第7話 柔らかい視線と、冷たいスイッチ
朝のオフィスは、いつもより少し静かだった。
俺のデスクに、封書が置かれていた。
人事部からの内示。
「△△△支社長への異動打診」
左遷ではない。
むしろ、昇進に近い。
小さな支部だが、そこを統括する長に、という話だ。
俺は封書を握りしめ、しばらく考えた。
・・・・悪くない話だ。
だが、すぐに頷く気にはなれなかった。
「先輩、いい話だったんでしょ?」
隣のデスクから、後輩がニヤニヤしながら顔を覗き込んでくる。
最近入社したばかりの調子のいい奴で、俺の顔色をよく見抜く。
「先輩、顔に出やすいんですよね。すぐわかりますよ」
俺は苦笑して、
「まぁ、ちょっとね」
とだけ返した。
後輩は肩をすくめて、
「ふーん。楽しみですねぇ」
と、軽く言って自分の仕事に戻った。
俺もデスクのパソコンに向き直る。
今日もあの案件の書類が山積みだ。
「例の案件の資料、できてるか?」
「もちろんですよ、先輩。昨日中にまとめときました」
後輩がファイルを差し出してくる。
相変わらず優秀だな。
俺は受け取りながら、
「助かるよ」
と小さく呟いた。
朝のルーチンが過ぎていく。
電話、メール、打ち合わせ。
いつもの流れ。
だが、午前中が終わりに近づいた頃、部署の空気が一瞬で変わった。
ドアが開き、九条常務が入ってきた。
ヒールの音が、カツカツと響く。
周囲の社員たちが一斉に背筋を伸ばす。
最近、九条べには各部署を回るようになった。
噂では、後継者争いが本格化したせいだという。
九条家の跡取りレース。
彼女の視線は、いつもより鋭い。
隣の先輩が慌てて書類をまとめ始め、俺も自然と姿勢を正した。
だが、俺にとっては・・・・違う。
九条常務の足音が、俺のデスクの前で止まった。
「ちょっと・・・・いいかしら?」
俺は慌てて立ち上がり、
「はい!」
と返事し、あわてて小会議室へ移動する。
小会議室でお互い座ると彼女の目が俺を捉える。
他の社員が見ている前では、冷徹な女帝の目。
だが、俺にだけは・・・・柔らかい。
「この案件、どうなってるのかしら?」
柔らかな声。
俺は資料を手に取り、説明を始める。
「えと、はい。これは・・・・現在、取引先と最終調整中で・・・・」
言葉を続けていると、九条常務はさらに声を潜めた。
「支社長の件、どうするの?」
資料を返す瞬間、指先が触れた。
どきっとした。
「受けないの?何が嫌だった?立地?それとも、小さすぎる?」
俺は首を振る。
「いいえ、そういうことじゃ・・・・」
彼女の瞳が、うっとりと細まる。
「ねぇ・・・・今度、相談したいことがあるの」
甘い声。
書類を渡すふりで手の甲にそっと触れる。
胸が、熱くなる。
「本当はね。あなたの生活が気になるの・・・・」
その瞬間、小会議室の外から声がした。
「常務、よろしいでしょうか」
秘書の声。
九条常務の表情が、一瞬で変わった。
スイッチが入ったように、視線が氷のように冷たくなる。
俺の手を離し、背筋を伸ばす。
「どうぞ」
短く答える。
秘書が小会議室の中に入り、九条常務に何かを報告し始める。
「では、失礼します」
俺は頭を下げて小会議室を出た。
背中が、熱い。
周囲の視線が、チラチラと俺に向いている気がする。
九条べにの柔らかい視線と、冷たいスイッチ。
彼女の二つの顔が、俺の胸に残る。
——ご主人様。
エクレアの声が、耳元で優しく響く。
——べに様の想い、ますます強くなっておりますわ。
俺は小さく息を吐いた。
この会社で、何かがまた動き始めている。
——すべては、ご主人様の意思のままに。




