罪悪感から、彼女には強く出られなかった崇志。その優柔さを突くように、夢璃は悪癖を増長させる一方だった。
本当は怒鳴りつけてやりたいぐらい嫌いだった。いや、美耶の病気を広めたと聞いたときは、嫌悪を通りこして憎悪した。あいつとつきあうべきじゃなかった。あいつを放置しておくべきじゃなかった。あいつがいるかぎり、美耶は学校にも行けない。あいつを何とかしないと。
携帯を取りだして、まだ諳んじている夢璃の番号を打ちこむ。どうするつもりなのか、自分でもわからない。何かをしなくてはいけないという焦りだけがあった。電話して、呼びだして、それから……それから……。
5か6回ほどのコールのあと、
「はい?」
聞き慣れた元恋人の声が応答した。
「どうして出るんだよ、馬鹿!」
自分でかけておきながら、崇志は夢璃を罵倒して、電話を叩き切った。
彼女を誘いだそうとした己の行動に寒気がする。ぎりぎりで理性が働いたことに感謝した。
苛つくな。落ち着け。
深呼吸をくりかえして、なんとか冷静さをとりもどす。
このバス停に着いてから、明らかに精神状態がおかしい。離れたほうがいい、と本能が警告を鳴らす。
でも……。ここを出ても……。
実母はどこまでもついてくる気がする。それこそ京都までも。
だったらこの場で対決してしまえないか。そんな考えが……浮かんだ。
そうだよ。ここで実母さんを説き伏せることができれば、わざわざ京都まで逃げることはない。すぐにでも実家に帰ることができるんだ。
心が潰されそうな不安を払拭する期待を手に入れた崇志は、背を向けていた稲荷に踵を返した。
実母さん、姿を見せてくれ。俺、言いたいことがたくさんあるんだ。
心の中でそう念じながら、ひび割れた木目を晒す鳥居をくぐる。
両脇の鎮守の森からは重い気配が迫っていた。
すぐに足が止まる。午前中の雨で濡れた石段には、黒い水の影が張りついていた。底冷えがきつい。鳥肌が止まらない。
寒いからだ。実母さんを怖がる理由なんかない。
惨めに震える指先を抑えこみ、強引な言いわけで自分を励ました。段上に目を移すと、昨日の夢璃の豹変した顔が嫌でも浮かぶ。目をきつく閉じて溜息を吐きだし、また石段を上る。
声が聞こえた。若い女の笑い声。気のせいかもしれない。
地を這いまわる足音も感じた。でも気づかないふりをする。
実母さんはどんな姿で現れるだろうか……。夢想する。事故死前の母親として? それとも死んだあとの……?
そうだ、と思い至る。持衰は実母が『動物のような形態になっていた』と言ったらしい。太い尾を持ち先鋭な口をした獣の姿態。
「狐……に化けちまったんだろうか、実母さんは……」
早川家の中で、死者の己の存在が消し去られる悲しみを募らせていた実母。ここに祀られた荼枳尼天は女の願いを叶えるという。実母は崇志に連れ添ううちに、寂しさややりきれなさから、この女仏に依存していったのではなかったか。
唐突に、強い同情に引きこまれた。
「……そっか。実母さんはあっちで独りなんだよな……」
復活した思慕の情が、あっという間に心を占める。
腕に何かが絡んだ気がした。視線を落とすと、薄蒼い指の影が左手首を掴もうとしていた。
ぎょっとしてふりはらう。
「あぶね……」
事故のとき、実母は崇志の腕を握ったまま絶命した。その瞬間の彼女の意識が、いま、鮮明に頭に流れこむ。『一緒に来て』。
死者に引きずられるわけにはいかない。俺は家に帰るんだ。
口の中で決意をくり返す。何度も何度も。
境内に立った。相変わらずの閑散とした光景が広がっている。
そういえば、と気づき、崇志は本殿に向かった。晴彦が破ってしまった神札はそのままだろうか。本人が宮司に、直接、連絡すると言っていたが。
もし、本殿の中に荼枳尼天の真言札が復活しているのなら、もう1度それを破損することで、実母に憑いた狐の効力を弱めることができるのではないか、と思った。実母の怨念自体は崇志が受けとめなければならないけれど、女の執念を食い物にする羅刹女は、実母から引き剥がしておきたかった。
荼枳尼天を調伏する力を持つ大日如来を、印呪で身近に置いてから、扉を開ける。
中は空だった。破った札さえ入ってはいなかった。
「戻しておかなかったのか、東海林」
荼枳尼天にとり憑かれた元恋人は、渡された札を持ち去ったのだろうか。神域から離せば心霊の効力は薄れる。それを許したということは、夢璃の中の荼枳尼天は、昨日のショックで完全に抜けたとみていいのかもしれない。
「まあ、それならそれでいいか……」
愛情は薄れきってしまった相手だが、いつまでも狐憑きの状態が続くのは気の毒にも思う。
気を取りなおして、空の本殿から離れ、崇志はそばの鳥居の礎石に腰を下ろした。
「実母さん」
闇の中に呼びかける。
「実母さんに成仏してもらうためには、どうしたらいい?」
決別を意図して語りかける。
返事はない。が、言葉を続ける。
「実母さんは、俺にも死ねっていうのかな? そこまでしないと満足できない?」
実母にとっては、最愛の息子と一緒にいたいというだけの感情なのかもしれない。けれど、彼女がしようとしていることは、崇志の生命を奪うことに繋がる。それを、まず、はっきりと伝えた。
「俺は、未だに俺が実母さんたちを殺してしまったと思ってる。だから、恨まれてとり殺されるなら……しかたないかとも思う」
父母とはいえ、他人の人生を潰してしまった罪を無視してはいけない。責任感からそう告げる。ただ、唇が恐怖という本能に従って震えた。
「だけど、もし実母さんが俺のことを少しでも考えてくれるなら……見逃してほし……」
選択に迷いつつの会話を、いったん、切り、
「違う、こういう言い方じゃなくて……」
と訂正する。
「少しでも俺に愛情を持ってくれるなら、俺に未練を残さずに、安らかになってほしい」
崇志の生死を握っているのが実母だと断定すれば、助かる方法は、彼女に懇願することだ。殺さないでほしい、見逃してほしい、と。けれど、それは実母の本心に無理を強いることになる。自らの情によって息子の人生の末を選び、納得してもらったほうがいい。
俎に乗った鯉に、将来を選びとる術はない。崇志は、自分を、あえてそんな心境に追いこんでいた。禍津神の脅威がどれほどのものかわからないが、さっきから、実母の術中にはまりっぱなしの己に抵抗する力などないことだけは理解している。
実母さんは俺を殺すだろうか……。
覚悟を決めているはずなのに、実母の温情にしがみつこうとする己の本音が腹立たしい。
実母さんが俺を殺したら、俺は、実母さんと一緒に成仏する羽目になる……。
母を慕っていたころのことを思いだして、溜飲を下げようとする。
でも。
無理だ……。
と悟った。
駄目だ。俺は死にたくない。やりたいことが残ってる。連れていかれたら、俺はきっと実母さんを恨む。実母さんと一緒にこの世に留まって、お互いが無くなるまで戦ってしまう。
顔を上げ、無言の母に向かって、
「実母さん」
再度、呼びかける。
「俺は、あんたとは行けない。あんたのことを、もう母親だとは思えない」
はっきりと決別を叩きつける。
ふふ……。
耳元で女の笑い声がした。嘆きではなく愉悦の声だった。
嫌な子。自分勝手な子。やっぱり連れていかなきゃだめね。母親として一生付き添ってあげなきゃ。
大義名分を与えられた悪意が、場に満ちる。
母の意思というより、それは、人間の中に潜む負の感情の凝縮のように思えた。荼枳尼天という女仏は、女の情念を使って祟りを起こす。その多くが、他人への過度な執着を持ちやすい女性を助長させる結果になっただろう。
息子に未練を残す実母が、この女仏に融合してしまったのなら、もう説得することは無理だと、崇志は感じた。
礎石からそっと立ちあがると、荼枳尼天の棲家から逃げるように石段を駆けおりる。
ここに来たのは、実母と話をしてみたいという願いもあったからだ。けれど、こけおどしのような現象を見せるだけで、彼女は姿を現さない。それでは歩み寄ることもできない。
もういいや……。
一方的に実母を悪として退魔の呪法を施すのには抵抗があったが、もう迷いはない。
京都に行こう。そして、本気で実母さんの除霊を祈ろう。
実母を悪霊として『処理』する決意が固まる。
※『印呪』とは、仏を表す手の形(印)と言葉(真言=呪)のことです。大日如来は『智拳印』という宇宙(地球上の生き物も含めてのすべて)の秩序を表す印を結んでいます。




