再確認する異世界の絆
「くっ……! ぐ、ぅぅぅぅぅぅううう……!!!」
勇者としての自分を完膚なきまでに破壊された凪は、頭を掻き毟りながら顔を伏せた。もう彼は、自分が勇者ではないと思い知り、その上で自分が何のためにこの世界にやってきたのか、存在しているのかが分からなくなったのだ。
故に苦悩し、これからどうするべきなのかを分からないでいる。挙句の果てに、今ここに彼を支えてくれる存在は居ないのだ。ジークやシルフィは勿論、巫女セシルは桔音によって先に潰されてしまった。
たった1人で立ち直れる程、今の彼は強くはない。
桔音はそんな彼を見下しながら、もう興味はないとばかりに視線を切った。そして、テーブルに置いておいてルルの小剣を手に取る。項垂れている凪が邪魔だから、さっさと片付けてしまおうと考えたのだ。
鞘から剣を抜き、膝を付きながら頭を垂れる凪に近づいた。
「もう良いよ、さくっとぶっ殺してやるからそろそろ死んでね」
「きつね様……」
「あー……ごめんねルルちゃん」
そして、小剣を振り下ろそうとした桔音だが……ルルが不安そう、というか怯えたような表情で桔音の服を引っ張った。
そんなルルの表情を見て、桔音は心中を察する。ルルは元々奴隷として過ごしていた子だ。奴隷になる前に何があったのかは知るところではないが、人が死んだのを見たことがあるかもしれない。となれば、人が死ぬのは勇者であろうと怖いのだろう。それは例え人が死んだことを見たことが無くとも、同じ事だ。
桔音は、人が死ぬ所を見たくないというルルの気持ちを汲んで、再度剣を鞘に収めた。溜め息を吐きながらも小剣をテーブルに置いた桔音は、凪に声を掛ける。
「勇者気取り君」
「……」
桔音が呼ぶと、凪はゆっくりとだが顔を上げた。これ以上何を言われるのかという怯えと、桔音本人に対する恐れの感情が、彼の瞳に浮かんでいる。
「僕は君を許さない。でも少なくとも、君が僕にやった事の分は清算させて貰う」
「……なにを……」
「明日の夜、あの巫女と一緒に外門前においで……今くらいの時間で良いから。そこで、全部ケリを付けよう」
桔音の言葉に、凪は疑問も抱く余裕もないらしく、力なくその言葉に頷いた。そしてふらふらと立ち上がると、もうこの場に1秒でも居たくないと思う程早々と、部屋を出て行った。
そして、扉がバタンと閉められるのを見送った桔音は、ふぅと嘆息する。そして、どさりとベッドに腰を落とした。フィニアもルルも、ほっと息を吐いている。
「きつねさん、明日どうするの? あの勇者、もう再起不能っぽかったけど」
「うん、一応今のと昨日ので勇者と巫女は精神的にぶっ殺したから、僕が受けた精神的ダメージの清算は出来たと思ってる。だから後は肉体的ダメージの清算をしないとね?」
「とゆーことは、きつねさんをボッコボコにしたあの時と同じ分ボッコボコにするってこと?」
「まぁ一応やられた分のつりあい位は取れるでしょ。この先も許さないけど、それで今後会う度戦ってたら切りが無いからね……ケリを付けば、今後会っても復讐目的で手出しはしないさ」
フィニアの問いに、桔音はそう返す。
復讐を終えれば、今後勇者やその仲間に手出ししたりはしない。桔音としても、延々勇者達に復讐心を抱き続けるのは流石に疲れる。この辺でケリを付けて、早く勇者達から目的を元の世界へ帰ることへと変更しようと思っているのだ。
そろそろ、篠崎しおりとの約束を果たさねばならないのだから。
故に、桔音が今からやる事は多い。
まずはこの筋肉痛を治す為に休み、スキルが使えるようになったら……『瘴気操作』と『初心渡り』だけでいい、使えるようになったら、早くレベリングをして最低限勇者にダメージを与えられるだけのステータスを手に入れる。
そして次に、ケリを付けた後、レイラ達を助ける為にフィニア達を連れてルークスハイド王国へと戻る。幽霊屋敷の件も、さっさと片付けるつもりだ。
そして、何もかも片付いたのなら……改めて、元の世界に帰る為に動き出す。
「……しおりちゃんを待たせるのもなんだしね」
「?」
「なんでもないよ」
首を傾げるフィニアの視線に、桔音は首を振って苦笑した。
◇ ◇ ◇
桔音の部屋を出た凪は、まるで吸い込まれるように自分の部屋の扉を開けて、中に入った。そして、俯きながら……部屋の床を視界に収めながら、自分の荷物の置いてあるベッドにふらふらと向かって行く。
―――勇者になろうとしているだけのお前は……けして勇者じゃない。
勇者じゃない、そう言われて凪は、自分の中に在った筈の大切な何かが崩れていくのを感じた。何もかも無駄だった、何もかも無意味だった、勇者として戦おうとしていた自分は、唯のちっぽけな男子高校生だったのだと、思い知らされた。
―――人を救いたいなら、ボランティアでもしてな。この勇者気取りが。
勇者気取り。言い得て妙だ、自分はどこまでも勇者を目指そうとしていただけの男で、召喚されたからこそ勇者を名乗っているだけの『勇者気取り』。
桔音の言う通りだと思った。勇者とは、勇気のある者。弱くても、戦えなくとも、涙を流そうとも、鼻水を垂れようとも、脚が震え、心が怖いと怯えていても、それでも脅威に立ち向かう勇気を持った者。人々に勇気を与える事が出来る者……人はそれを『勇者』と呼ぶのだ。
召喚されただけの凪は、勇者のスタートラインにすら立っていなかった。精々、勇者になるチャンスを得ただけの男子高校生だ。
そして彼は間違えた。桔音に会って、勇者として張り切るあまり空回りし、やったことと言えば1つの絆を引き裂いただけ。問題に立ち向かわず、思考を放棄し、自分が正しいのだと信じて疑わず、結局人を傷付けた。
勇気もなければ、勇気を与えられた訳でもない。何が『希望の光』だ、名前だけの勇者に意味などないじゃないか。
不意に、涙が流れた。視界に入って来る木の床に、自分の涙が染み込むのが見えた。唇が震え、歯を食いしばって、眉間に皺を寄せ、顔をくしゃくしゃにして、肩を震わせていた。落ちていく涙の雫は、どんどん数を増す。
「く……っ……ぅ……ぅぅぅ……!」
嗚咽が漏れる。
悔しかった。勇者でないことを言われた事が、ではない。自分を勇者だと信じ、勇者がどういう者かも考えずにいた自分に、だ。これではまるで、ピエロか道化。何が人を救うだ、自分の事も面倒見切れていない癖に、そんなことが出来る筈もなかったのだ。
その時、ふと凪の足が止まった。
「……?」
「……大丈夫ですか? ナギ様」
視界に入る木の床に、自分以外の足が見えたからだ。白い足袋に包まれ、カランという小気味良い音を響かせる下駄を履いた、自分よりも小さな足。緋袴の赤い裾が揺れている。
そしてなにより、俯く自分の目の前から振ってきた声は……聞き違える事もない、彼女の声だった。
ゆっくりと、顔を上げる。
「……泣かないでください、ナギ様……貴方が泣いていると、私も悲しい……」
「……セシ、ル……」
そこには、思った通り……セシルが立っていた。目を覚ましたのかと思ったが、それを口にする前に、セシルがその綺麗な指で凪の涙を拭った。茫然と、凪はセシルの顔を見つめる。彼女は泣きそうな表情で、自分を見ていた。
そこで初めて、凪は自分の中で何か感情をせき止めていた物が決壊するのを感じた。
結果、凪は溢れ出る悔しさとどうにも出来ない無力感に、大声を上げて泣いた。彼にとっても初めてだった、この年になって、これほど無様に、子供の様にわんわんと泣くことなんて、思っても見なかった。これほど、これほどまでに自分の手が届かないなんて思わなかった。
『勇者になる』という、文字にしてたった5文字のことが、こんなにも―――重い。
恥も外聞も捨てて、涙を流す凪を……巫女はそっと抱き締めた。凪の頭をその豊満な胸に埋めて、凪の慟哭をその身で受け止め続けた。
そして、凪には見えないけれど……その瞳には強い意志が宿っていた。憎悪や怒りといったモノではない……もっと何か、自分の根底を変える様な心の変化が見えた。
セシルは、少しだけ泣き声も収まってきた凪を放し……凪の両肩にそっと手を乗せて、視線を合わせる。凪は、セシルの瞳に宿る強い意思に、少しだけ魅入られた。純粋に、綺麗だと思った。
魅入られた凪は、セシルの顔を見つめる。綺麗に煌めく、大きな瞳、長い睫毛、ピンク色の唇、白い肌、さらりと流れる黒髪、胸がとくんと高鳴るのを感じた。
セシルはそんな凪に、強い口調で告げる。
「―――貴方は、勇者です」
びくり、と身体が震えた。それは違う、と凪は込み上げてくる悔しさを感じながら言い返そうとした。
しかし、しかしだ、それは……セシルの強い意志が言わせない。言葉に詰まる凪に、セシルは言う。
「……確かに、今の貴方は勇者ではないのかもしれません。空回りして、自分の力を過信して、たくさん間違えて、今もこうして後悔に涙を流している……とても勇者とは言えないでしょう」
「……ああ、そうだよ……俺に、勇者なんて呼ばれる資格は……ない!」
「でも、少なくとも私は貴方に救われました!」
「!?」
凪の情けない言葉を、セシルはばっさり切り捨てる。貴方がそんなことを言わないでほしい、そんな気持ちが伝わって来るような、迫力があった。
「私はっ……あの少年に、巫女という勇者の道具なのだと言われました……! そして、それを私は否定出来なかった! 勇者の為に、勇者の為に、そう思って過ごしてきた私はっ……道具なんじゃないかと思いました……! そう思うと怖くて……貴方と顔を合わせるのが怖くてっ……私は一体誰なんだろうって……頭の中がぐちゃぐちゃになって……とても苦しかった……!」
「セシル……」
「でも……目が覚めて、考え続けて……私はもしも貴方が勇者じゃなかったら、と考えました……でも、例え勇者でなくとも、貴方に付いていかないなんて考えられなかった! 私は貴方だから付いていこうって思えたんです! 勇者の貴方ではなく、ナギ様という1人の貴方を……私はお慕いしているんです……!」
「なっ……!?」
唐突な、セシルの告白。気付けば、セシルは凪と同じ様に涙を流していた。
「だからっ……貴方を好きな私は、きっとセシル・ディミエッタです。『巫女』ではない、たった1人の私自身です……! 貴方が私を変えたんです……救ってくれたんです……だから、誰が何と言おうと、私だけは世界に向かって叫び続けます……此処にこうして存在している、間違いばかりで、空回りしてて、泣き虫な貴方が―――紛れもない、勇者なのだと……!」
セシルは考えて、考えて、考えて、桔音に言われた言葉を……心を圧し折る様な言葉の悪意を、自分自身で乗り越えた。乗り越えて、その上で凪への気持ちが変わらぬものだと確信した。
生まれて初めて、巫女としてのセシルではなく―――1人のセシル・ディミエッタの意志なのだと、胸を張って言える。
召喚して、自分の目の前に現れた彼……凪が、自分が心から慕い、恋した男なのだ。それが偶々、勇者であっただけのこと。
そんな彼が泣いているのなら、自分が抱き締めよう。彼が折れそうになっているのなら、自分が支えよう。彼が後悔しているのなら、自分も共に背負おう。彼が道に迷ったのなら、自分が道標になろう。彼に勇気が足りないのなら、自分が彼の勇気になろう。
「貴方は私の勇者です……それじゃ、駄目ですか……!」
今度は逆に、セシルが凪の胸に顔を埋め、消え入るような声でそう言った。
対し、凪は自分の胸で肩を震わせる、巫女ではない、たった1人の少女を見て……自分の中にあった溢れんばかりの後悔と悲しみが消えている事に気が付いた。
そして、今度は身体中を満たす様な活力が湧いてくるのを感じた。
「……駄目じゃない」
セシルの言葉の1つ1つを噛み締めて、凪は自分の胸で泣く少女を強く抱き締める。こんなにも華奢な少女に此処まで言われて、心が震えない男はいない。
自分達は間違えたのだ。間違えて間違えて、今は勇者なんてとても呼べないけれど……間違えたのならやり直せば良い。何度でも、やり直せば良い。
この小さな少女が、自分を勇者だと言い張ってくれるのなら……彼女の想いに応えよう。その為に何度でも立ち上がろう。
「ありがとう、セシル……もう少し頑張ってみるよ」
「……あい゛」
「っははは……酷い顔だ、ぐしゃぐしゃだぞ」
凪は、自分の胸から顔を上げたセシルの涙と鼻水に塗れた表情に噴き出して笑った。言葉の通り、ぐしゃぐしゃだ。
でも、汚いとは思わない。寧ろ、凪はもう1度セシルを強く抱き締めた。
「っ……ナ、ナギ様……」
「ぐしゃぐしゃだから……泣き止むまでこうしてろ。そうすれば、俺には見えない」
「……ありがとう、ございます……っ……!」
セシルは凪のそんな優しい抱擁に、今度は嬉しさのあまり涙を溢した。