第8話 ——ようやく、目覚めましたわね。
九条べに、25歳。
九条開発ソリューションズ株式会社の常務取締役。
社内では「女帝」と恐れられる存在だ。冷徹で完璧。
誰も逆らえない。
だが、そんな自分を、鏡で見るたび、胸の奥に小さな違和感がよぎる。
それは、幼少期から始まっていた。
九条家は、世界的な大企業を率いる名家。
父は会長、母は政界の名士。
私は一人娘として、生まれた瞬間から「期待」の塊を背負わされた。
幼稚園では、すでに英会話とピアノを習わされ、テストでは常に満点を取らなければならなかった。
周囲の視線が、重い。
教師の褒め言葉、両親の満足げな笑顔。
それに応えようと、必死に努力した。
だが、心のどこかで、違和感が芽生えていた。
「本当に、これが私の望むこと?」
そんな疑問を、口に出すことはなかった。
期待に応えるのが、私の役割だと思い込んでいたから。
小学校では、学業でトップ。
中学では、全国模試で一位。
すべてが、完璧にこなせた。
才能があったのかもしれない。
だが、喜びは薄い。
まるで、誰かのために演じているような感覚。
高校時代は、名門の私立校。
そこに、磯崎浩一という男がいた。
高校時代の先輩だったらしい。
「覚えていますか?俺、高校時代にあなたに告白した磯崎です。まだ好きなんです」
入社式のあと、そう言われた。
高校時代にも告白した、と彼は言っていた。
だが、私はまったく覚えていなかった。
高校生活は、忙しく、家族からの重圧もあり、恋愛関係にかまける余裕はなかった。
あの頃の私は、恋愛など二の次。
学業と部活に没頭した。
陸上部では、オリンピック強化選手の候補にまであがったほどだ。
「九条さん、才能がある。ぜひ、代表を目指してくれないか」
コーチの言葉に、首を振った。
「いえ、進学します」
九条家の期待は、会社を継ぐこと。
スポーツは、ただの箔付け。
大学は、当然のように東大法学部。
首席で卒業。
大学院ではMBAを取得。
在学中、インターンで九条家が持つ子会社の一つ、九条開発ソリューションズ株式会社に入社。
そこから、後継者争いが始まった。
九条家は、血縁だけでなく、能力で選ぶ伝統があった。
叔父の息子や、遠縁の者たちと競う。
プロジェクトを次々と成功させ、二十五歳で常務に上り詰めた。
実力だけではない。
九条家の後継者選抜の一環として、若いうちから役職を与えられ、結果を出せなければ即座に落とされる立場だった。
管轄下の社員は数百人。
うちの一人が、磯崎浩一。
営業部長だ。
高校の先輩だということは、入社してすぐに言われて思い出したのだ。
今、私はオフィスの最上階で、報告書をめくる。
完璧な一日。
だが、最近、胸の違和感が強くなっている。
夢を見るようになった。
銀髪の女性——エクレア?
そして、誰かを「ご主人様」と呼ぶ自分。
ガーネット、という名前。別次元での記憶?
馬鹿げている。だが、生々しい実感があるのだ。
ばかばかしいと切り捨てられない自分がいる。
「常務、失礼します」
秘書が入ってくる。
「磯崎営業部長から、報告です。あの案件ですが・・・・」
私は眉を寄せる。
磯崎に任せたはずの大型プロジェクト。
取引先との仕様変更が絡み、トラブルが発生しているらしい。
「詳細を」
秘書が資料を差し出す。
見れば、磯崎の指示ミスが原因。
取引先のメールを無視し、強引に進めた形跡がある。
「磯崎を呼べ」
数分後、磯崎が入室。彼は、汗を浮かべている。
「常務、すみません。部下のミスで・・・・」
嘘だ。
資料を見れば、磯崎本人の判断ミス。
部下に押し付けている。
「磯崎部長。あなたの指示でしょう?取引先の『明後日まで』というメールを無視したのはなぜ?」
彼の目が泳ぐ。
「いや、それは、失敗係の奴が・・・・」
失敗係?
社内のあだ名か。資料をめくる。
担当者は、33歳の男。私の担当の部署の一つだ。
「この男のこと?」
「ええと・・・・彼です。いつもミスばかりで・・・・」
磯崎の言葉を遮る。
「待ちなさい。自分のミスを、彼に押し付ける気なの?」
磯崎の顔が青ざめる。
高校時代の面影など、ない。ただの無能な部下。
「いえ、そんな・・・・」
私はため息をつく。
だが、ふと、胸がざわつく。
この「失敗係」の男。
資料の写真を見ると、どこかで見た気がする。
夢の中の・・・・ご主人様?
——九条べに。
突然、頭に声が響く。
女性の声。
エクレア・・・・様?
なぜか、自然に名前が浮かんできた。
——ようやく、目覚めましたわね。ご主人様の魂が、近くにあります。
私は目を閉じる。
記憶が、洪水のように蘇ってきた。
別次元での記憶。
ガーネットとして、ご主人様に仕えていた日々。
献身、忠誠。
そしてすべてを捧げる喜び。
彼が・・・・ご主人様?
——ええ。わたくしの力で、九条べに。あなたの記憶を呼び覚ましました。
胸が熱くなる。
冷徹な女帝の仮面が、剥がれ落ちる。
「磯崎部長。この案件、私が直接フォローする。あなたは、反省書を提出しなさい」
磯崎は慌てて退出する。
私は資料を握りしめる。
この男、いえ、この方、ご主人様に、会わなければならない。
胸の奥で、何かが膝をつくような感覚がした。
命令されたわけでもないのに、頭を垂れたくなる。
守るべき存在。私のすべてを、捧げるべき人に。
その日の午後、私は部署を訪れた。
視線が集まる中、彼のデスクを探す。
そこに、座る男。疲れた顔をしているがどこか懐かしい。
「あなたが、『失敗係』?」
彼は驚いて立ち上がる。
「九条常務・・・・はい」
私は微笑む。
初めての、心からの笑み。
「この案件、あなたのミスじゃないわ。磯崎部長の責任よ」
彼の目が、わずかに輝く。
——ご主人様。
エクレア様の声が、優しく響く。
——ガーネット、いえ、九条べにが、動き始めましたわ。これから、すべてが変わるでしょう。
私は手を差し出す。
「一緒に、片付けましょう。私のオフィスで」
彼は戸惑いながら、頷く。
これが、始まり。
私の献身が、目覚める瞬間。
外は、冬の陽が傾く。
だが、私の胸は、熱い。
——すべては、ご主人様の意思のままに。




