母子
「困ったわねえ」
一向に困った様子のない母が、緊張感のない声を上げて座りこむ。美耶の部屋のドアノブを、さっきから何度も回しているのだが、ロックされたように動かない。
「病院は嫌だ」
兄の膝の上で拗ねたように言う持衰は、少女と同じ顔、同じ意見なのに、まったく違う存在として、そこにいた。
腰まで伸ばした長い髪は、美耶のものだったときは、綺麗に整えられ艷めいていた。いまは栄養失調独特のぱさぱさとした質感で痩せぎすの身体を覆っている。白い顔は、猜疑の強い、けれど、幼く人懐っこい表情を浮かべる。声は甲高く、言葉は端的だ。少女のすぐ口ごもるアルトの声質とは明らかに異なっていた。
再度、母が、
「そろそろお昼ご飯の支度をしたいんだけど」
と、部屋を出たい要望を伝えた。が、持衰は、
「食べたくない」
と即座に拒否した。
「お前はいいかもしれないが、それじゃあ美耶がもたない」
崇志が諭しても、
「食べたくない」
とくり返す。
はあ、と溜息をつく父母と兄。
中身が妹だったときには、好んで近づいてこなかった美耶の肉体は、いま、崇志の傍らから離れようとしない。少女に頼ってもらうことを切望していた兄としては、中身が別人格であるだけに、複雑な気分を隠せなかった。
「……美耶は、いま、どうしてる?」
持衰の存在の奥で悲しんではいないだろうか、と気になって尋ねると、持衰は、
「寝てる。起きても、『おれ』と入れ替わることはできない」
と答えた。
「ずっと、このままじゃねえだろうな」
妹の人格が消滅させられてしまうのではないかと危惧すると、
「お前の荒魂を追い出すことができたら替わる」
と説明した。
自分の中に荒魂が入りこんだ。崇志には、その意味がわかるような気がした。仏教の世界でも『荒魂』すなわち『悪い影響を与える神仏』という存在は認知されている。荼吉尼天や鬼子母神などは、羅刹や夜叉と呼ばれる悪鬼の1つで、多くは『善良な仏』によって躾け直されて、和魂へと改心している。
つまり、改心前のそれらは『荒魂のまま』の存在なわけだ。昨日の稲荷神社で接触した荼吉尼天などは、典型的な例だと言えるだろう。
「俺が、まだ荼吉尼天にとり憑かれてるってことか? そんな自覚はないけどな」
大日如来の加護によって調伏したはずだ、と反論すると、持衰は、
「それではない」
とだけ答えた。
「他に?」
荼吉尼天以外に荒魂と遭う機会などあっただろうか。覚えがない。
「……よくわからん。でも、それが俺から出ていったら、お前も美耶から出ていくんだな?」
念を押すと、
「違う。『おれ』は他に行くところがない。表から消えるだけだ」
と、持衰は子どものようにムキになった。
階下で電話のコール音がした。親機のほうが鳴っているようだ。
所在なげにしていた父親が、ふと気づいたように、電池の分離した子機を拾いあげた。
「壊れたわけじゃないし、電池さえ戻せば使えるんじゃないか」
そう言って、すぐそばに転がる充電池に手を伸ばす。
普段は緩慢な動作の美耶の体が、思わぬ速さで滑りこんで、父から子機をひったくった。
「これは駄目だ」
抱きかかえて渡すまいとする態度に、父の推測の正しさが見て取れた。
「いいから渡せ」
崇志が手を伸ばすと、
「『おれ』は消えたくない」
と、持衰はいきなり泣きだした。
困惑する父母と兄の耳に、コール音の鳴り止む瞬間が届く。
母親が、娘だった存在のそばに近寄り、そっと頭を撫でる。
「ずっと、我慢してたの?」
同じ肉体を有しながら、誕生を歓迎された美耶と否定された持衰。
「貴方も美耶だものね」
歪んだ人格を受け入れるように、柔らかく少女を抱きしめる。
持衰は安心したように母に身を預けた。幼児のような甘えた表情が顔に浮かんだ。
子機が腕から転がり落ちる。が、誰もそれを拾わなかった。
熱を帯びた呟きが口から漏れる。
「この家は『おれ』の家だ」
「そうね」
と微笑んで肯定した母親は、顔を上げて、
「でも、そう思ってくれない家族もいるのよ」
と、義息子を見て言った。
「ずっと欲しかった男の子だったんだけどね」
彼女の言葉の意味が、崇志自身にはよくわからない。
「しかたなく引き取ったんだろ?」
家族の事情を知らない美耶の前だから明言は避けるものの、ずっと引っかかっていた本音を暗に吐露する。親を失って可哀想だったから引き取った。義務感から家族を続けた。父母にとって、自分とはそんな存在ではなかったか。
「お前はもっと正直に話したほうがいい」
持衰は、母親に対して、そう忠言した。
「やあね、この子は。知ってたの?」
珍しく驚きを露わにした母は、
「美耶よりよっぽど出来がいいわ」
と3人目の我が子の頭を自慢げに抱えた。
持衰は長時間発現することは難しいようだった。すぐにベッドにもたれて寝息を立て始める。
「こんなところまで美耶そっくりね」
何をするにも体力が続かず、行動と睡眠の比重をおかしくしている娘を憂いながら、母親は義息子の対面に移動する。
念のため、父親がドアノブを調べたが、持衰の呪縛は解けていなかった。子機に電池を戻しながら、けれどなぜか外界へ連絡を取ることもせず、彼も離れた場所に座す。
崇志にとっては妙に気詰まりな状況だった。出家をすると決めてから、幾度も父母とは話し合いをしてきたが、大方は自分の意志を通すだけの内容に終始してきた。父母、特に母が、自分の想いをぶつけたことはなかったと記憶している。
義姉さん……崇志の本当のお母さんはね、彼女の話はそんな言葉から始まった。
「ヒステリックっていうか、少し思いこみの激しいところがあったの。崇志が生まれてから特にハッキリしてきたそうなんだけど、義兄さんにも貴方を抱かせないぐらい、母子で引きこもってしまったんですって」
父が、それは兄から直接聞かされていた、と補う。
「虐待をしていたとか言うんじゃないの。ただ、大事にしすぎたんでしょうね。他の人に崇志を任せるのが怖かったみたい。でも、子どもってそんな環境で育てたら可哀想じゃない? 貴方も、お母さんの影響で、ずいぶんと神経質な子になってしまっていたみたいよ」
まだ幼かった青年には、当然、そのころの記憶はない。けれど、実母の面影に比べて、実父の姿というのがまったく印象に残っていないところから、あり得るような気がした。
「そんな子ども、よく引き取ろうと思ったな」
改めて父母の人の良さに感謝すると、母は苦笑して首を振った。
「違うわよ。その話を聞いて、私は義姉さんからあんたを保護してあげたいと思ったの」
意外なことを言い放つ。
驚く息子に、父が続けた。
「母さんはずっと、『崇志がうちの子になってくれたらいいのに』って言ってたんだ。そのころ、母さんは不妊治療を受けていてね。子どもが欲しくてしょうがない時期だった、というのもあるかもしれない」
だから、お前が我が家に来ることを、俺たちはずっと希望していた、と伝える。
母は次の言葉をちょっと逡巡したようだった。わずかの沈黙のすえ、告白する。
「義姉さんが亡くなったとき、私、怖かったのよ。崇志をうちの子にするために、義姉さんがいなくなることを、心のどっかで望んでいたんじゃないかって。崇志を引き取ることができたあとも、本当に喜んでいいのかって迷ってたわ」
夢璃が交際を求めてきたときに、ひどく嬉しかったことを、崇志は思いだした。誰に対してもお荷物でしかなかった自分の立場が、初めて必要とされたのだから。
けれど、いま、母に『うちの子になってほしかった』と言われて湧きあがった感情は、夢璃のときの比ではない。自分の存在が望まれていた? 自分がここにいることを家族は歓迎していた?
「義姉さんの名前を覚えてる?」
唐突に話題を変えた母に、戸惑いつつ、息子は答えた。
「美律子……」
「それは私の名前よ」
母は笑った。
「え、でも……」
そんなことはありえない。めったに呼ぶことはないが、彼女には別の名前がある。
「母さんの名前は安江じゃないか」
と反論すると、
「それが義姉さんの名前なの」
思いがけない答えが返った。
わけがわからなかった。崇志が名前を取り違えて記憶していたということだろうか。でも、小学校や中学校で、何度も母のことを『早川安江』と紹介した。そのたびに、母は当たり前のように受け入れていた。
美律子、安江。交互に呟くが、そこから想起される顔は、遺影の中で微笑む鋭い輪郭の実母と、目の前の穏やかな養母に違わない。
「私が、わざとそう教えたの」
母は、少し悲しそうな表情で明かした。
「崇志は、安江さんが亡くなったあとも、ずっと慕っていたでしょう? 私に入りこむ余地はなかったし、なによりも、安江さんを疎ましく思っていた私が、崇志のお母さんになるなんて、考えちゃいけないことなのかと思ったのよ。だから、私は安江さんになることに決めたの。そして、あんたをちゃんと大学まで出して、社会人にしたら、養育者としての私から本当の母親の安江さんに返そうと思ったの」
卒業と同時にお前の籍を抜くつもりだった、と、父親が言う。僧侶として我が家から独立する道を選んだお前の意志を尊重するには、そこまでしてやらないと駄目だろうと覚悟していた、と。
安江、安江。何度も頭の中でくり返す。実母はどんな人間だっただろうか。どんなふうに赤ん坊の自分の世話をし、どんなふうに愛情を注いだのだろう。そして、生きていれば、どんなふうに入学式に参加し、どんな進路を喜んでくれただろう。
……駄目だ。崇志には、実母の生存している姿がまったく想像できなかった。安江、に上書きされて思いだされるのは、懸命に母であろうとした美律子の努力の跡だけだ。測るたびに順調に伸びていく身長に『また服を買い替えなきゃ』と言いながら目を細めて喜んでくれた姿。幼い妹を後回しにしてまで『あんたのほうが大事』と構ってくれた姿勢。
せ……、と言いかけて、養父母の顔を見回し、溜息をついて俯いた。絞りだす声が掠れる。
「籍は……抜かないでほしい……」
なんとかそれだけを伝えると、母が期待のこもった声で返した。
「それでいいの? うちの子どもでいてくれるの?」
実母はどう思うだろうか。そんな罪悪感がちらっと頭をよぎる。崇志に全霊を傾けてくれたであろう彼女を殺してしまった自分。その自分が、新しい家族の中で幸せになることは許されるだろうか。
それでも。
この早川の家の一員になることは、いまの父母の期待に応えることになる。
妹の力になることができる。
なにより。
「俺、本当はここにいたかった」
本心がごまかせない。この人たちと他人になるのは嫌だ、と思った。
ふと背後に体温を感じてふり返ると、少女の白い顔が背中越しに見据えていた。
「そうだ。迷うな」
古代の巫女が、そう諭す。
「死者を抱えるのは間違っている。死者は地の国に還すものだ」
凛とした声でそう言いきる。




