第1話 7月1日、片瀬東浜で君と夏が始まった
七月一日、江ノ島の海が開く日。
海の家で初めてのアルバイトをする夏実と、同じ高校の佐倉陽太。
まだ恋とも呼べない距離から、二人の夏が少しずつ始まります。
潮の匂い、かき氷、ラムネ、焼きそば、サンオイル。
湘南の夏を感じながら読んでいただけたら嬉しいです。
七月一日の片瀬江ノ島駅は、朝からもう夏だった。
改札を出た瞬間、白い帽子、ビーチサンダル、浮き輪を抱えた子どもたちが、いっせいに海の方へ流れていく。
竜宮城みたいな駅舎を背にして、私はリュックの肩ひもを握り直した。
今日から、海の家でバイトをする。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が落ち着かない。
潮の匂いに、日焼け止めの甘い匂いが混じっていた。
駅から海へ向かう人たちの肩や腕から、サンオイルみたいな夏の匂いがふわっと流れてくる。焼けた砂の熱、コンビニで買った冷たい飲み物のビニール袋、どこかの海の家で火を入れ始めた鉄板の油。
片瀬東浜に近づくほど、空気はただの朝ではなくなっていく。
七月一日の湘南は、匂いから先に夏になる。
私が今日から働く海の家は、片瀬東浜の端の方にある。
名前は「夕凪」。
白い板に青いペンキで、海の家 夕凪、と書いてある。その下に、小さく貝殻の絵が描かれていた。
私は看板の前で一度立ち止まり、深呼吸をした。
「よし」
誰にも聞こえないくらい小さく言ってから、店の中に入った。
「おはようございます。今日からバイトの七瀬です」
声が少し裏返った。
奥から、日焼けした男の人が顔を出した。短い髪に黒いTシャツ。見るからに海の人、という感じがする。
「ああ、七瀬さんね。おはよう。店長の片岡です。今日からよろしく」
「よろしくお願いします」
「緊張してる?」
「……はい、かなり」
正直に言うと、片岡店長は笑った。
「大丈夫。初日から完璧にできる高校生なんていないから。とりあえず荷物は奥に置いて。Tシャツ、そこにあるから着替えて」
「はい」
海の家の中は、いろんな匂いがした。
まだ新しい木材の匂い。鉄板に油をなじませる匂い。冷凍庫を開けた時の白い冷気。誰かの腕に塗られた日焼け止めの甘い匂い。そこに潮風が入り込んで、全部を少しだけ湿らせていく。
学校の教室とも、家の台所とも違う。
ここは、夏のためだけに作られた場所なんだと思った。
私は指定された白いTシャツに着替えた。胸元に小さく「夕凪」と入っている。
「七瀬さん?」
声をかけられて振り返ると、髪を一つに結んだ女の子が立っていた。
「私、藤井りこ。高三。今日はホール一緒だからよろしくね」
「あ、はい。七瀬夏実です。よろしくお願いします」
「夏実ちゃんね。名前かわいい。夏の海の家にぴったりじゃん」
「よく言われます」
私は少しだけ笑った。
夏実。
夏に実る、と書く。
母は「あなたは夏みたいに明るく育つと思ったの」と笑っていたけれど、私は自分のことをそんなに明るい人間だと思ったことはない。
むしろ、すぐ不安になる。
初めての場所で、初めての人たちと、初めての仕事。
もう帰りたい。
そう思った瞬間だった。
「店長、氷、奥に運んどいた」
低い声がした。
何気なく振り向いて、私は一瞬、固まった。
佐倉陽太だった。
同じ高校の二年生。
クラスは違う。廊下ですれ違ったことは何度もある。でも話したことはほとんどない。
学校では、目立つタイプではない。
でも、今の陽太は違った。
黒いTシャツ姿で、肩にタオルをかけて、少し日焼けした腕に力が入っている。学校の制服姿より、ずっと海に馴染んでいた。
「あれ」
陽太も私に気づいた。
「七瀬?」
「佐倉くん?」
「ここでバイト?」
「うん。今日から」
「へえ。……七瀬も来たんだ」
それだけ言って、陽太はすぐに目をそらした。
でも、私が着ている「夕凪」のTシャツを一瞬だけ見た気がした。
りこ先輩がにこにこしながら私たちを見た。
「陽太、夏実ちゃんと同じ学校?」
「はい。同じ高二です」
「じゃあ知り合い?」
陽太は私をちらっと見た。
「知ってるけど、あんま話したことない」
「そうなんだ。じゃあこの夏で仲良くなりなよ」
「はいはい」
軽く流したその返事に、私は少しむっとした。
仲良くなりなよ、なんて言われると、こっちが変に意識しているみたいじゃないか。
でも陽太は、全然そんな感じではなかった。
それがまた、少しだけ面白くなかった。
午前九時。
海開きの日の東浜は、ゆっくりと人で埋まり始めた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第1話は、夏実にとって初めての海の家バイトと、佐倉陽太との再会の回でした。
学校ではほとんど話したことのない相手でも、場所が変わると、少しだけ距離も変わる。
そんな夏の始まりを書きました。
このあと、片瀬東浜の海の家「夕凪」で、夏実と陽太の距離が少しずつ近づいていきます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




