第15話 資料の影と、訪れる常務
ある夕方、早乙女さんが俺の家で仕事をしていた。
リビングのテーブルに、ファイルが広げられている。
「これ、研修用の過去事例ファイルなんです。週明けまでに確認してきなさいって言われて」
彼女は眼鏡をかけ、ペンを走らせながら、少し困ったように笑った。
「本当は個人情報は伏せてあるはずなんですけど、古いデータの一部だけ、名前が残っているみたいで・・・・。絶対に他の人には見せないようにって言われてるんです」
その時、早乙女さんがつまずき、持っていたファイルを落としてしまった。
「あっ」
ファイルが床に散らばる。
俺は反射的にそれを拾った。
チラリと内容が見えたが、確かに、これは人に見せてはいけないものだ。
ところが、視界の端に、見覚えのある名前が飛び込んできた。
・・・・え?
俺は思わず手を止めた。
その名前は、確かに見覚えがあった。
母親の名前。
俺は手にしたファイルを、震える指で確認した。
院内限定の履歴データ。
母親の名前、死亡日、病名。
場所はこの病院の系列で、長野県とある。
俺は息を飲んだ。
父親と母親は、俺が小さい頃に別れた。
俺は母親に引き取られたが、母親は何かの病気で入院し、死んだと聞かされていた。
その時、俺は高校生だった。
その後はバイトをして食いつなぎ、何とか高校を卒業。
さらに、数年バイトを続けてから、今の会社に入社した。
父親は風の噂で死んだと聞かされていた。
だから、俺は天涯孤独だ。
そうか・・・・この病院が、あの時の病院だったのか。
早乙女さんが、俺の異変に気づいた。
「どうしたんですか?顔色が悪いですよ」
俺は慌てて資料を返す。
「いや・・・・なんでもない」
と呟いた。
早乙女さんは心配そうに立ち上がり、
「何か温かいもの、入れましょうか?」
とキッチンに向かう。
その時、スマホが鳴った。
高橋さんからだ。
「今から家へ行っていい?今日、九条さんが来る日でしょう」
実は今から、九条常務が俺の家に来ることになっていた。
前から「遊びに行きたい」と言っていたが、時間が合わなかったのだ。
そして、ようやく今日少しだけ時間が取れたので、来ることになったのだ。
もちろん、高橋さんも早乙女さんも知っている。
インターホンが鳴った。
早乙女さんが玄関を開け、
「お待ちしておりました、九条さん、高橋さん」
高橋さんと九条べにが同時に俺の家に着いた。
今日は私服。黒のニットに、グレーのコート。
手には紙袋。
「お邪魔します」
「お邪魔します」
俺は立ち上がり、
「ようこそ・・・・」
九条さんは俺を見て、すぐに表情を変えた。
俺に話しかけようとする前に早乙女さんが、
「九条さん、このたびはお世話になりました。おかげさまで病院でも楽しくさせてもらっています」
と頭を下げる。
九条さんは微笑んで、
「噂は聞いているわ。私の会社の系列の病院なの。あなたを強く推薦しておいたから、何かあったら言ってちょうだいね」
早乙女さんは目を輝かせ、
「ありがとうございます!」
九条さんは紙袋をテーブルに置き、
「これ、お土産ね。京都と長野県のもの」
中には、京都の和菓子と、長野のりんごパイ。
「ちょっと用事があって、京都と長野に出張していたの」
俺は紙袋を受け取りながら、胸がざわついた。
長野・・・・。
九条さんは俺の様子に気づき、
「どうしたの?なんだか顔色が悪いわよ」
早乙女さんが、温かいお茶を運んでくる。
俺はファイルのことを言えなかった。
母親の名前が、頭から離れない。
高橋さんが、ソファに座りながら、
「何かあったら、話してね」
と優しく言った。
九条さんは俺の隣に座り、そっと手を重ねた。
「無理しないでね。身体が心配よ」
温かい。
俺は小さく息を吐いた。
孤独で辛かった記憶が蘇ってくる。
——ご主人様。
エクレアの声が、静かに響く。
——辛い記憶が、浮かび上がっておりますわね。
——ですが、今は一人ではありません。
俺は、そっと頷いた。
三人の女性に囲まれながら。
——すべては、ご主人様の意思のままに。




