第7話 判断の味方
会議は、いつものように重い空気で始まった。
磯崎部長が、資料をパラパラめくりながら、突然言い放つ。
「この仕様変更、今日中で頼むわ。失敗係、できるよな?」
周りの視線が、俺に集中する。
今までは、ここで「はい」と頷くしかなかった。
だが、今日は違う。
エクレアの声が、耳元で囁く。
——ご主人様。わたくしが掴んだ情報では、取引先から「3日後まででいい」と言われているそうです。ただ、ご自分が早く終わらせたいだけです。
俺は息を吸い、静かに口を開いた。
「・・・・部長、それ仕様変更ですよね?取引先には確認を取ったんですか?」
一瞬、部長の目が泳ぐ。
「細かいこと言うなよ。まあ、なんとかなるだろ」
「確認しないまま今日中に進めるのは危ないと思います。たしか、取引先は3日後まででいいという話でしたよね?」
もちろん、俺自身が直接そのメールを見たわけではない。
だが、エクレアの声が背中を押していた。
部長は舌打ちし、
「・・・・まあ、明日まででいいよ。失敗係、ちゃんとフォローしろよ」
と、声を低くして会議を進めた。
周りの空気が、少し変わった。
くすくす笑いが、部長の方に向いた気がした。
会議が終わって廊下に出ると、背後から声がした。
「失礼します」
振り返ると、同じプロジェクトに参加している女性社員・高橋さんが立っていた。
三十代前半くらい。
でも俺より年下だったはず。
いつも冷静で、仕事はきっちりこなすタイプ。
俺とはほとんど話したことがない。
スーツはシンプルだが、目つきが鋭い。
冷たいわけじゃない。
ただ、プロフェッショナルだ。
「今の会議の件ですが」
淡々とした口調で、彼女は続ける。
「あの判断は、合理的じゃないわ。仕様変更なら、再見積もりが必要よ」
・・・・いきなりだな。
「ええと、高橋さん・・・・なんで?」
俺が聞くと、彼女は少しだけ眉を寄せた。
「あなたが確認したからよ。あの部長の言いなりになる人ばっかりの中で、ちゃんと突っ込んだの、初めて見たわ」
本当は、エクレアのおかげだ。でも、それを言えるわけがない。
——ご主人様。この方は、嘘や理不尽が嫌いなようですわ。ご主人様の“やり返し”を見て、興味を持っておられます。
エクレアの声が、静かに響く。
高橋さんは続ける。
「部長の指示が間違ってるなら、従う必要ないわ。後で揉めるだけよ」
強い言葉なのに、感情が混じっていない。
ただ、事実を述べているだけ。
「あなた、一人で背負いすぎじゃない?私もあのプロジェクトに関わってるんだから、共有して。資料、まとめ直すの手伝うわ」
俺は思わず、彼女を見た。
「いや、でも・・・・高橋さん、俺みたいな失敗係に?」
彼女は一瞬、口元を緩めた。珍しい表情だ。
「失敗係?あんな呼び名、くだらないわ。判断の質で人を見るべきよ。あなたは、少なくとも正しい確認をした。それで十分」
そう言って、彼女は名刺・・・・いや、社内だからメモを差し出した。連絡先が書いてある。
「資料、共有して。無理な点があれば、言って」
その一言が、妙に重かった。
俺はメモを受け取り、少しだけ息を吐いた。
「・・・・正直、助かります」
彼女は小さく頷き、「当然よ」と言い切って、立ち去った。
その背中は、まっすぐだった。
——ご主人様。今、この方はご主人様を“対等なパートナー”として見ておりますわ。好意ではありませんが・・・・守ってくれそうな、強い味方になりそうです。
その日の夜。
作業を進めていると、高橋さんからメールが来た。
添付ファイルと、短い文。
〈仕様変更のポイント、整理したわ〉
〈確認して。歪みが出ないよう調整した〉
〈何かあったら、連絡して〉
無駄のない文面。でも、正確だ。
俺は資料を開き、思わず唸った。
・・・・完璧だ。
必要なところを、きっちり押さえている。
——ご主人様。この方は、ご主人様があの嘘を見破ったことをきっかけに興味を持たれた様子。
——彼女自身、過去に理不尽な嘘で苦しんだことがあるのかも・・・・。
俺はキーボードに手を置き、返信を打った。
まだ警戒は少しある。
だけど、あの人なら、少なくとも会社の誰よりも信用できる。
そんな予感が、胸に広がっていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日が過ぎ、早乙女さんとの日常は、穏やかに続いていた。
朝のライン。
〈おはようございます。今日も寒いので、暖かくして行ってくださいね〉
俺は微笑みながら、〈ありがとう。ちゃんとマフラー巻いてきたよ〉と返す。
夜になると、
〈お疲れ様でした。ご飯、ちゃんと食べましたか?〉
〈うん、コンビニで温かいお弁当買った〉
〈よかったです。明日も、がんばってくださいね〉
たったそれだけのやり取りなのに、胸が温かくなる。
休日の朝、インターホンが鳴る。
ドアを開けると、早乙女さんが紙袋を抱えて立っていた。
「・・・・おはようございます。朝ごはん、作ってきました」
中には、手作りのおにぎりと味噌汁。
「無理しなくていいのに・・・・」
「無理じゃないです。私が、したかっただけですから」
彼女は少し照れながら、笑う。
一緒に朝食を食べながら、世間話をする。
仕事の愚痴を少しこぼすと、彼女は静かに聞いて、
「大変ですね。でも、あなたはちゃんと頑張ってると思います」
そう言ってくれる。
その言葉が、嬉しく思える。
——ご主人様。
食後、片付けをしていると、エクレアの声が響いた。
——わたくしの力が、少しずつ強くなってまいりました。
——そして、新しい気配を感じております。ご主人様に仕えるべき、もう一人の魂を。
——九条べにと申す方・・・・ガーネットと呼ばれていた、わたくしの旧知の方でございます。
——現在、貴方の会社の重役としてお働きのようです。
——磯崎部長の上席に。
俺は手を止めた。
九条・・・・?
聞いたことがある。
冷徹で完璧で、誰も逆らえない女帝と噂される、あの九条常務。
——彼女の魂が、目覚めつつありますわ。ご主人様の近くにいることで、動きがあるかもしれません。
エクレアの声は、静かだが、確かだった。
俺は窓の外を見た。
外は、穏やかな冬の朝。
早乙女さんが、隣で微笑んでいる。
これから、何かが変わる予感がした。
——すべては、ご主人様の意思のままに。




