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江ノ島の海の家で、君に好きと言えない夏 〜7月1日から8月31日まで、湘南で少しだけ大人になった〜  作者: ちょこまろ


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第4話 夕方の西浜で、君の横顔を好きになった

七月中旬。


海の家「夕凪」でのバイトにも少しずつ慣れてきた夏実。

そこへ、親友のすずも週末だけバイトに加わります。


陽太を見てしまう夏実。

それに気づいて、からかうすず。


そして閉店後、夏実と陽太は夕方の西浜へ向かうことに。


夏の夕暮れの海で、まだ名前をつけられない気持ちが、少しずつ形になっていきます。

 七月中旬になると、海の家「夕凪」は本格的に忙しくなった。


 夏休み前なのに、土日は朝から人が多い。


 片瀬東浜は、家族連れ、友達同士、カップル、外国人観光客でいっぱいになる。海の家の中は、昼前から焼きそばの匂いと、かき氷の甘い匂いで埋まった。


「夏実ちゃん、六番テーブル片づけて!」


「はい!」


「陽太、氷あと一箱!」


「了解」


「すずちゃん、ラムネ補充!」


「わかりました!」


 そう。


 親友の森下すずも、週末だけ「夕凪」でバイトを始めた。


 きっかけは単純だった。


「夏実だけ海の家バイトとか、ずるい」


「ずるいって何」


「青春っぽいじゃん。私も混ざりたい」


「バイトだよ。普通に大変だよ」


「青春は大変な方が映える」


「何に?」


「人生に」


 そう言って、すずは本当に応募した。


 すずは明るくて、知らない人ともすぐ話せる。私よりずっと接客に向いていた。


「いらっしゃいませー。かき氷、今日めちゃくちゃ出てますよ。ブルーハワイ人気です」


 初日からそんなふうに笑顔で接客していて、私は少しだけ感心した。


 すずは同じ高校の同じクラス。


 中学からの友達で、私のことをよく知っている。


 知りすぎていて、時々困る。


「で?」


 昼のピークが過ぎた後、すずは私の隣に立って、紙コップの水を飲みながら言った。


「何が?」


「佐倉くん」


「何が?」


「何が、じゃないでしょ。あんた、めっちゃ見てるじゃん」


「見てない」


「嘘。今も見た」


「見てない」


「じゃあ何見てたの?」


「……海」


「海は厨房で氷運ばない」


 私は言葉につまった。


 すずはにやにや笑っている。


「やっぱりね」


「やっぱりって何」


「夏実、佐倉くんのこと好きでしょ」


「違う」


「早い否定は怪しい」


「本当に違うから」


「じゃあ気になる?」


「それは……同じ学校だし、同じバイトだし」


「はい、気になるんだ」


「すず、仕事して」


「してるよ。夏実の恋愛観察」


「それは仕事じゃない」


 私は逃げるようにテーブルを拭きに行った。


 好き。


 その言葉をすずに言われると、胸が変に跳ねる。


 違う、と思う。


 でも、完全には否定できない自分もいる。


 陽太を見てしまう。


 それは本当だった。


 彼は、海の家の中でよく動く。


 重い氷の箱を運ぶ時、何も言わずに腕に力を入れる。小さい子が注文で迷っていると、しゃがんで「いちごかメロンなら、いちごの方が甘い」と教える。店長に呼ばれる前に、足りないものを補充する。


 誰かに見せるためじゃない。


 自然にそうしている。


 その自然さが、私には少し大人に見えた。


 その日の夕方、店長が言った。


「今日、片づけ早く終わったら、西浜の方までゴミ持っていくの手伝ってくれる人いる?」


「行きます」


 陽太がすぐに答えた。


「あ、私も行きます」


 気づいたら、私も言っていた。


 すずが横で、にやっとした顔をした。


 私は見なかったことにした。


 閉店後、私と陽太はゴミ袋を持って、東浜から西浜の方へ歩いた。


 夕方の海岸は、昼間よりずっと静かだった。


 東浜の賑わいを抜けて、新江ノ島水族館の方へ視線を向けながら歩く。えのすいの前には、まだ人がいる。家族連れが写真を撮っていた。


 西浜側に出ると、空が広くなった気がした。


 東浜とは少し違う。


 海が大きく見える。


 遠くにサーファーらしき人影があり、波の向こうに夕方の光が広がっている。


「こっち、久しぶりに来た」


 私は言った。


「近いのに?」


「うん。近いと、逆に来ない」


「あるある」


「佐倉くんはよく来るの?」


「朝とか。たまに」


「サーフィン?」


「見るだけの日もある」


「見るだけ?」


「海見てると、頭が静かになる」


 陽太はそう言って、西浜の方を見た。


 夕方の光が、彼の横顔に当たる。


 髪が少し潮で固まっていて、首筋には日焼けの跡があった。サンオイルではなく、毎日外にいる人の日焼けの匂いがした。汗と潮風と、少しだけ洗剤の匂い。


 私はその横顔を見た。


 見てしまった。


 波の音が、急に遠くなった気がした。


 その時、陽太がこちらを向いた。


「何?」


「え」


「見てた」


「見てない」


「見てた」


「海を見てた」


「俺、海じゃないけど」


「知ってる」


 言ってから、またしまったと思った。


 陽太が少しだけ笑う。


「七瀬って、たまに変なこと言うよな」


「佐倉くんに言われたくない」


「俺、変?」


「変というか、無愛想」


「ひど」


「でも」


 私は言葉を続けかけて、止まった。


 でも、優しい。


 そう言いそうになった。


 言えなかった。


 陽太は「でも?」と聞いてきた。


「……ちゃんと周り見てる」


 少し違う言葉にした。


 陽太は目をそらした。


「普通だろ」


「普通じゃないよ」


「そう?」


「うん」


 私がそう言うと、陽太は困ったように頭をかいた。


「褒められると、返し方わかんねえ」


「じゃあ、ありがとうでいいじゃん」


「ありがとう」


 素直に言われて、今度は私が困った。


 なぜか、胸がきゅっとした。


 西浜の夕方は、少し涼しかった。


 夏なのに、風の中にほんの少しだけ夜の気配がある。


 私たちはゴミを所定の場所に運び、そのまま少しだけ海を見た。


「佐倉くんはさ」


「うん」


「将来、何したいとかある?」


 聞いた瞬間、自分でも驚いた。


 そんな話を陽太にするつもりはなかった。


 でも、夕方の海のせいかもしれない。


 陽太はしばらく考えてから言った。


「まだはっきりは決めてない。でも、海の近くで働けたらいいなとは思ってる」


「海の近く?」


「観光でもいいし、店でもいいし、マリンスポーツ関係でもいいし。何でもいいけど、この辺に関わる仕事」


「そうなんだ」


「変?」


「ううん」


 私は首を振った。


「すごいと思う」


「何が」


「好きな場所に関わりたいって、ちゃんと言えるところ」


 陽太は少し黙った。


「七瀬は?」


「私は……まだわかんない」


「そっか」


「でも、外も見てみたい」


 初めて、少しだけ言えた。


「東京とか、横浜とか。通える距離だけど、私にとってはちょっと外なの。藤沢から出るとか、湘南を捨てるとか、そういう大げさな話じゃなくて。ただ、この辺しか知らないまま大人になるのが、少し怖い」


 言ってから、私は恥ずかしくなった。


 重いことを言った気がした。


 でも陽太は、笑わなかった。


「いいんじゃね」


「え?」


「見たいなら、見ればいいじゃん」


「簡単に言うね」


「難しく考えても、見たいもんは見たいんだろ」


 その言い方が、陽太らしかった。


 不器用で、でも真っ直ぐで。


「佐倉くんは、外に出たいって思わないの?」


「思う時もある」


「あるんだ」


「そりゃある。でも俺は、戻ってきたい場所がある方が強い気がする」


「戻ってきたい場所」


「うん」


 陽太は海を見たまま言った。


「ここがあるから、外にも行けるっていうか」


 私はその言葉を、心の中で繰り返した。


 ここがあるから、外にも行ける。


 そんなふうに考えたことはなかった。


 私はずっと、外を見ることと、この街を好きでいることが、どこかでぶつかる気がしていた。


 でも、違うのかもしれない。


 好きな場所があるから、知らない場所を見に行ける。


 それなら、少しだけ怖くない。


「佐倉くんって」


「何」


「たまにいいこと言うね」


「たまにかよ」


「毎回ではない」


「正直だな」


 私たちは笑った。


 夕方の西浜で、二人で笑った。


 その瞬間、私は気づいてしまった。


 この時間が、終わってほしくない。


 陽太と話していると、自分でも言葉にできなかった気持ちが、少しずつ形になる。


 それが嬉しい。


 嬉しくて、怖い。


 帰り道、東浜へ戻る途中で、陽太が言った。


「七瀬」


「何?」


「今日、あんまり無理してなかった」


「そう?」


「うん。前より普通だった」


「それ、褒めてる?」


「褒めてる」


「わかりにくい」


「じゃあ、頑張ってた」


 私は笑った。


「それはわかりやすい」


 陽太も少し笑った。


 その笑顔を見て、また胸が鳴った。


 今度は、はっきりと。


 あ、と思った。


 私はたぶん、陽太のことが気になっている。


 まだ「好き」と呼ぶには、少し怖い。


 でも、ただの同級生ではもうない。


 夕方の海が、彼の横顔を特別にしてしまった。


 その日の夜、すずからメッセージが来た。


『西浜デートどうだった?』


 私はすぐに返信した。


『デートじゃない』


 すずから、すぐ返事が来る。


『否定が早い。やっぱ好きだね』


 私はスマホを枕元に置いた。


 好き。


 その言葉を、まだ受け取れなかった。


 でも目を閉じると、夕方の西浜が浮かんだ。


 海を見ている陽太の横顔。


 風に揺れる髪。


 戻ってきたい場所がある方が強い、と言った声。


 胸の奥が、また小さく鳴った。


 七月中旬。


 夏はまだ半分も終わっていない。


 それなのに私はもう、八月三十一日のことを少しだけ怖がり始めていた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


第4話は、夏実が陽太への気持ちを少しずつ自覚し始める回でした。


学校ではほとんど話したことのなかった相手。

けれど、海の家で一緒に働き、同じ景色を見て、同じ夕方の海を歩くうちに、夏実の中で陽太の存在が変わっていきます。


夕方の西浜で見た横顔。

「ここがあるから、外にも行ける」という陽太の言葉。


夏実にとって、陽太はただの同級生ではなくなり始めました。


次話では、八月に入り、夏実の気持ちがさらに大きく動いていきます。

続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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