荒神と悪心 1
玄関扉の開く風圧と、それから晴彦の、
「ただいま」
の声が聞こえた。
「あら、ハルくん」
美律子が状況を失念してドアノブを回す。が、動かない。
「あらやだ……。ねえ『美耶』、もういいんじゃない? ドアを開けて」
ふり返り見た、娘の姿をした持衰は、頬を膨らませて顔を背けた。
「駄目だ」
何を依怙地に……。父母と兄は顔を見合わせる。
「病院に連れていかれるのが嫌なのか? それとも食」
持衰の機嫌を窺って、崇志が尋ねる。けれど言い終わらないうちに、
「ここはいまカガ神の神域に浄めてある! むやみに外の世界と繋げば不浄に侵される!」
と捲し立ててきた。
カガ神。聞き慣れない言葉に戸惑う父母よりは、多少知識のある兄が、その先の説明を求める。
「神域、というのは、ここが神社のような空間になったと思えばいいのか?その……カガ神とやらを降ろすための」
持衰は巫女の役割も持っていた、と晴彦は言った。その巫女が『カガ神』という神と交信するために、この部屋に結界を施した、ということだろうか。
「そうだ。カガ神は特に不浄を嫌う。招魂している間は外のものと触れてはならない」
言いながら、持衰は父親の元に歩み寄り、その手から子機を奪い取った。
「これも駄目だ。迂闊なことをすれば、我が身が危うい」
さっきから、子機に異常な執着を示すのは、外界と接触することによって、持衰自身の進退に重大な結果が及んでしまうかららしい。
階段を上がる軽い足音。
「お母さん? 崇志兄?」
訝しげな少年の呼びかけが聞こえる。
「返事はしても無駄だ。ここの音は聞こえない」
断言する持衰の声には、けれど、過剰に力がこもっていた。
「……晴彦と接触すると、お前は……もしかして『消える』のか?」
ここが完全に外界と分離されて、働きかけもできない状態であるのなら、さっきの持衰の『自分は消えたくない』と泣き喚いた態度は不自然だ。つまり、自己保身のために嘘をついている可能性もある。
「消えてもまた出てくる! そのたびに『ミヤ』と入れ替わらなければならない! 無駄なことをくり返すな、愚か者!」
ドアの脇に立って晴彦を迎える気配を見せている崇志に、跳びかかる少女の体。
ビーン……と空気を震わせる音が響いた。弦を弾いたような振動が伝わる。それほどの音量ではないのに、窓ガラスがびりびりと震えた。机の上の小物が転がる。
兄が、
「晴彦、ここだ」
と答えた。
「美耶ちゃんに何かあったん?」
心配げに声を潜めてはいたが、少年は正常に呼応した。
そしてドアノブが回る。
けたたましい悲鳴を上げた持衰は、逃げようとしたのか、窓に飛びついた。ガラスを叩き割ろうと振りあげた手が、無機質な透明の表面に触れたとたんに弾かれる。すぐそばにいた父親には白い火花が散ったように見えた。
「放せっ! カガ神に捕まる。放せっ!!」
激しく暴れる少女を兄と父が2人がかりで抑えこむ。
室内の異様な雰囲気に、恐る恐る顔を覗かせた晴彦は、一瞬だけ、大量の蛇が床や壁を埋め尽くしている光景を見た。
それが消えると、今度はぐったりとした様子の美耶が、床に座りこんだ姿に目を留める。
開けたドアの陰から、母親の場違いな声がかかった。
「お腹空かない?」
「え? あ、そ、そうですね」
反射的に壁の時計を見る。13時10分。
「支度してくるわね」
何事もなかったかのように部屋を出ていく美律子は、最後に気の抜けたような娘をふり返って、
「持衰ちゃんにも、ちゃんとした生活をさせてあげないとね」
と笑った。




