第2話 海の家「夕凪」の初日
海の家「夕凪」での初日が、本格的に始まります。
注文を間違えたり、おつりに慌てたり、思うように動けなかったり。
夏実にとって、海の家の仕事は想像以上に大変なものでした。
けれど、そんな中で見えてくる陽太のさりげない優しさ。
七月一日の片瀬東浜で、夏実の夏が少しずつ動き出します。
最初のお客さんは、小学生くらいの男の子を連れた家族だった。
「かき氷、いちご二つとブルーハワイ一つください」
「あ、はい」
私は注文用紙に書こうとして、ペンを落とした。
拾って、また書こうとして、今度はブルーハワイの欄を見つけられない。
背中に汗が浮かぶ。
りこ先輩が横から小さく言った。
「かき氷は色だけ書けばいいよ」
「あ、はい。すみません」
お金を受け取り、おつりを渡す。手が少し震えて、十円玉が一枚、カウンターの上を転がった。
男の子が拾ってくれた。
「はい」
「あ、ありがとう」
小学生に助けられる高校二年生。
初日から情けない。
そのあとも、私は何度も小さなミスをした。
ラムネの本数を間違えた。
焼きそばの注文を厨房に通し忘れた。
お客さんに「シャワーどこですか」と聞かれて、逆方向を指しかけた。
「七瀬」
昼前、後ろから陽太に呼ばれた。
振り返ると、彼はスポーツドリンクのペットボトルを一本持っていた。
「飲め」
「え?」
「顔、赤い」
「大丈夫」
「大丈夫じゃなさそうなやつほど大丈夫って言う」
「……大丈夫だし」
「じゃあ飲めるだろ」
そう言って、陽太はペットボトルを私の手に押しつけた。
冷たかった。
手のひらから、一気に体の熱が引いていく。
「ありがとう」
小さく言うと、陽太は「ん」とだけ返して、厨房の方へ戻っていった。
お礼を言ったのに、返事がそれだけ。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
昼を過ぎると、海の家は本当に忙しくなった。
焼きそばの匂い。油の跳ねる音。かき氷機のガリガリという音。ラムネの瓶が触れ合う音。サンオイルの甘い匂いと潮風。子どもの声。笑い声。砂を払う音。波の音。
全部が重なって、頭の中が真夏でいっぱいになる。
私は何度も「いらっしゃいませ」と言い、何度も「少々お待ちください」と言い、何度もりこ先輩に助けてもらった。
陽太は厨房と外を行ったり来たりしていた。
氷を運ぶ。水を補充する。テーブルを拭く。子どもが転びそうになると、すぐに手を伸ばす。
学校では知らなかった。
佐倉陽太は、こんなふうに動く人だったんだ。
夕方。
日が少し傾き、客足が落ち着いてきた頃、私は外に出てゴミ袋を運んでいた。
砂に足を取られて、少しよろける。
「危な」
後ろから腕を支えられた。
陽太だった。
「重いなら半分持つ」
「大丈夫」
「また大丈夫」
「今度は本当に大丈夫」
「信用ない」
「初日だから仕方ないでしょ」
自分でも驚くくらい、普通に返していた。
陽太は少しだけ笑った。
その顔を見て、一瞬言葉を忘れた。
夕方の光が、彼の横顔に当たっていた。
なぜか胸が、ほんの少しだけ鳴った。
閉店後、店の片づけが始まった。
テーブルを拭き、椅子を重ね、砂を掃く。
昼間あれほど賑やかだった東浜は、少しずつ静かになっていく。遠くに江の島が見える。夕方の空の下で、島の輪郭が黒くなっていた。
「初日、どうだった?」
片岡店長に聞かれた。
「大変でした」
正直に答えると、店長は笑った。
「だろうな。でも初日にしては頑張ってたよ」
「本当ですか」
「うん。注文間違えたけど」
「すみません」
「通し忘れもあったけど」
「すみません」
「でも逃げなかった。それで十分」
逃げなかった。
その言葉が、少しだけ胸に残った。
私は逃げたかったのだろうか。
いや、逃げたいほどではなかった。ただ、何度も消えたくはなった。
それでも、最後まで立っていた。
それだけでいいのだろうか。
片づけが終わった頃、空は茜色になっていた。
私は店の前に立ち、海を見た。
東浜の砂浜には、まだ数人の人が残っている。波打ち際で写真を撮るカップル。走り回る子ども。海を眺める人。
ここは、私にとって当たり前の場所だった。
小さい頃から何度も来た。学校帰りに友達と寄ったこともある。江ノ島なんて、観光客が思うほど特別じゃないと思っていた。
でも今日、海の家の中から見るこの場所は、少し違っていた。
ただの地元じゃなかった。
誰かにとっての夏で、誰かにとっての思い出で、誰かにとっての特別だった。
「七瀬」
陽太が横に立った。
「初日で辞める?」
「辞めないよ」
「ならよかった」
「何それ」
「初日で来なくなるやつ、たまにいるから」
「私は来る」
「そっか」
陽太は海を見たまま言った。
「じゃあ、明日もよろしく」
その言い方が、当たり前みたいで。
明日も、ここで会うことが決まっているみたいで。
私は少しだけ、胸の奥があたたかくなった。
「うん。よろしく」
七月一日。
片瀬東浜で海が開いた日。
私の夏も、少しだけ動き始めた。
最悪の初日だった。
でも、少しだけ胸が鳴った。
その理由を、私はまだ知らなかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第2話は、夏実にとって初めての海の家バイトの一日でした。
失敗ばかりで落ち込む中でも、最後まで逃げずに立っていた夏実。
そして、何気なくスポーツドリンクを渡してくれる陽太。
まだ恋とは言えないけれど、少しだけ胸が鳴る。
そんな夏の始まりの空気を書きました。
次話では、海の家での日々に慣れ始めた夏実が、陽太のことを少しずつ意識していきます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




