六章 御常御殿 02
「祥子……」
今上帝はよろめきながら背後を確認してつぶやいた。
藤皇后は夫帝の体を貫いた手を無造作に引き抜く。
今上帝の体はびくりと大きく痙攣し、糸の切れた操り人形のように床に崩れ落ちた。
鮮血に染まった皇后の手には、赤黒い肉塊が握られている。
(助けてくださったの……?)
固唾を飲んで目を見開く寧々の目の前で、皇后は手を口元に持っていくと肉塊に齧り付いた。
次の瞬間、皇后の表情が変わる。
それまで無表情だったのに、目の色を変えて貪り始める。
ガッガッ……ふご、ぺちゃ……。
咀嚼音だけでなく喰らいつく仕草も動物的で、高貴な女性とはとても思えない姿である。
(あれってまさか陛下の心臓……?)
今上帝の血肉を嚥下する度に、皇后を取り巻く瘴気の濃度が上がる。
その光景に寧々は理解した。
目の前にいる女性は人間ではない。禍物だ。
分類が何になるのかはわからないが、理から外れた存在が皇帝を弑した。
(ならば羽々斬が通るはず)
寧々は手にしたままだった羽々斬を改めて握り直した。
だが、千晃が母と認識している存在を斬ってもいいものだろうか。
ためらっている間に藤皇后は肉塊を全て胃に収めてしまう。
けれども満足できなかったらしく、彼女はその場に四つん這いになると、倒れ込んだ今上帝の背中に大きく口を開けて喰らいついた。
「お止めください、母上!」
呆然としていた千晃が自失から回復して動いた。藤皇后を制止しようと手を伸ばす。
しかし彼女から溢れ出す黒い瘴気に触れた瞬間、バチンと火花が発生した。
おそらく霊力と瘴気が干渉して反発したのだろう。
千晃の唇から苦しげな呻き声が漏れる。
「千晃様!」
寧々は慌てて手を押さえて顔を歪めた彼に駆け寄った。
「俺は大丈夫です。それよりも母上を止めないと……父上の玉体が損なわれる……」
千晃は無事な左手から霊力を発生させると、今上帝の背中に顔を埋めて血肉を啜る藤皇后に向かって放った。
「があっ!」
霊力の弾が命中すると、藤皇后は呻いて顔を上げた。
その瞳が千晃を捉える。
かと思ったら、彼女はおよそ人間にはありえない速度でこちらに飛びかかってきた。
――千晃を護らなければ。
寧々は咄嗟に羽々斬に霊力を込め、藤皇后の右腕に向かって一閃する。
「があああああぁっ!!」
光の刃に腕を斬り飛ばされ、皇后は苦悶の叫びをあげる。
彼女の腕は、床に落ちると同時に黒い霧を放ち、白骨へと形を変えた。
「禍物……」
千晃がつぶやいた。
彼にも目の前にいる女性が、母親の姿をした人外だと認識できたようだ。
「ふーっ、ぐるるるるる……」
藤皇后は獣のように唸ると、今度は寧々に向かって突進してきた。
(速……!)
羽々斬では防げないと判断した寧々は回避を試みるが、予想外の速度に避けきれず、瘴気を纏った拳が左肩を掠めた。
「ぐっ……」
とんでもない激痛に、寧々は呻きながら膝を付く。
そこを見逃してくれる藤皇后ではなく、掴みかかってきた。
今度はギリギリのところで避けられた。
だが皇后は間髪入れずに蹴りを入れてくる。これは羽々斬の柄で受け止めた。
次は左右の拳。続けて左肩への噛みつき。
速すぎて羽々斬に霊力を込める余裕がない。
おそらく次に一発でも貰えば致命傷になる。
痛みをこらえているので長くは持ちそうにない。
瞬時に判断した寧々は、皇后の目が自分の左肩を追っているのに気が付いた。
(食べたいの?)
今上帝の肉を食べた。
目が血走りよだれを垂らしている。
皇后の様子からそう導き出した寧々は、次の噛みつきに合わせて左肩を差し出した。
肉を切らせて骨を断つ――肩を犠牲に羽々斬の一撃を食らわせてやろうと思ったのだ。
しかし寧々の目論見は外れた。
想像以上の激痛に、それどころではなくなった。
手から羽々斬が滑り落ち、皇后の腕が寧々の体を捕らえる。
死の恐怖が頭をよぎった。
「千晃様、草薙を! 早く!」
遠く、晃成の声が聞こえた。
その直後である。
「うがああああっ」
野太い雄叫びが聞こえ、寧々の体は後方に投げ出された。遅れて臀部に衝撃が走る。
状況を把握しようと顔を上げると、千晃が藤皇后に深々と刀を突き立てていた。
そのおかげで寧々は解放されたらしい。
藤皇后は苦悶の声を上げて体をよじる。
身の危険を感じたのか、千晃は刀を放棄して後方に下がった。
皇后はそれを常人にはありえない瞬発力で追う。
千晃はすんでのところで霊力の壁を展開し、母后の拳を防いだ。
「ぐる、ぐがあああ!」
藤皇后は思い通りにいかなかったのが許せないのか、吠えながら壁に体当たりをする。
瘴気を帯びた突進に壁が壊れ、千晃は後ろに跳ね飛ばされた。
「千晃様!」
寧々は畳の上に落ちていた羽々斬を拾うと、千晃と藤皇后に向かって駆け出した。
そして走りながら青白く光る刃を出現させ、藤皇后を背後から斬りつける。
最強の退魔の剣という触れ込みは嘘ではなかった。
何かを斬ったという手応えはないのに、藤皇后の体は左の肩口から右の腰にかけて真っ二つになる。
「あ……ぐが……」
その呻き声が最期の発声だった。
皇后の体は切り口から塵に変わっていく。
そして……。
骨と千晃が突き刺した刀だけが残り、畳の上にどさりと落ちた。




