兄の氷解
総合病院の待合室は救急患者で溢れかえっていた。年末診療の弊害に耐えていた美耶は、やがて、
「眠い。診察で呼ばれたら起こして」
と兄の膝の上で寝息を立て始めた。
稲荷からここまで運転してきた父親に、晴彦は、やっと、すべての事情を説明し終える。夢璃の非ができるだけ重くならないように配慮した少年の話に、ときどき笑顔を交えながら聞き入っていた父親だったが、相手の名前が出たとたんに表情を曇らせた。
「東海林さん……というのは、崇志の高校時代に仲良くしていただいた娘、かな?」
「はい……」
その変化に晴彦も慎重な返答を返す。確認のために崇志を見ると、青年も訝しげな顔を向けた。
「そうだけど、俺との交際のことと今回は直接関係ない」
「いや、ちょっと他にもあってね……」
言葉を濁す父親に、
「何ですか?」
と少年が尋ねると、彼は、娘と息子の顔を交互に見たあと、こう言った。
「うん。実は、美耶が高校に行けなくなったのは、その娘が原因らしいんだ」
崇志が大学に入り、早川家から家族が1人消えて、2年が経ったころだった。無事に高校に入学した美耶は、憑依による発作も収まり、落ちついた生活を取り戻していた。
だが、夏休みに入る少し前、フラッシュバックのように、1度、大きなトラブルを起こす。学校で暴れ、窓ガラスを叩き割って、血まみれの状態で病院に運ばれたのだ。あと2センチ傷が深かったら動脈を切っていたと聞かされた両親は、止血剤と鎮静剤を投与されてベッドに横たわる娘を怒鳴りつけないように、必死に抑えたという。
父親は、混雑する待合室では聞き取れないほどの小さな声で、
「美耶は自分のことをあまり話さないからな」
と言い訳したあと、
「病気のことを学校で言いふらされていたらしい。それをずっと気にしていたんだ。そのことを聞いたのは、夏休みが終わるころだったがね」
自嘲した。
治療と自宅療養を重ねて、そのまま夏休みに突入した美耶の元に、クラスメートが足繁く見舞いに通ってきた。当時、美耶の凶行の原因を知らされていなかった父と母は、娘の人望が厚いことを、素直に喜んだ。熱心に通う一団を家に上げ、引きこもりがちな娘との対談を促した。
その中に夢璃の妹がいた。
「お姉ちゃんが崇志さんと会いたがってるんですよお」
と屈託なく世間話をしていく少女に、両親は、まったく警戒を抱かなかった。
夏休みの終末、憔悴した美耶が、しぼり出すように訴えた。
「学校、もう行きたくない。東海林さんに、毎回、病気のこと責められるし。あたし、病気じゃないのに」
父親は、安心しきった寝顔で兄に身を任せている娘を見やって、表情を緩めた。
「東海林さんに美耶の病気のことを伝えたのは崇志だったんだろう? それは、すぐに想像がついたよ。美耶もわかってたみたいで、怪我のことをお前に連絡するな、と言っては、母さんと喧嘩をしてた。母さんは母さんで、お前から、美耶の様子は全部報告してくれ、と言われていたからな」
間に入るのはなかなか辛いものがあった、と茶化す父親に、兄は微動だにせずにうなだれていた。
その様子に、晴彦は内心でフォローを始めた。でも崇志兄だって誰かに相談したかったんやと思うし。お父さんもお母さんもいい人やけど、崇志兄の悩みの当事者って立場だったから、簡単に愚痴はこぼせんかったと思うし。
「……崇志兄は、きっと、誰かに聞いてほしかったんやと思いま」
少年が言葉に出しかけると、それを遮って、
「すみませんでした」
と、崇志は頭を下げた。
「美……娘さんをそんな目に遭わせて、すみませんでした」
と重ねる。
父親は息子の頭をはたいて、
「母さんの予想どおりだ」
と苦笑した。
「こんなことを伝えれば、お前は絶対に実子の美耶に遠慮するだろうってね。だから、崇志にも、息子として叱るべきところはさっさと叱ってやったほうがいい、というのが、母さんの意見だったんだ。俺は、お前がそこまで神経質になっているとは思ってなかったから、黙っていることに賛成したんだが」
実子じゃないってそんなに重要なことか、と聞く父親に、崇志は、迷った素振りを見せたあと、
「早川家に馴染みたい気持ちは強いけど、実の親を忘れられないんだ」
と嘆いた。
2時間ほど待たされたあとの治療は20分で終わった。左耳を塞ぐように、大仰な包帯を巻いた美耶は、すっかり暗くなった駐車場の寒さに首を縮めた。朝方には晴れ渡っていた冬空は、いま、西に重い雲を呼んでいる。
母親との連絡係を請け負っていた晴彦が早川家に電話すると、母親が、ことさらに明るい声で、
「お節の味見をしてほしいから、全員、早く帰ってきて」
と告げた。
電話を切って、他の3人に内容を伝えた少年は、
「やって、崇志兄」
と笑いかけた。
腕を絡めてきた美耶が、
「寒いから早く帰ろ」
と促した。
未だ、沈痛な表情を浮かべていた崇志に、父親が、
「帰るぞ」
と当たり前に声をかけた。
俺はいてもいいのかな、との迷いを、青年は口中で噛み潰す。
「うん、帰る」
と答えると、
「もういなくなっちゃわないね」
と妹が嬉しそうに囁いた。




