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江ノ島の海の家で、君に好きと言えない夏 〜7月1日から8月31日まで、湘南で少しだけ大人になった〜  作者: ちょこまろ


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第3話 潮風の中で、君だけが私を見ていた

海の家で働き始めて、一週間。


少しずつ仕事に慣れてきた夏実は、片瀬東浜の海が、自分にとっても少し違って見えるようになります。


当たり前だった地元の海。

けれど、誰かにとっては特別な夏の場所。


そして、そんな夏実の小さな変化に気づいてくれる陽太。

まだ恋とは言えない距離の中で、二人の空気が少しずつ変わっていきます。

 海の家のバイトは、思っていたよりずっと体力勝負だった。


 七月に入って一週間。


 私は毎朝、片瀬江ノ島駅から東浜まで歩きながら、今日こそはミスを減らそうと心の中で唱えていた。


 駅前の人の流れにも、少しずつ慣れてきた。


 浮き輪を抱えた子どもたち。水着の上に薄いシャツを羽織った女の子。日傘をさした人。サングラスの大学生。観光客。地元の人。


 朝の片瀬江ノ島駅は、毎日少しずつ違う顔をしている。


 でも、海へ向かう人たちの表情はだいたい同じだった。


 楽しそう。


 夏を待っていた顔。


 私はその流れに混じって歩く。


 同じ方向へ向かっているはずなのに、私は少しだけ別の場所にいるような気がした。


 遊びに行く人たちと、働きに行く私。


 海を楽しむ人たちと、海の家のTシャツを着る私。


 もちろん、バイトは自分で決めたことだ。


 ただ、夏休みに少し自分のお金があった方がいいと思ったから。


 母にはそう言った。


 本当は、東京の大学のオープンキャンパスに行ってみたいと思っていた。


 藤沢からなら東京にも通える。だから「遠くへ行く」わけではない。


 でも、私にとっては十分遠かった。


 江ノ電の音と、海の匂いと、学校と家。


 その外側にある場所を、自分の足で見に行きたかった。


 最近、観光とか地域とか、そういう言葉が少しだけ気になっている。


 でもそれは、教科書に載っている言葉だからじゃない。


 毎日見ているこの海に、どうしてこんなに人が集まるのか。


 その人たちを迎える店や街が、どうやって夏を支えているのか。


 海の家で働き始めてから、そういうことを前より考えるようになった。


 でも、そのことを誰かに言うのは、少し恥ずかしかった。


 湘南に住んでいるのに、どうして外に憧れるの。


 そう言われそうで。


 自分でも、よくわからないのだ。


 この街が嫌いなわけではない。


 むしろ好きだ。


 江ノ島も、海も、夕方の空も、駅前のざわざわした感じも、全部嫌いじゃない。


 それなのに、時々思う。


 私はこのままでいいのかな。


 この街を好きなまま、何者にもならないまま、大人になっていくのかな。


 その不安に名前をつけられないまま、私は七月の海の家で働いていた。


「夏実ちゃん、三番テーブル、カレー二つお願い」


「はい!」


 りこ先輩の声に、私は注文票を持って厨房に向かった。


 最初の三日間は、毎日何かしらやらかした。


 四日目からは、少しだけましになった。


 五日目には、かき氷を一人で作れるようになった。


 六日目には、おつりを間違えなかった。


 そして七日目の今日は、朝からまだ大きなミスをしていない。


 これはすごいことだ。


 自分の中では、かなりの成長だった。


「七瀬、氷足りてる?」


 陽太がカウンターの内側に顔を出した。


「足りてる。さっき補充した」


「本当に?」


「本当」


「ならいいけど」


「信用ないなあ」


「最初の日、ブルーハワイをメロンで作りかけた人に言われても」


「あれは、色が似てたから」


「似てない」


「似てるって。ちょっとだけ」


 陽太は笑った。


 私はその笑顔を見るたびに、少しだけ調子が狂う。


 学校ではこんなふうに話したことがなかった。


 クラスも違うし、接点もなかった。廊下ですれ違えば「あ、同じ学年の人」くらいに思う。それだけ。


 でも海の家では、毎日顔を合わせる。


 朝、おはようと言う。


 昼、忙しい中で声をかけ合う。


 夕方、一緒に片づける。


 たった一週間で、学校の一年分より話している気がした。


 不思議だった。


 場所が変わるだけで、人との距離はこんなに変わる。


 昼過ぎ、家族連れの多い時間帯が来た。


 小さい子がかき氷をこぼし、お母さんが慌てて謝る。外国人観光客に英語でメニューを聞かれて、りこ先輩が身振り手振りで対応する。大学生のグループが焼きそばを五つ注文し、厨房が一気に忙しくなる。


 私は水を運び、テーブルを拭き、注文を聞いた。


 暑い。


 背中に汗が流れる。髪を結んでいても、首筋がじっとりする。


 サンオイルの甘い匂いが、潮風に乗って店の中まで入ってくる。そこに焼きそばのソースの匂いと、氷の冷たさと、濡れた砂の匂いが混ざる。


 夏の海は、きれいな匂いだけではできていない。


 少し甘くて、少し熱くて、少し湿っている。


 その全部が、私の体にまとわりついた。


「すみませーん」


 若い女性の声がした。


 私はカウンターに戻った。


「はい」


「かき氷のいちご一つと、ラムネ二本ください」


「はい。かき氷いちご一つ、ラムネ二本ですね」


 注文を受け、かき氷機の前に立つ。


 氷をセットする。カップを置く。ハンドルを回す。


 ガリガリと音がして、白い氷がふわっと積もっていく。


「高校生?」


 女性に聞かれた。


「あ、はい。高二です」


「いいなあ、青春って感じ。こんな場所でバイトできるなんて羨ましい」


 私は手を止めかけた。


 羨ましい。


 こんな場所。


 女性は何気なく言っただけだと思う。


 でもその言葉が、胸の中に少し引っかかった。


 私はいちごのシロップをかけ、スプーンを添えて渡した。


「お待たせしました」


「ありがとう。頑張ってね」


 女性は笑って、海の方へ戻っていった。


 私はその背中を見送った。


 羨ましい。


 私にとってここは、当たり前の場所だ。


 学校帰りに江ノ島が見えるのも、友達と海の近くを歩くのも、夏になると観光客が増えるのも、全部当たり前だった。


 でも誰かにとっては、わざわざ来る場所で、写真を撮る場所で、思い出になる場所なのだ。


 私は、当たり前すぎて見えなくなっていたのかもしれない。


「七瀬」


 陽太に呼ばれて、はっとした。


「え?」


「シロップ、閉め忘れてる」


「あ」


 いちごのシロップのふたが開いたままだった。


「ごめん」


「ぼーっとしてた?」


「ちょっと」


「暑い?」


「違う。さっき、お客さんに言われたの」


「何を?」


「こんな場所でバイトできて羨ましいって」


 陽太は少し黙った。


「そうだな」


「佐倉くんはそう思う?」


「何が?」


「ここでバイトできて羨ましいって」


 陽太は外の海を見た。


 青い海。白い波。江ノ島。人の声。


「俺は、普通に好きだけど」


 その答えは、とても簡単だった。


「この辺が?」


「うん」


「ずっと住んでるのに?」


「ずっと住んでるから」


 陽太はそう言った。


 私は、なぜか返す言葉がなかった。


 ずっと住んでるから好き。


 そんなふうに言えるのが、少し眩しかった。


「七瀬は?」


「え?」


「海、嫌いになったのか?」


「嫌いじゃないよ」


 私は少し強く言った。


「嫌いじゃない」


「じゃあ、なんでそんな顔してんの」


「どんな顔?」


「海を見る時、ちょっと困った顔」


 胸の奥を、指で軽く押されたみたいだった。


 陽太は、そういうところだけ変に鋭い。


 私は笑ってごまかそうとした。


「そんな顔してないし」


「してる」


「見すぎじゃない?」


 言ってから、しまったと思った。


 陽太は一瞬だけ目を丸くした。


 私も目をそらした。


 変な沈黙が落ちた。


 波の音と、厨房の音だけが聞こえる。


「……仕事戻る」


 陽太が先に言った。


「うん」


 彼が離れていく。


 私はシロップのふたを閉めながら、心臓が少し早くなっていることに気づいた。


 見すぎじゃない?


 何を言っているんだ、私は。


 別に見てほしいわけじゃない。


 でも、陽太が私の顔に気づいていたことが、少しだけ嬉しかった。


 それがまた、悔しかった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


第3話は、夏実が海の家の仕事に慣れ始める一方で、陽太のことを少しずつ意識し始める回でした。


ずっと住んでいるからこそ見えなくなっていた湘南の海。

でも、海の家で働くことで、夏実は「ここが誰かにとっての特別な場所」なのだと気づいていきます。


そして、そんな夏実の表情を見ていた陽太。

何気ない会話の中に、二人の距離が少し近づく気配を書きました。


次話では、夕方の西浜で、夏実の気持ちがもう少しはっきり動き出します。

続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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