第2話 月、満ちて
翌朝。
いつものように会社へ向かう電車の中で、俺は昨夜のことを思い出しては、にやけそうになるのを必死に堪えていた。
エクレア・・・・本当に存在するのか。
あれは夢じゃなかった。
胸の奥に温かさが感じられる。
しかし。
会社に着くと、いつもの空気が待っていた。
「おはよう、失敗係くん!」
朝イチで、隣のデスクの後輩・田所がニヤニヤしながら声をかけてくる。
入社三年目のくせに、俺より仕事が早くて上司受けもいい奴だ。
「おはようございます・・・・」
俺がぼそっと返すと、周りの席からくすくすと笑いが漏れる。
「昨日も磯崎部長に怒られてたよね?あの資料、結局俺が直したやつだっけ?」
別の同僚がチラリと何か言いたげな視線を向ける。
「いや、それは俺が・・・・」
「まあまあ、失敗係の仕事は失敗することだからさ。気にしない気にしない」
田所は肩を叩いてくる。
その手が、妙に重く感じる。
次は先輩の加藤さんだ。
四十代半ばのベテランで、俺が入社したときから何かと俺を「教育」してくれる人。
「おい失敗係、またミスった案件持ってきたぞ。ほら、これ。お前が担当してたクライアントのクレームだ」
デスクにどさっと書類を置かれる。
見れば、確かに俺が担当していた案件。
でも、肝心な部分は加藤さんが「もっとこうしろ」と指示を出した結果だった。
「すみません、すぐ対応します・・・・」
「ははは、謝るのはいいけどさあ。ほらみんな、失敗係がまたやらかしたぞー」
会議室の方から、磯崎部長の声が響く。
「おーい、失敗係!こっち来い!昨日の修正、まだ終わってないだろ 入社歴だけは俺より長いんだから根性見せろよ!」
周りの視線が一斉に俺に集まる。
嘲笑、冷ややか、同情、そして無関心。
俺は俯いて、ゆっくりと立ち上がる。
・・・・いつもの朝。
いつもの、負け犬みたいな一日が過ぎた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「・・・・ただいま」
誰もいない家に、帰った・・・・はずだったのに。
「おかえりなさいませ。ご主人様」
「・・・・エクレア?」
俺は思わず声を漏らした。
「身体が・・・・あるのか?」
銀色の髪が肩に落ち、紅の瞳が、俺だけを見つめ。
黒を基調としたメイド?服が肌に沿い、服の上からでもわかるほどのスタイルの良さが際立っている。
豊満な胸が、静かに上下して、
「はい・・・・今夜は『満ちる日』でございますので、わたくしは実体を持つことができました」
エクレアは、少しだけ嬉しそうに目を細める。
「ご主人様を見つけた翌日が満ちる日であったこと、わたくしにとっては幸運でございました」
「ご主人様。触れても、よろしいでしょうか」
「あ、ああ」
エクレアの手がそっと俺の胸に触れる。
「温かい。このぬくもりは久しぶりです」
「ご主人様が望むなら、わたくしは拒みません」
ゴクリ。
「今夜だけは、このぬくもりも、柔らかさも、すべて、すべてがご主人様のものでございます」
静かに、ゆっくり・・・・
「どうぞ、ご主人様。わたくしに委ねてくださいませ」
(暗転)
「よかったです。ご主人様が、これで少しでも気が楽になられたなら・・・・」
「それだけで、わたくしは幸せでございます。尽くせて、嬉しゅうございます」
「・・・・もう、そろそろお時間です。わたくしの身体が、また淡く霞んでまいりました。また、次の満ちる日まで・・・・」
「あ、ああ」
残念だ。
「どうか、お体を大切に。その時まで、声だけでお側に寄り添っておりますわ。お休みなさいませ・・・・ご主人様」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
俺は、エクレアという奇妙な同居者を得た。
声だけの存在だが、独り身の俺にとっては、それだけで十分すぎるほどだ。
俺には彼女の姿が見えるが、他の人には見えないらしい。
しかも、普段は身体が透けていて、触れることはできない。くそ。
ただし——
一月に一度だけ。
彼女の言うところの「満ちる日」だけは、エクレアは、確かに“そこにいる”。
あの夜、俺は彼女を抱いた。
現実なのか、夢なのか。
区別がつかなくなるほど、静かで、あたたかい時間だった。
慈母、という言葉が浮かび上がる。
触れられるその最後の瞬間まで、エクレアは俺の頭を抱き、何も言わずただ撫でてくれていた。
不思議なことに、身体の熱が落ち着いていくのと同時に、胸の奥に溜まっていた何かも、ゆっくりと消えていくのが分かった。
そして、彼女と話しているうちに、俺はエクレアの能力を知ることになった。
エクレアは、人の“心”が読めるのだという。
そのため、
——相手が嘘をついているかどうかがわかりますよ。
「じゃあ、もし俺がだまされそうになったら教えてくれるのか」
——ええ。もちろんでございます。
これって、めちゃくちゃラッキーなのでは。
俺って昔から騙されやすいし、押しに弱い。
困ってると言われればそうなのかと思ってしまう。
今も上司にやっかいな事務処理や案件なんかを押し付けられ、ときには失敗も押し付けられる。
挙げ句、ついた呼び名が”失敗係”だ。
——嘘かどうか教えろと言えば、いくらでもお教えいたしますわ。ご主人様。
おおおおお。
嘘を見破れるというのは大きい。
大きいぞ。
心臓が、やけにうるさい。
明日からは違った自分になれそうな予感がして興奮がとまらない。
・・・・興奮しすぎだろ、俺。
そんな俺を、エクレアはただ静かに見つめていた。
——すべてはご主人様の意思のままに。




