蛇神の怒り 1
翌日は朝から雨だった。今年もあと2日で終わりを告げる。
朝食の支度を手伝っていた晴彦は、崇志に手招きされて、食卓になっている居間に入った。他には父親のみで美耶の姿はない。
「美耶の中の持衰の言ってたことなんだけど」
着座するなり、そう兄は持ちかけた。父親も深刻な視線を向ける。
「いままでは半信半疑だったんだ。持衰そのものが、美耶の創りだした妄想かもしれないと思って。でも、昨日の経験を考えたら、やっぱり憑依に関しては、真剣に取り組んだほうがいいと思う」
兄の前ふりを受けて、父親が切り出した。
「美耶が自分の寿命だと言っていた『次の祓え』というのは、明日で間違いないのかね?」
重い沈黙が流れる中、1人で頭をフル回転させていた少年は、ゆっくりと顔を上げた。
「大祓、と呼ばれる日は、1年に2回あります。6月の『夏越の祓』と12月の『年越の祓』。どちらも、月末の日を言うから、年越の祓は明日で間違いないんやけど……」
大祓って言ったら本来は夏越の方を指すんですよね、と付け加えた晴彦は、でも、と続けた。
「持衰さんがそれを言ったのは、12月に入ってすぐのころでしたよね。だったら、タイミング的には年越の祓を指してるんやないかと思います。夏越だと油断するわけには……」
「そうだな。明日だと用心しておいたほうがいいな」
崇志も、非歓迎な様子ながら、同意した。
持衰の通告した『次の祓えにて我が身を屠る』という言葉。これは、持衰が美耶の肉体に危害を加えるという意味だろうか。それとも。
「持衰さんに憑依した蛇神が祟りを成す、って意味なんだろうか……」
そこが晴彦にもよくわからない。そもそも、ずっと封印されていた蛇神が、なぜ、今年になって、そんなに猛威を振るう羽目になったのだろう。美耶自身が蛇神に何かした、という事実があるのだろうか。
もし、美耶と蛇神に接点があって、蛇神の祟りが彼女に及んでいるのだとしたら、その接点をもたらしたのはどこか。
「崇志兄……、美耶ちゃんが自殺しにあの丘に行ったときのこと、詳しく教えて」
まず思い当たるのはそこだった。美耶が自殺未遂をしたのは中学1年生、もう5年も前のことだが、祟りの影響というのは一朝一夕に現れないことも多い。ずっと継続してきた負の関係が、今年に入って強められたのかもしれない。
「いいけど、晴彦が知ったこと、美耶には気取られるなよ」
兄は不思議な条件を出した。
ちょうど5年前の12月。学校が冬休みに入ったころのことだ。当時、リストカットや家庭用薬剤の飲用未遂を繰り返していた美耶に対し、気を引く目的だろうと、両親も愛想を尽かし始めた。そんな最中のある深夜、0時を回った時刻に、崇志は玄関のドアが開く微かな音と風圧を感じた。
妹の愚行が、たとえ思春期特有の甘えから来たものだったとしても、兄は両親のように、それを平気で看過できなかった。この寒空の中を徘徊しに出ていった美耶の心情を思うと、胸の詰まるような重苦しさを感じたからだ。
探索を渋る両親を捨て置き、自身も外に飛びだした彼には、すぐに妹を見つけることはできなかった。すでに姿を消して10分程度が経っていた。住宅街を探しまわり、郊外にある稲荷神社にまで足を運んだが、行方は杳として知れない。
いったん家に戻り、父親を急かして車を出させた。すぐに見つかるものだと油断していた父も、息子の探索が長引いていることに不安を感じていたから、協力は惜しまなかった。
住宅街とは反対方向に進路を決めた彼らが、一直線にその丘に辿りついたのは、偶然だったのかもしれないし、朧な生にしがみつく少女の導きだったのかもしれない。
崇志と父親が自然公園の駐車場に車を入れたとき、そこにはもう1台、ワンボックスカーが置かれていた。ごくたまにだが、住宅街の住人が自宅の駐車場代わりに使うという話は聞いていたから、彼らは気にもせず、公園内に足を踏み入れた。
暗い山中を二手に別れて歩くうちに、兄は中腹を蛇行する藪道に迷いこんだ。小道はやがて完全な裏手に至る。そこは公園として整備されたエリアとは隔絶した場所だった。足元は泥地。枯れた葦原の向こうには、樹木に覆われた黒い沼が淀んでいた。
葦原に入りこまないように、迂回して沼を周るうちに、崇志の目は、闇に慣れて周囲が見渡せるようになっていった。そのころはまだ10代だった身体能力の高さが幸いしたのかもしれない。
その視線で沼の淵を辿っていき、対岸あたりまで行き着いたときに。
白い裸身を泥の中に横たえる少女の姿を見つけることができた。
細い首に浅く絞首の痕を残した美耶は、兄の呼びかけに、すぐに目を覚ました。体が冷え切ってうまく喋ることができない彼女は、盛んに何かを訴えようとしていた。
上空を仰ぎ見て、大きくせり出した太い枝が手の届く位置にあるのを確認した崇志は、美耶が首吊り自殺を謀った末に失敗したのだろうと結論づけた。
自分の服を与えながら、なぜ着衣をまとっていなかったのかの疑問を強引に封じた。なんだか、知ってはいけないことのような気がしたからだ。
食の細いひ弱な肢体を背負い、山中を抜けている最中、美耶は兄の背中で呟き続けた。
「あたし、戻ってこれるかなあ……」
家に戻る、ということなら、叶えてやれるが、妹の言う意味はそれではない気がした。
「また探しにきてやるから」
と曖昧に請け負うと、礼を言ってから、美耶は。
『別人』になった。
名前を呼ばれても反応せず、古代の風習を自分の体験のように話した。『ジサイ』という名前を初めて口にしたのもこのときだった。
だが、家族が本当に震撼したのは、この現象ではなかったのだ。
美耶を保護し、精神科に入院をさせている間に、警察が事情を聞きにきた。少女が発見された沼から男の遺体が上がったのだという。駐車場に残された車から身元を洗うと、犠牲者は性犯罪の前科を持っていた。
幸い、病院での検査結果から、美耶は被害を被っていないことが断定された。が、無関係と言い切るわけにもいかなかった。犠牲者の体に彼女の着衣が絡みついていたからだ。警察は、その衣類が男の行動を制約して溺死に至らしめたのではないか、との見解を持っていた。
説明を終えた崇志は、
「正直、当時は美耶が怖かったよ。でも、少しずつ、あいつが『戻ってくる』につれて、そんなふうには思わなくなったけど」
と苦笑いした。父親も、それからいつの間にか寄り添っていた母親も、複雑な笑みを返している。
「それで、持衰さんに対して、みんなは否定的やったんですね……」
美耶がずっと訴えてきた持衰をいう存在を、強固に受け入れない早川家に疑問を感じていた晴彦は、やっと溜飲を下げた。
美耶の中のシャーマンは、恐らく己の肉体に害を為そうとした男に対して、何らかの対抗措置を取ったのだ。それは、持衰の片鱗に触れていた晴彦にとっては、簡単に辿りつける結論だった。石積邸で崇志に頭痛を引き起こした念動力。美耶の中にいながら、別の思念を電話越しに送ってきた感応力。その能力は常人離れしている。自分に危機を与えようとしていた人間を屠るぐらいは楽にやってのけられたのではないか。
そうか、と、少年の中で先の疑問に対する答えが結んだ。美耶を破滅に導こうとしているのは、やはり蛇神のほうなのだ。強い祟りを引き起こすために封印されていた黒い神は、自分の聖域で人を殺めた持衰に激しい怒りを持ったのだろう。呪いの波動を持衰に向けて放ち続け、それが結果的に美耶の存在をも危うくしているのではないか。
『今年の大祓』という期限がどこに起因しているのかはわからないが、とりあえず、
「蛇神さんに謝ってこんと」
と独り言を呟く。その言葉に対して、
「蛇神?」
と他の3人の質問が重なった。
続いて、
「おはよう」
美耶が眠そうな顔で登場する。
「まだ眠いの?」
母親の慌ててとり繕った明るい声をきっかけに、この話題は散会した。




