第5話 八月の海で、君に近づきたかった
八月に入り、片瀬東浜の海も、海の家「夕凪」も、いよいよ夏本番。
忙しい毎日の中で、夏実と陽太の距離は少しずつ近づいていきます。
何気ない会話。
ふと触れた手。
さりげなく体調を気遣ってくれる優しさ。
まだ言葉にはできないけれど、夏実の中で陽太への気持ちが、少しずつはっきりしていきます。
八月になると、東浜の色が変わった。
七月の海は、まだ始まりの色だった。
人も、店も、私自身も、どこか浮き足立っていた。
けれど八月の海は違う。
夏が本気を出してきたみたいに、空は濃く、砂浜は熱く、人の声は大きくなった。
片瀬江ノ島駅から東浜までの道は、朝から混んでいる。
すばな通りの方へ向かう観光客、江の島大橋へ流れる人たち、えのすいへ向かう家族連れ。夏休みの湘南は、毎日がお祭りみたいだった。
海の家「夕凪」も、毎日忙しかった。
「夏実、かき氷二つ!」
「はい!」
「陽太、テーブル七番、水!」
「了解」
「すず、レジお願い!」
「任せてください!」
私たちはもう、最初の頃よりずっと動けるようになっていた。
私は注文を聞きながら、お客さんの流れを少しだけ読めるようになった。りこ先輩に頼らなくても、かき氷を作れる。焼きそばの注文も通し忘れない。
初日にペンを落とした私とは違う。
少しだけ成長している。
そう思えることが、嬉しかった。
でも、それ以上に嬉しかったことがある。
陽太と話す時間が増えた。
朝、開店前に一緒にテーブルを出す。
昼、忙しい合間に目が合う。
夕方、閉店後に片づける。
何か特別なことを話すわけではない。
でも、毎日少しずつ、陽太が私の夏の中に増えていく。
「七瀬、そっち持って」
「うん」
閉店後、私たちは看板を移動させていた。
夕方とはいえ、まだ暑い。Tシャツが背中に張りつく。
陽太が片側を持ち、私が反対側を持つ。
「重くない?」
「大丈夫」
「また大丈夫」
「これは本当に大丈夫」
「信用回復した?」
「少しは」
「よかった」
陽太が笑った。
私は手元を見ながら、胸の中でその笑顔を受け止めた。
最近、陽太が笑うと、私はすぐに目をそらすようになった。
見続けると、何かがばれてしまいそうだから。
看板を店の横に運び、砂を払った。
その時、私の手が陽太の手に触れた。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
でも、私はびくっとした。
陽太も少し動きを止めた。
「ごめん」
同時に言った。
そのせいで、余計に変な空気になった。
「いや、こっちこそ」
「ううん」
「……」
「……」
たった手が触れただけ。
それなのに、心臓がうるさい。
波の音より大きい気がする。
私は急いで手を引っ込め、看板の砂を払うふりをした。
陽太も何も言わなかった。
でも、顔が少し赤かった気がした。
気のせいかもしれない。
そう思いたかった。
その夜、すずに全部見られていたことを知る。
「手、触れてたね」
「見てたの?」
「見てたよ。青春の現場を見逃すわけないじゃん」
「やめて」
「で、どうだった?」
「どうって何」
「きゅんとした?」
「……すず」
「したんだ」
「言ってない」
「顔に書いてある」
すずはラムネを飲みながら、にやにやしていた。
私たちはバイト終わり、片瀬江ノ島駅近くのコンビニ前で少し休んでいた。制服ではなく、海の家のTシャツに着替えた後の私たちは、なんだか学校の友達とは違う顔をしている気がする。
「夏実、もう認めなよ」
「何を」
「佐倉くんのこと、好きでしょ」
「……わかんない」
「わかんないって言う時点で、だいたい好き」
「すずは簡単に言う」
「だって外から見たらわかりやすいもん。夏実、佐倉くんが近くにいる時だけ、ちょっと声が違う」
「声?」
「うん。少し柔らかくなる」
「嘘」
「本当」
私はラムネの瓶を見つめた。
中のビー玉が、かすかに音を立てた。
「好きって、どうやってわかるの?」
思わず聞いていた。
すずは少し驚いた顔をして、それから優しく笑った。
「その人に何か言われた日の夜、何回も思い出しちゃうとか」
「……」
「その人が他の子と話してると、少し気になるとか」
「……」
「その人と明日も会えるって思うと、ちょっと嬉しいとか」
「……全部、あるかも」
すずは声を上げずに笑った。
「じゃあ、好きだね」
私は何も言えなかった。
好き。
その言葉が、胸の中に落ちてくる。
重いわけじゃない。
でも、軽くもない。
私は陽太が好きなのだろうか。
そう思った瞬間、今までの景色が少しだけ変わった。
朝の片瀬江ノ島駅。
東浜の海の家。
夕方の西浜。
手が触れた看板の前。
全部に、陽太がいる。
そのことに気づいたら、急に恥ずかしくなった。
「でも、言わないよ」
私は言った。
「なんで?」
「だって、気まずくなったら困る」
「まあね」
「八月三十一日まで一緒に働くんだよ。もし告白して、変になったらどうするの」
「付き合えばいいじゃん」
「そんな簡単に言わないで」
「じゃあ、佐倉くんが夏実のこと好きじゃなかったら?」
胸がちくっとした。
「……それは嫌」
「ほら」
「でも、わかんないし」
「わかる気もするけどね」
「すずにはわかるの?」
「佐倉くん、夏実のこと見てるよ」
私は顔を上げた。
「見てない」
「見てる。夏実が気づいてないだけ」
「本当に?」
「本当に」
すずの声が、少しだけ真面目だった。
八月上旬のある日。
午前中から暑さが強く、海の家は開店直後から混雑した。
私は朝から動きっぱなしだった。
かき氷を作り、ラムネを渡し、テーブルを拭き、注文を取り、またかき氷を作る。
昼過ぎ、頭が少しぼんやりした。
水分は取っているつもりだった。でも、暑さは体の奥にじわじわ入ってくる。
「七瀬」
陽太の声がした。
「顔、白い」
「え、赤いじゃなくて?」
「今日は白い。休め」
「でも、まだお客さん」
「俺が入る」
「でも」
「でもじゃない」
陽太は、私の手から注文票を取った。
「裏、行け」
少し強い言い方だった。
私は言い返そうとしたけれど、頭がふらっとして、素直に奥へ下がった。
裏の椅子に座ると、急に体が重くなった。
陽太がスポーツドリンクを持ってきた。
「飲め」
「またそれ」
「言われなくても飲むようになれ」
「はい」
私はペットボトルを受け取った。
冷たい。
キャップを開ける手に力が入らず、少しもたつく。
陽太がそれを見て、無言でキャップを開けてくれた。
「あ、ありがとう」
「うん」
私は一口飲んだ。
喉が思っていた以上に渇いていた。
陽太は私の隣にしゃがんだ。
「無理すんなよ」
「してないつもりだった」
「つもりが一番危ない」
「佐倉くん、お父さんみたい」
「高校生なんだけど」
「知ってる」
小さく笑うと、陽太も少し笑った。
その距離が近かった。
近すぎて、私はペットボトルを見つめた。
「七瀬」
「うん」
「最近、楽しそうだな」
「え?」
「バイト。最初より」
「そうかな」
「うん」
陽太は少し考えてから、視線をそらした。
「七瀬が笑ってると、なんか、店がちゃんと夏っぽい」
胸が、止まった気がした。
そんなことを言われると思わなかった。
「……何それ」
「わかんねえ。思っただけ」
「急にそういうこと言わないで」
「そういうこと?」
「そういうこと」
「わかんねえって」
陽太は本当にわかっていなさそうだった。
ずるい。
こういうところが、ずるい。
何気ない顔で、私の心を変に揺らしてくる。
「佐倉くんがいるから」
小さく、言いかけた。
でも声にはならなかった。
陽太が聞き返す。
「何?」
「何でもない」
私はペットボトルを強く握った。
言えない。
まだ言えない。
好きだなんて、言えるわけがない。
八月の海は、眩しすぎる。
でもその眩しさの中で、私は陽太に近づきたくなっていた。
近づけば、きっともっと好きになる。
それがわかっているのに、離れたくなかった。
その日の帰り、片瀬江ノ島駅までの道を陽太と並んで歩いた。
すずは「用事あるから先帰る」と言って、わざとらしく先に行った。
絶対に気を遣った。
ありがたいけれど、恥ずかしい。
夜の駅前は、昼とは違う賑わいがある。
日焼けした人たち。疲れた子ども。浴衣姿の人。コンビニの明かり。海帰りの匂い。
「七瀬」
「うん」
「明日、休みだよな」
「うん。シフト入ってない」
「何するの?」
「たぶん家で寝る」
「それがいい」
「佐倉くんは?」
「朝、西浜行くかも」
「また海?」
「うん」
「本当に好きなんだね」
「まあ」
陽太は少し照れたように言った。
私はその横顔を見て、また思った。
好きだ。
はっきりと。
もう、ごまかせないくらい。
でも、言えない。
八月はまだ半分ある。
海の家はまだ続く。
毎日会える。
だからこそ、言えない。
この関係を壊したくなかった。
「じゃあ、明後日」
「うん。明後日」
明後日も会える。
その約束だけで、私は少しだけ幸せだった。
でも、帰りの電車を待ちながら、ふと怖くなった。
この夏が終わったら。
八月三十一日が来たら。
私たちはまた、ただの同じ高校の二年生に戻るのだろうか。
海の家のTシャツを脱いだら、陽太との距離も元に戻ってしまうのだろうか。
そう思ったら、胸が痛くなった。
私はスマホを開き、カレンダーを見た。
八月三十一日まで、あと二十日。
まだ二十日ある。
でも、もう二十日しかない。
夏は、思っていたより早く終わりに向かっていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第5話は、夏実が陽太への気持ちを、少しずつ自覚していく回でした。
手が触れただけで意識してしまう。
何気ない優しさに胸が揺れる。
明後日も会える、という約束だけで嬉しくなる。
夏実にとって、陽太はもう「同じ高校の人」ではなくなっています。
けれど、好きだと気づいたからこそ、言えなくなる。
この関係を壊したくないという怖さも生まれてきました。
次話では、夏の終わりを少しずつ意識しながら、夏実の気持ちがさらに深まっていきます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




