第16話 「変わらない日常と、変わった肩書き」
数日が経ち。
また、日常が始まった。
支社長として、俺は東北の小さな支社で業務を進めている。
書類の確認、事業計画の微調整、地元の取引先との連絡。
派手さはないが、確実に形になっている。
変わらず、部長の高橋さんと九条常務が顔を見せてくれる。
高橋さんは「支社の様子、どう?」と資料を整理しながら。
九条常務は「何か困ったことはない?」と、俺のデスク環境を直しながら。
他の三人——佐々木、佐藤さん、鈴木——も、そろそろ関係性がわかってきたらしい。
最初は驚いていた佐々木も、今では何も言わなくなった。
ただ、時折俺を見て、
「支社長・・・・本当に何者なんすかね」
と呟くだけだ。
変わったことと言えば、九条常務が、常務ではなくなった。
ニュースで知った。
親会社、九条コーポレーションの本社へ移ったらしい。
出世だ。
当然だろう。
だが、もともと住む世界が違うとはいえ、同じ会社ではなくなったことに、一抹の寂しさを覚えた。
ある時、本社へ行く用事ができた。
支社を出て、鈴木が付き添う。
電車の中で、鈴木が静かに言った。
「支社長、少しお連れしたい場所があるのですが・・・・よろしいでしょうか」
俺は素直に頷いた。
「いいよ。どこ?」
鈴木は小さく微笑んで、
「着いてから、お話しします」
とだけ答えた。
着いたのは、本社の親会社にあたる九条コーポレーションの総本部。
巨大なガラス張りのビル。
こんなところに、どんな用事があるんだろう。
俺は不思議に思いながらも素直について行った。
しばらくして、エレベーターが最上階で止まった。
扉が開くと、そこに九条べにが立っていた。
スーツ姿ではなく、今日はダークグレーのワンピース。
「あやめ、案内、ご苦労」
九条さんは鈴木に軽く頭を下げ、俺に向き直った。
俺は一瞬、言葉を失った。
「九条・・・・常務?」
彼女は小さく笑って、
「もう、常務じゃないわ」
「親会社へ移ったの。九条コーポレーションの執行役員よ」
俺は息を飲んだ。
鈴木が、静かに頭を下げる。
「支社長・・・・いえ、ご主人様」
俺は目を丸くした。
「え・・・・?」
九条さんが、そっと説明を始めた。
「彼女の本当の名前は、神崎あやめと言うの」
「私の腹心の部下」
「九条家に代々仕える神崎家の者で、私があなたのもとへ遣わした」
「あやめは、あなたをお守りするために、支社に潜入していてもらっていたのよ」
神崎あやめ——鈴木は、無表情で俺を見つめ、
「これまで、お側で失礼いたしました」
と、深く頭を下げた。
俺は混乱しながら、
「そうだったのか。でもみんなの前ではこれまで通り鈴木でいいのかな?」
「はい。それでお願いします」
鈴木は抑揚のない声で答えた。
気を取り直して俺は九条さんに、
「遅れましたがご栄転おめでとうございます。ですが、これからは・・・・九条常務とは、もうお呼びできませんね。何とお呼びすれば・・・・」
九条さんは柔らかく微笑んで、
「九条常務でいいわ」
「役職は変わったけど、社内では昔のまま“常務”って呼ばれてるのよ」
そう言って、俺のそばに近づき、ぎゅっと抱きしめた。
柔らかな匂い。
温かい腕。
「ずっと、こうしてあなたを抱きしめたかったの」
俺は慌てて、鈴木——神崎あやめの方を見た。
「じょ、常務・・・・人目が・・・・」
九条さんは、ゆっくり離れて、
「そうよね。ごめんなさい」
「私なんかに抱きつかれたって、迷惑よね」
そう言いながら、涙をぬぐった。
いや、そういうわけではないが。
神崎あやめは、その様子を無表情で眺めていた。
九条さんは、俺の顔を覗き込み、
「来てもらったのは、他でもないの」
「ご主人様、この前、顔色が悪かったでしょう」
「早乙女さんから聞いたわ」
「時間はかかったけど、調査させました」
「お母様に関して、よね」
俺は息を止めた。
九条さんは、テーブルの上にファイルを置いた。
「興味があれば、ご覧ください。ここに資料を置いておきますので」
「ご主人様のお役に立てば幸いです」
ファイルを持つ手が、震えた。
母親の名前、死亡記録、入院歴。
食い入るように見てしまう。
思わず息をするのも忘れる。
過去が、蘇ってくるようだった。
今は、これ以上見る気になれなかった。
俺はファイルを閉じ、
「・・・・ありがとう」
とだけ呟いた。
「無理に今じゃなくていいんですよ。いつか、必要になったら」
そう言って九条さんはゆっくり俺を抱きしめる。
神崎あやめが、静かに一礼し、
「ご主人様。何かございましたら、私も全力でお守りいたします」
俺はその言葉を聞き、胸の奥が静かに熱くなった。
孤独だと思っていた過去が、少しずつ繋がり始めている。
——ご主人様。
エクレアの声が、優しく響く。
——過去の傷が、癒され始めましたわね。
九条さんの腕の中で、俺は小さく頷いた。




