第3話 潮風の中で、君だけが私を見ていた
海の家で働き始めて、一週間。
少しずつ仕事に慣れてきた夏実は、片瀬東浜の海が、自分にとっても少し違って見えるようになります。
当たり前だった地元の海。
けれど、誰かにとっては特別な夏の場所。
そして、そんな夏実の小さな変化に気づいてくれる陽太。
まだ恋とは言えない距離の中で、二人の空気が少しずつ変わっていきます。
海の家のバイトは、思っていたよりずっと体力勝負だった。
七月に入って一週間。
私は毎朝、片瀬江ノ島駅から東浜まで歩きながら、今日こそはミスを減らそうと心の中で唱えていた。
駅前の人の流れにも、少しずつ慣れてきた。
浮き輪を抱えた子どもたち。水着の上に薄いシャツを羽織った女の子。日傘をさした人。サングラスの大学生。観光客。地元の人。
朝の片瀬江ノ島駅は、毎日少しずつ違う顔をしている。
でも、海へ向かう人たちの表情はだいたい同じだった。
楽しそう。
夏を待っていた顔。
私はその流れに混じって歩く。
同じ方向へ向かっているはずなのに、私は少しだけ別の場所にいるような気がした。
遊びに行く人たちと、働きに行く私。
海を楽しむ人たちと、海の家のTシャツを着る私。
もちろん、バイトは自分で決めたことだ。
ただ、夏休みに少し自分のお金があった方がいいと思ったから。
母にはそう言った。
本当は、東京の大学のオープンキャンパスに行ってみたいと思っていた。
藤沢からなら東京にも通える。だから「遠くへ行く」わけではない。
でも、私にとっては十分遠かった。
江ノ電の音と、海の匂いと、学校と家。
その外側にある場所を、自分の足で見に行きたかった。
最近、観光とか地域とか、そういう言葉が少しだけ気になっている。
でもそれは、教科書に載っている言葉だからじゃない。
毎日見ているこの海に、どうしてこんなに人が集まるのか。
その人たちを迎える店や街が、どうやって夏を支えているのか。
海の家で働き始めてから、そういうことを前より考えるようになった。
でも、そのことを誰かに言うのは、少し恥ずかしかった。
湘南に住んでいるのに、どうして外に憧れるの。
そう言われそうで。
自分でも、よくわからないのだ。
この街が嫌いなわけではない。
むしろ好きだ。
江ノ島も、海も、夕方の空も、駅前のざわざわした感じも、全部嫌いじゃない。
それなのに、時々思う。
私はこのままでいいのかな。
この街を好きなまま、何者にもならないまま、大人になっていくのかな。
その不安に名前をつけられないまま、私は七月の海の家で働いていた。
「夏実ちゃん、三番テーブル、カレー二つお願い」
「はい!」
りこ先輩の声に、私は注文票を持って厨房に向かった。
最初の三日間は、毎日何かしらやらかした。
四日目からは、少しだけましになった。
五日目には、かき氷を一人で作れるようになった。
六日目には、おつりを間違えなかった。
そして七日目の今日は、朝からまだ大きなミスをしていない。
これはすごいことだ。
自分の中では、かなりの成長だった。
「七瀬、氷足りてる?」
陽太がカウンターの内側に顔を出した。
「足りてる。さっき補充した」
「本当に?」
「本当」
「ならいいけど」
「信用ないなあ」
「最初の日、ブルーハワイをメロンで作りかけた人に言われても」
「あれは、色が似てたから」
「似てない」
「似てるって。ちょっとだけ」
陽太は笑った。
私はその笑顔を見るたびに、少しだけ調子が狂う。
学校ではこんなふうに話したことがなかった。
クラスも違うし、接点もなかった。廊下ですれ違えば「あ、同じ学年の人」くらいに思う。それだけ。
でも海の家では、毎日顔を合わせる。
朝、おはようと言う。
昼、忙しい中で声をかけ合う。
夕方、一緒に片づける。
たった一週間で、学校の一年分より話している気がした。
不思議だった。
場所が変わるだけで、人との距離はこんなに変わる。
昼過ぎ、家族連れの多い時間帯が来た。
小さい子がかき氷をこぼし、お母さんが慌てて謝る。外国人観光客に英語でメニューを聞かれて、りこ先輩が身振り手振りで対応する。大学生のグループが焼きそばを五つ注文し、厨房が一気に忙しくなる。
私は水を運び、テーブルを拭き、注文を聞いた。
暑い。
背中に汗が流れる。髪を結んでいても、首筋がじっとりする。
サンオイルの甘い匂いが、潮風に乗って店の中まで入ってくる。そこに焼きそばのソースの匂いと、氷の冷たさと、濡れた砂の匂いが混ざる。
夏の海は、きれいな匂いだけではできていない。
少し甘くて、少し熱くて、少し湿っている。
その全部が、私の体にまとわりついた。
「すみませーん」
若い女性の声がした。
私はカウンターに戻った。
「はい」
「かき氷のいちご一つと、ラムネ二本ください」
「はい。かき氷いちご一つ、ラムネ二本ですね」
注文を受け、かき氷機の前に立つ。
氷をセットする。カップを置く。ハンドルを回す。
ガリガリと音がして、白い氷がふわっと積もっていく。
「高校生?」
女性に聞かれた。
「あ、はい。高二です」
「いいなあ、青春って感じ。こんな場所でバイトできるなんて羨ましい」
私は手を止めかけた。
羨ましい。
こんな場所。
女性は何気なく言っただけだと思う。
でもその言葉が、胸の中に少し引っかかった。
私はいちごのシロップをかけ、スプーンを添えて渡した。
「お待たせしました」
「ありがとう。頑張ってね」
女性は笑って、海の方へ戻っていった。
私はその背中を見送った。
羨ましい。
私にとってここは、当たり前の場所だ。
学校帰りに江ノ島が見えるのも、友達と海の近くを歩くのも、夏になると観光客が増えるのも、全部当たり前だった。
でも誰かにとっては、わざわざ来る場所で、写真を撮る場所で、思い出になる場所なのだ。
私は、当たり前すぎて見えなくなっていたのかもしれない。
「七瀬」
陽太に呼ばれて、はっとした。
「え?」
「シロップ、閉め忘れてる」
「あ」
いちごのシロップのふたが開いたままだった。
「ごめん」
「ぼーっとしてた?」
「ちょっと」
「暑い?」
「違う。さっき、お客さんに言われたの」
「何を?」
「こんな場所でバイトできて羨ましいって」
陽太は少し黙った。
「そうだな」
「佐倉くんはそう思う?」
「何が?」
「ここでバイトできて羨ましいって」
陽太は外の海を見た。
青い海。白い波。江ノ島。人の声。
「俺は、普通に好きだけど」
その答えは、とても簡単だった。
「この辺が?」
「うん」
「ずっと住んでるのに?」
「ずっと住んでるから」
陽太はそう言った。
私は、なぜか返す言葉がなかった。
ずっと住んでるから好き。
そんなふうに言えるのが、少し眩しかった。
「七瀬は?」
「え?」
「海、嫌いになったのか?」
「嫌いじゃないよ」
私は少し強く言った。
「嫌いじゃない」
「じゃあ、なんでそんな顔してんの」
「どんな顔?」
「海を見る時、ちょっと困った顔」
胸の奥を、指で軽く押されたみたいだった。
陽太は、そういうところだけ変に鋭い。
私は笑ってごまかそうとした。
「そんな顔してないし」
「してる」
「見すぎじゃない?」
言ってから、しまったと思った。
陽太は一瞬だけ目を丸くした。
私も目をそらした。
変な沈黙が落ちた。
波の音と、厨房の音だけが聞こえる。
「……仕事戻る」
陽太が先に言った。
「うん」
彼が離れていく。
私はシロップのふたを閉めながら、心臓が少し早くなっていることに気づいた。
見すぎじゃない?
何を言っているんだ、私は。
別に見てほしいわけじゃない。
でも、陽太が私の顔に気づいていたことが、少しだけ嬉しかった。
それがまた、悔しかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第3話は、夏実が海の家の仕事に慣れ始める一方で、陽太のことを少しずつ意識し始める回でした。
ずっと住んでいるからこそ見えなくなっていた湘南の海。
でも、海の家で働くことで、夏実は「ここが誰かにとっての特別な場所」なのだと気づいていきます。
そして、そんな夏実の表情を見ていた陽太。
何気ない会話の中に、二人の距離が少し近づく気配を書きました。
次話では、夕方の西浜で、夏実の気持ちがもう少しはっきり動き出します。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




