薄明
腕時計を持たない崇志は、携帯の表示で時刻を確かめた。晴彦と別れてから、妙に長いときを過ごした気がしたが、時計はバスの到着時間に至っていなかった。
独りになったことで過敏になってるのかもな……。
自分の臆病さを叱咤する。目を上げれば、何台もの車が通りすぎているのだ。そのひとつひとつに人間が乗っている。もし、実母が自分に何かを仕掛けても、周囲に助けを求めることは容易なはずだ。
そういえば、晴彦と別れる前に、こっちに向かってくる集団の声を聞いたような気がする。若い青年たちの喧騒だった。首を巡らす。が、周囲に人の姿はない。
……車、どうして動かなかったのかな……。
あんなふうに不調を訴えることは、いままでになかった。特に手をかけているわけでもないが、中古なりに丁寧には扱っている。ルームライトでも点けっぱなしだったのか……。
もう1度、携帯の画面を見た。さっきから2分が経過した。
「ただ待ってるから、苛つくんだよ」
荷物を肩に担ぎなおすと、崇志はバス停を離れた。実家から遠くはないこの場所に、いつまでも留まっていれば、持衰に追いつかれる。気が急いて、次の停留所まで歩くことにした。
幹線に沿って進みながら、不慣れにバス停を探す。実家にいるときにバスを使うことは、ほとんどなかったからだ。美耶が隣町の病院に入院していたときに、頻度を増した程度だった。
あのときの美耶は……。
当時の、持衰との混同が激しかった妹の様子を思いだす。
薄青く色づいた壁の病室には、文字通り、何もなかった。自殺の可能性のある患者が収容される部屋だったからだと、病院側は説明した。鉛筆一本、メモ帳の1つも置かれない殺風景な部屋で、家族には想像もつかない過去を語る持衰。それが、ある日、おどおどとした、それでいて人懐っこい目をした美耶の顔で『お兄ちゃん、お兄ちゃんが大学に行っちゃわないうちに、あたし、まともになりたい』と言った。こんな精神状態はいやだ。正常になることを望んでいるのだ、と。
俺……どうして美耶を置いて、京都なんかに行っちまったんだろう……。
いまさらながらに湧きあがる後悔。もし、崇志が、自分の都合を捨てて妹を優先していたら。父母とのぎくしゃくした関係を独りで我慢させる必要もなかったし、夢璃の悪意から始まった高校でのイジメを誘発することもなかったはずだ。
「あたしのことどうでもいいんなら、さっさと京都に帰っちゃえばいいじゃない」
昼間に美耶が見せた本音。崇志が家からいなくなることを彼女は望んでいなかった。おそらくは『自分のためにお兄ちゃんに残ってほしい』とのわがままが言えず、表情にも態度にも出さなかっただけなのだ。
俺……本当はどうすればいいんだ……。
止まらない自問が頭を巡る。
このまま京都に行っていいのか? それが美耶のためになるのか?
自分がいれば持衰に負担をかける。その事情はわかっている。でも、それを苦にして『妹の逆境』から逃げることは、本当に最善のことなのか。今度も、俺は間違った選択をしてるんじゃないのか……。
「……ああ、くそ。やっぱり、ちゃんと話してくればよかった」
晴彦の膳立てに遠慮して、持衰や美耶と顔を合わせることなく家を出てきてしまったことを、強く悔やむ。
考えごとをしながら、ただ幹線沿いを歩いていたことが功を奏したのか、目的地のバス停までは迷うことなく辿りつけた。ただ。
顔を上げた崇志は、幹線から右に伸びる小路のつきあたりに、嫌なものを見つけた。
深まる宵闇に禍々しい威容を溶かす、朱の鳥居。
『稲荷神社前』。そう。それが、このバス停の名前だった。
「……気づかなかった」
よりによって、昨日、障りを経験したばかりの場所に近づいてしまった自分の迂闊さに歯噛みする。
夢璃に発現した稲荷の祟りは、おそらく実母とは関係ない。実母の怨霊は、事故死したあとから崇志につきまとってきた個人的なもので、祟り神との関連性は薄いと思えるからだ。ただ、持衰は、夢璃が崇志に負わせた『瑕』から禍津神が入りこんだ、と言った。崇志の体の中には、実母の念がひそんでいる。
なぜ、ここに向かったんだろう……。
先刻からつきまとう不快感に、答えを見出しそうになって、崇志は慌てて首を振った。
突然の愛車の故障、バス待ちをつきあうと言った晴彦を追い返した己の強引さ、声だけの集団に対する不安感から前のバス停を離れてしまった心理。これは、もしかしたら、実母の誘導ではなかったか……。
……帰ったほうが……。
その選択肢が思考を占めた。体を反転させ、実家へと踏みだす。
その瞬間、思いとどまる。
駄目だ。もし俺の行動が実母さんに操作されてるんなら、そんな状態では帰れない。実母さんの被害を広げるわけにはいかない……。
実母とともに実家に戻れば、内包する蛇神を使って自分を救おうとしている持衰に負担をかけることは避けられない。崇志自身には、いまひとつ、蛇神の脅威がわからないが、事情通の晴彦があれだけ危惧するのは、それなりの理由があるんだろう。自らの行動が広げる波紋には十二分に気をつけなければならない。
だから。
京都に、自力で、行くしかないのだ。
「……大丈夫だって。自分の母親じゃないか」
空元気で、そう景気づけ、稲荷に背を向けて、バス停に立つ。
「俺は実母さんには負けない。京都に無事に着いて、祈祷を受けて、この休み中にまた帰ってくる」
己を束縛する実母に対し、不愉快とも怒りとも取れる感情が、青年の心に芽生えはじめた。




