第4話 夕方の西浜で、君の横顔を好きになった
七月中旬。
海の家「夕凪」でのバイトにも少しずつ慣れてきた夏実。
そこへ、親友のすずも週末だけバイトに加わります。
陽太を見てしまう夏実。
それに気づいて、からかうすず。
そして閉店後、夏実と陽太は夕方の西浜へ向かうことに。
夏の夕暮れの海で、まだ名前をつけられない気持ちが、少しずつ形になっていきます。
七月中旬になると、海の家「夕凪」は本格的に忙しくなった。
夏休み前なのに、土日は朝から人が多い。
片瀬東浜は、家族連れ、友達同士、カップル、外国人観光客でいっぱいになる。海の家の中は、昼前から焼きそばの匂いと、かき氷の甘い匂いで埋まった。
「夏実ちゃん、六番テーブル片づけて!」
「はい!」
「陽太、氷あと一箱!」
「了解」
「すずちゃん、ラムネ補充!」
「わかりました!」
そう。
親友の森下すずも、週末だけ「夕凪」でバイトを始めた。
きっかけは単純だった。
「夏実だけ海の家バイトとか、ずるい」
「ずるいって何」
「青春っぽいじゃん。私も混ざりたい」
「バイトだよ。普通に大変だよ」
「青春は大変な方が映える」
「何に?」
「人生に」
そう言って、すずは本当に応募した。
すずは明るくて、知らない人ともすぐ話せる。私よりずっと接客に向いていた。
「いらっしゃいませー。かき氷、今日めちゃくちゃ出てますよ。ブルーハワイ人気です」
初日からそんなふうに笑顔で接客していて、私は少しだけ感心した。
すずは同じ高校の同じクラス。
中学からの友達で、私のことをよく知っている。
知りすぎていて、時々困る。
「で?」
昼のピークが過ぎた後、すずは私の隣に立って、紙コップの水を飲みながら言った。
「何が?」
「佐倉くん」
「何が?」
「何が、じゃないでしょ。あんた、めっちゃ見てるじゃん」
「見てない」
「嘘。今も見た」
「見てない」
「じゃあ何見てたの?」
「……海」
「海は厨房で氷運ばない」
私は言葉につまった。
すずはにやにや笑っている。
「やっぱりね」
「やっぱりって何」
「夏実、佐倉くんのこと好きでしょ」
「違う」
「早い否定は怪しい」
「本当に違うから」
「じゃあ気になる?」
「それは……同じ学校だし、同じバイトだし」
「はい、気になるんだ」
「すず、仕事して」
「してるよ。夏実の恋愛観察」
「それは仕事じゃない」
私は逃げるようにテーブルを拭きに行った。
好き。
その言葉をすずに言われると、胸が変に跳ねる。
違う、と思う。
でも、完全には否定できない自分もいる。
陽太を見てしまう。
それは本当だった。
彼は、海の家の中でよく動く。
重い氷の箱を運ぶ時、何も言わずに腕に力を入れる。小さい子が注文で迷っていると、しゃがんで「いちごかメロンなら、いちごの方が甘い」と教える。店長に呼ばれる前に、足りないものを補充する。
誰かに見せるためじゃない。
自然にそうしている。
その自然さが、私には少し大人に見えた。
その日の夕方、店長が言った。
「今日、片づけ早く終わったら、西浜の方までゴミ持っていくの手伝ってくれる人いる?」
「行きます」
陽太がすぐに答えた。
「あ、私も行きます」
気づいたら、私も言っていた。
すずが横で、にやっとした顔をした。
私は見なかったことにした。
閉店後、私と陽太はゴミ袋を持って、東浜から西浜の方へ歩いた。
夕方の海岸は、昼間よりずっと静かだった。
東浜の賑わいを抜けて、新江ノ島水族館の方へ視線を向けながら歩く。えのすいの前には、まだ人がいる。家族連れが写真を撮っていた。
西浜側に出ると、空が広くなった気がした。
東浜とは少し違う。
海が大きく見える。
遠くにサーファーらしき人影があり、波の向こうに夕方の光が広がっている。
「こっち、久しぶりに来た」
私は言った。
「近いのに?」
「うん。近いと、逆に来ない」
「あるある」
「佐倉くんはよく来るの?」
「朝とか。たまに」
「サーフィン?」
「見るだけの日もある」
「見るだけ?」
「海見てると、頭が静かになる」
陽太はそう言って、西浜の方を見た。
夕方の光が、彼の横顔に当たる。
髪が少し潮で固まっていて、首筋には日焼けの跡があった。サンオイルではなく、毎日外にいる人の日焼けの匂いがした。汗と潮風と、少しだけ洗剤の匂い。
私はその横顔を見た。
見てしまった。
波の音が、急に遠くなった気がした。
その時、陽太がこちらを向いた。
「何?」
「え」
「見てた」
「見てない」
「見てた」
「海を見てた」
「俺、海じゃないけど」
「知ってる」
言ってから、またしまったと思った。
陽太が少しだけ笑う。
「七瀬って、たまに変なこと言うよな」
「佐倉くんに言われたくない」
「俺、変?」
「変というか、無愛想」
「ひど」
「でも」
私は言葉を続けかけて、止まった。
でも、優しい。
そう言いそうになった。
言えなかった。
陽太は「でも?」と聞いてきた。
「……ちゃんと周り見てる」
少し違う言葉にした。
陽太は目をそらした。
「普通だろ」
「普通じゃないよ」
「そう?」
「うん」
私がそう言うと、陽太は困ったように頭をかいた。
「褒められると、返し方わかんねえ」
「じゃあ、ありがとうでいいじゃん」
「ありがとう」
素直に言われて、今度は私が困った。
なぜか、胸がきゅっとした。
西浜の夕方は、少し涼しかった。
夏なのに、風の中にほんの少しだけ夜の気配がある。
私たちはゴミを所定の場所に運び、そのまま少しだけ海を見た。
「佐倉くんはさ」
「うん」
「将来、何したいとかある?」
聞いた瞬間、自分でも驚いた。
そんな話を陽太にするつもりはなかった。
でも、夕方の海のせいかもしれない。
陽太はしばらく考えてから言った。
「まだはっきりは決めてない。でも、海の近くで働けたらいいなとは思ってる」
「海の近く?」
「観光でもいいし、店でもいいし、マリンスポーツ関係でもいいし。何でもいいけど、この辺に関わる仕事」
「そうなんだ」
「変?」
「ううん」
私は首を振った。
「すごいと思う」
「何が」
「好きな場所に関わりたいって、ちゃんと言えるところ」
陽太は少し黙った。
「七瀬は?」
「私は……まだわかんない」
「そっか」
「でも、外も見てみたい」
初めて、少しだけ言えた。
「東京とか、横浜とか。通える距離だけど、私にとってはちょっと外なの。藤沢から出るとか、湘南を捨てるとか、そういう大げさな話じゃなくて。ただ、この辺しか知らないまま大人になるのが、少し怖い」
言ってから、私は恥ずかしくなった。
重いことを言った気がした。
でも陽太は、笑わなかった。
「いいんじゃね」
「え?」
「見たいなら、見ればいいじゃん」
「簡単に言うね」
「難しく考えても、見たいもんは見たいんだろ」
その言い方が、陽太らしかった。
不器用で、でも真っ直ぐで。
「佐倉くんは、外に出たいって思わないの?」
「思う時もある」
「あるんだ」
「そりゃある。でも俺は、戻ってきたい場所がある方が強い気がする」
「戻ってきたい場所」
「うん」
陽太は海を見たまま言った。
「ここがあるから、外にも行けるっていうか」
私はその言葉を、心の中で繰り返した。
ここがあるから、外にも行ける。
そんなふうに考えたことはなかった。
私はずっと、外を見ることと、この街を好きでいることが、どこかでぶつかる気がしていた。
でも、違うのかもしれない。
好きな場所があるから、知らない場所を見に行ける。
それなら、少しだけ怖くない。
「佐倉くんって」
「何」
「たまにいいこと言うね」
「たまにかよ」
「毎回ではない」
「正直だな」
私たちは笑った。
夕方の西浜で、二人で笑った。
その瞬間、私は気づいてしまった。
この時間が、終わってほしくない。
陽太と話していると、自分でも言葉にできなかった気持ちが、少しずつ形になる。
それが嬉しい。
嬉しくて、怖い。
帰り道、東浜へ戻る途中で、陽太が言った。
「七瀬」
「何?」
「今日、あんまり無理してなかった」
「そう?」
「うん。前より普通だった」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「わかりにくい」
「じゃあ、頑張ってた」
私は笑った。
「それはわかりやすい」
陽太も少し笑った。
その笑顔を見て、また胸が鳴った。
今度は、はっきりと。
あ、と思った。
私はたぶん、陽太のことが気になっている。
まだ「好き」と呼ぶには、少し怖い。
でも、ただの同級生ではもうない。
夕方の海が、彼の横顔を特別にしてしまった。
その日の夜、すずからメッセージが来た。
『西浜デートどうだった?』
私はすぐに返信した。
『デートじゃない』
すずから、すぐ返事が来る。
『否定が早い。やっぱ好きだね』
私はスマホを枕元に置いた。
好き。
その言葉を、まだ受け取れなかった。
でも目を閉じると、夕方の西浜が浮かんだ。
海を見ている陽太の横顔。
風に揺れる髪。
戻ってきたい場所がある方が強い、と言った声。
胸の奥が、また小さく鳴った。
七月中旬。
夏はまだ半分も終わっていない。
それなのに私はもう、八月三十一日のことを少しだけ怖がり始めていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第4話は、夏実が陽太への気持ちを少しずつ自覚し始める回でした。
学校ではほとんど話したことのなかった相手。
けれど、海の家で一緒に働き、同じ景色を見て、同じ夕方の海を歩くうちに、夏実の中で陽太の存在が変わっていきます。
夕方の西浜で見た横顔。
「ここがあるから、外にも行ける」という陽太の言葉。
夏実にとって、陽太はただの同級生ではなくなり始めました。
次話では、八月に入り、夏実の気持ちがさらに大きく動いていきます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




