持衰か狐か
自らも胸部に痛みを訴える崇志と、怪我人の夢璃を歩かせるわけにもいかない。一応、境内に裕貴の姿を探してはみた晴彦は、本格的にアシがないことを知って、しかたなく、早川家に電話をした。
母親の声が、相変わらず、のんびりした調子で応答する。
「はい? 早川ですけど」
「晴彦です。あ、えっと」
まず、確認。
「美耶ちゃん、どんな調子でしょう?」
「それがね」
受けた声音は朗らかだった。
「あれからすぐに落ち着いたの。何だったのかしらね」
ハルくんに任せたから安心したのかも、と笑って続ける彼女に、
「……あんまり力にはなれんかったようだけど……」
聞こえないように、少年は呟いた。背後から、
「あれはただの神仏オタク」
と悪態じみた説明を夢璃にしている崇志の声が聞こえる。
気を取り直して、車を回してほしいというこちらの要望を話した。崇志からは、
「心配させたくないから、階段から落ちたとでも言っといてくれ」
と言われていたので、そのとおりに伝える。
「ええ? もう、何やってるのよ、あの子は」
咎める母親に、内心で、本当に何やってるんでしょう、と同調して電話を切った。
振り返って見ると、夢璃が、崇志の膝に頭を乗せる形で甘えていた。青年の表情が緩んでいる。それが晴彦にとってはますます腹が立つ材料となった。
崇志兄は美耶ちゃん一筋と違うん? 急に現れたこの女性に、どうしてそんなに親切なん?
乱暴に足音を立てて2人の傍らにしゃがみ込むと、
「崇志兄、その人、誰?」
と剣呑な言葉を突きつける。少年の嫌悪を察したと思われる崇志は、少しだけためらったあとに、
「……俺の好きだった人」
と答えた。
夢璃の表情がパッと輝き、相対的に、晴彦は深い溜息をつく。
晴彦の同席を意にも介さず、夢璃は青年に抱きついて親愛表現を示しはじめた。いたたまれなくなって、少年は場から遠ざかる。まだ18歳の彼には、挑発的な女性の行動に気恥ずかしさしか覚えない。
不愉快な感情を抑えて、無人の社務所の前に進み、なんとなく本殿に視線を向けた。
さっきは直前でやめざるを得なかった稲荷神との対面。いまなら難なく叶う。
自然、足がそちらに向かう。
が、また気を削がれた。背後の手水から、人為的な水音が聞こえてくる。
ふり返ると、崇志が手水鉢の水で顔を洗っていた。表面に薄氷が張るほどの冷水を浴びているにもかかわらず、その表情にはぴりっとした緊張感の欠片もなかった。ぼんやりと中空を見つめ、それから、思い出したように袖口で水気を払う。
ちらっと夢璃に目をやると、座り込んだまま、満足そうな表情で鼻歌を歌っていた。細めた目が吊りあがっている。
そっと崇志に近づいて、晴彦は小さな声で話しかけた。
「なあ……。崇志兄、大丈夫か?」
「何が?」
質問の真意がわからずに聞き返す青年に、少年は、彼にしては珍しく、苛立った感情をそのままぶつけた。
「狐さんにとり憑かれてるんと違うかって聞いてんの!」
「わからん」
短く答えた崇志は、唐突に気の抜けたような笑顔を返した。
「でも気分は悪くない」
と続ける。
晴彦は不安になった。よく知っているはずの相手なのに、中身がごっそりと入れ替わっているかのような違和感を感じてしまう。
この場所を離れたのなら、通常の崇志に戻るのだろうか。そう考えると、早川家の迎えを待つ時間が焦れた。
そんな少年の焦りにまったく気づかない様子の青年は、陶酔とも呼べるような幸福の表情で、言う。
「俺、出家しなくてもいいかな……」
「へ?」
あまりに突然な転向に、出家を暗に否定していた晴彦も、思わず、
「なんで?」
と聞き咎めた。すると崇志は、
「東海林がさ」
と夢璃に向けて愛おしげな視線を送りながら、答える。
「俺と結婚したいと言ってくれてるんだ。あいつの家も寺には縁のない一般家庭だからさ。あいつと結婚するとなったら、俺、僧侶には絶対になれない。だから……」
「ちょ、ちょっと待って」
それおかしい、と続けて、少年は叱責に近い反論をぶつけた。
「崇志兄はどうしたいん? まずそこやし。坊さんになりたいって言ってたのは本心じゃなくて、本当は、実家に戻ってお父さんやお母さんや美耶ちゃんと暮らしたいって思ってるんと違うの? だったら崇志兄自身の理由で決めるんが筋と」
「うるさい」
一言で拒絶して、崇志は、また手水鉢に手を突っ込んだ。つめて、と苦笑しながら小さく嘆く。
何度か口を開きかけ、そのたびに、頭を振って目を閉じる彼。沈黙が終わるのを、晴彦も黙って待った。
微かに、夢璃の口ずさむ歌が境内に流れる。
冷水の鉢から真っ赤になった手を引き抜き、
「ごめん」
と謝った青年は、
「どうしたらいいかわからないんだ……」
と自嘲した。
「美耶がああなったのは俺のせいだ。俺が実家に戻れば、もっと悪化すると思う。それなのに、あいつは俺にいなくなるなって言うし……。だったら、東海林と一緒になって、実家には戻らずに、この近くで暮らすしか……」
夢璃との将来が打算であることを口にする崇志に、晴彦は、根本的な質問をぶつけた。
「そもそもなんで、美耶ちゃんの中に持衰さんがいることが、崇志兄のせいになるん?」
「美耶の中にいるのは、持衰じゃないだろ」
青年は肩越しに本殿を振り仰ぐ。
「狐か……稲荷か、よくはわからないけど、そういうものが憑依してるんじゃないのか」
「それだって、根拠はどこにあるん?」
確信めいた崇志の言動に、再度、疑問を呈すると、彼は爪先で地面を強く蹴りつけてから、重い口調で答えた。
「俺がそう頼んだからだよ」
口を開けて『阿』の形を示す狐の偶像。対面には『吽』を発するもう1体が鎮座する。
稲荷神の眷属を交互に眺めた晴彦は、
「こっち?」
と阿形の象の口中に手を入れた。
「そう」
真っ赤に塗られた毒々しさに微塵も臆さない少年の行動に、戸惑いを見せながらも、崇志は頷く。
「さすがにもう爪はないみたい」
紛れこんだ枯葉の欠片を摘みながら指を引き抜いた晴彦は、笑いながら、それを払った。
早川家の正規の子どもだった美耶を呪った崇志の心情は、一人っ子の少年にも容易に察することができた。その結果、知らずとはいえ、呪法まがいの行為をしてしまった青年の過ちにも、寛容に構えることは難しくなかった。
藁人形と五寸釘を用いた『丑の刻参り』などに代表されるように、日本には『呪いの儀』という形式が、未だに悪しき慣習として残されている。多くは陰陽思想などと一緒に中国から伝わったものだ。それらのポピュラーなやり方は、呪殺を願う相手の一部、髪の毛などを、身代わりの形代に入れて、その形代を破壊する。
崇志が乳児の爪を肉食の狐の口に入れたのは、呪法に替わる行為として、充分に成り立つもののような気が、晴彦にも、した。美耶が精神を病むという結果になった以上、自分の行いによって、『妹の人格が狐に食われた』という推論に、青年が囚われたとしても無理はないように思える。
「その理屈はわかるよ」
と晴彦は理解を口にしたが、同時に否定も投げつけた。
「けど、オレ、美耶ちゃんの中にいるのは狐とは思えん。確かに、今朝の美耶ちゃんは何かに憑依されてる感じではあったけど、なんていうか……、中にいるのは、もっと人間っぽいものじゃないかとイメージしてる」
足がないと泣いていた『美耶の中の存在』。身体が害されたとき、野生動物は瞬間に生存本能を高めて恐怖を忘れるという。ショックを受けて泣きだすという行為は、動物である狐の行動とは一致しないと感じられて仕方がない。
「だから、美耶ちゃんの中にいるんは、やっぱり持衰さんの生まれ変わりなんやないかな。崇志兄の呪術とは関係ない」
断言する晴彦に、
「でも」
と、まだ崇志は抵抗を見せた。
「だったら、狐は憑依したりしないのか? 稲荷は本当に祟ったりしないのか?」
狐憑きは現実にあるんだろう。この稲荷神社で起こったことを反芻して、少年はそっちも断定する。稲荷は祟った。その祟り神に、兄はかつて妹の排除を願った。美耶の異常が持衰のせいだとしたら、稲荷の祟りが及ばなかったのはなぜだろう。持衰という存在が、図らずしも、美耶に憑依しようとしていた狐を防いだということだろうか。
「東海林さんは、なんであんなふうになったん?」
狐憑きを、恐らく未だに体現している夢璃との違いを考える。
「もともと問題のある性格だったからかもな。美耶とは違う意味の、もっと人間的におかしい奴だった」
結婚までしようと言った相手を、容赦なくこき下ろす青年に、
「だったら、なんであんな親しそうな態度を取るん?」
苦笑する晴彦。
「俺以外に、あいつとつきあえる男はいないだろ」
真顔で夢璃を受け入れる崇志。
少年は2度ほど瞬きをした。そして、そのあと、
「まあ……、崇志兄らしい言い訳ではあるな」
とからかった。
裕貴に酷く罵られて捨てられた夢璃。それに同情する崇志。家族のそばにいたいという本心をさらけだしはじめた彼。夢璃と将来を重ねることで、どちらのメリットも満たそうとする打算。
大丈夫。晴彦は安堵する。崇志兄は正常や。煮えきらないのは迷ってるからだ。自分の将来を計算で決めてしまう覚悟が、まだ青年には備わっていないのだろう。
何が1番収まりのつく結果なんだろう、と考える。妹への仕打ちに後悔し続ける兄の執念は、そのまま、美耶への愛情の深さだと見て取れる。だったら崇志兄は美耶ちゃんと離れるべきじゃない。出家や夢璃という別方向に逃げるのではなく、2人がちゃんと結びつく方法を選ぶべきだ。
美耶ちゃんを呪った事実が崇志兄にとって妨げになるのなら、それをないものとしてしまえばいい。
結論が出るが早いか、晴彦は、すぐそばにあった本殿の観音扉に手を伸ばした。
「稲荷さんの祟りを消せば、崇志兄は美耶ちゃんに負い目を感じることはないんやな?」
確認しながら扉を開ける。中には1枚の札が入っていた。
「何する気……」
訝しげに少年の行動を見ていた崇志の目の前で、晴彦は、神体として祭られていたその札を、勢いよく2つに破った。
「これで稲荷神さんは効力をなくした。もし美耶ちゃんに崇志兄の呪いがかかってたんなら、もう消滅してるはずや」
大胆な少年の行動に驚き、
「そんなことして、お前は……」
神仏を蔑ろにすることに抵抗感を持つ僧侶志望が咎めようとしたとき。
背後から小さな悲鳴が上がった。
ふり返ると、石段の上り口辺りで、夢璃が何かを組み敷いていた。イヌ科の動物が発するような唸り声を上げ、大きく開けた口で威嚇する。
飾り気のないスエットの部屋着を纏った袖口と、長い黒髪が、夢璃の下でもがいていた。
鋭い歯が標的の耳に齧りつく。
「痛いっ!」
という叫び声が美耶のものだと知って、崇志が弾かれたように走りだした。
破った札を持って呆然としていた晴彦は、すぐに正気を取り戻した。怒った稲荷神の矛先が自分に向かってくることは予想したが、こういう事態は想定外だった。稲荷神に対して、謝罪と対抗のどっちの手段を取るか、数瞬で選択が交互する。
その合間を縫って、奇妙な思念が流れていることに気づいた。
あたしが崇志に選ばれないのは美耶のせい。
あたしが邪魔に思うのは美耶の存在。
空気に溶けて耳に入りこんできたその呪詛は、夢璃の姿を彷彿とさせた。
唐突に稲荷が祟る理由に思い至った。手の中の札を見直すと、過たず、そこには答えを示す文字が書かれている。
それなら。
少年は大声で呼びかけた。
「崇志兄、大日如来さんの真言わかる?!」
妹から夢璃を引き剥がそうと苦心していた兄は、晴彦の場違いな質問に、
「いま、それどころじゃない!」
と拒絶を示した。夢璃は美耶の左耳を食いちぎらんばかりに歯を立てている。無理に引き離せば、本当に耳を失いかねない。
激しく抵抗していた少女の体が、徐々に力をなくしていくのを見て、崇志は思わず夢璃の喉に手をかけた。このまま絞め殺してしまおうか。そんな決断さえ湧きあがる。
じわりと握力を強めたとき、すぐ背後で晴彦が、
「真言やって、崇志兄!」
ともう1度怒鳴った。わけがわからず、帰依する予定の仏の名前をやけくそで読みあげる。
変化はすぐに訪れた。夢璃の態度、もっと言えば夢璃の中にいる狐の態度が、怯えた犬のように萎縮する。自ら傍らに退き、身を丸めて、地面が音を立てるほど激しく震えだす。
夢璃から解放された美耶の耳は、付け根に酷い裂創ができていた。晴彦から受けとったハンカチで、崇志が傷口を押さえると、
「ありがと……」
と泣きそうな顔になりながら、少女は小さく礼を言った。
「すぐに病院に行こう」
兄は妹の体を抱きあげる。
その横で、目をキョロキョロと落ち着きなく泳がせていた夢璃に、晴彦は話しかけた。
「狐さん、もう帰ってください。荼吉尼天さんは返すから」
そして、自らの手で破損してしまった札を夢璃に渡す。
「正しくお祀りしてもらえるように、宮司さんに頼んでおくね。これじゃあ居心地悪いやろうし」
破ってごめんなさい、とつけ加えると、狐を纏った夢璃の顔から剣呑さが消えていった。文字通り、憑き物が落ちたような表情が、困惑と罪悪を繰り返す。
石段を下りながら、少年は、物言いたげな崇志に、説明を施した。
「この社に祀られてたの、ミケツカミさんじゃなかった。札に書かれてた言葉、真言やった」
「ああ、なるほど」
僧侶志望の青年は、すぐに理解を口にした。
真言とは仏教で使われる独特の言葉である。『ナウマク・サンマンダ』から始まる呪文は、○○の仏に帰依します、という意味になる。つまり、自分が信仰の対象として支持している仏に、『あなたに真摯に仕えるので力を貸してください』と伝えるための文言である。
本殿に納められていた札に真言が書いてあったということは、この稲荷の神体は『仏』であるということだ。本来の稲荷であるミケツカミは神、真言で表されるわけはない。
ということは、この稲荷神社の主は、過去の日本でミケツカミと混同して祀られてきた『荼吉尼天』の可能性が高い。インド神話の殺戮の女神、ダーキニーをモデルとした恐ろしい性質の仏。古くは平安時代から、屍肉を食う羅刹として畏怖されてきた存在。
「荼吉尼天は不幸に陥った女性の霊魂を呼び寄せるとも言われてるんや。だから、女性の恨みや妬みの願いを叶えてくれる仏さんとしての信奉が厚いん」
「東海林にはぴったりの尊体だ」
崇志が苦笑しながら納得する。
「宗教上の話なんやけど、狐憑きや祟りを起こしやすい側面を持った荼吉尼天を、大日如来さんに調伏してもらった過去があるん。だから、大日如来さんの力を借りたら、荼吉尼天を抑えることができるかな、と思った」
真言によって最高位の如来を呼びだした理由を、そう説明した晴彦は、
「オレが唱えてもよかったんだけど、崇志兄のほうが坊さんに近いやろ。だから、崇志兄が唱えた真言のほうが効果が高いと思って」
と付け加えた。
僧侶を目指しながら、仏に対して全幅の信頼を寄せることのなかった現実主義の青年は、その言葉を聞いて、
「本当に退魔なんてことができるなら、僧侶になるのも悪くないかな」
と短絡し始めた。慌てて、
「もうちょっと考えて」
と引き止めた晴彦の目に、聞き耳を立てていた美耶の、心配そうに兄に身を寄せる姿が映った。
※帰依とは、仏教に従事する僧侶などが、仏に対して自らの存在を捧げることです。
※羅刹とは鬼のことです。神話によって『神』が体系化されるまでは、鬼、怨霊、精霊、霊魂などを総称して神(信仰の対象)と認識していました。これは世界中に類似の例が見られます。
※『調伏』とは相手の力を抑えることです。




