第2部 第1話 「・・・・使うしかないだろう」
以前と比べ、俺の生活は比べ物にならないほど豊かになった。
すべてエクレアのおかげだ。
エクレアに感謝の思いを伝えると、彼女は頬を赤く染めていた。
そんなエクレアがある日、俺に、別の能力の存在を示唆した。
——ご主人様。実はわたくしには、まだ危険な魔法が一つだけ残っております。
——この魔法、有用なのですが、副作用が重すぎるため、使わないに越したことはありません。
——この魔法を、わたくしはブースターと呼んでおります。
——ブースターは、一瞬だけ、ご主人様の身体能力と思考速度を大きく引き上げる魔法でございます。
——ただし、代償は重く、使用後は数日から一週間ほど眠り続ける可能性がございます。
——ですので、どうか本当に必要な時以外は、お使いにならないでくださいませ。
とんでもない魔法だ。
だが、世の中、何が起こるかわからないため一応、知っておいてほしいということだった。
その時の俺は、自分がその魔法を使う日が来るなど、少しも想像していなかった。
まして、あんな形で使うことになるとは。
部長昇進の話を受けてから数か月が経った。
結局、俺は、磯崎の後釜には座らなかった。
断ったのだ。
「この前の話だけど、プロジェクトリーダーとしても実績上げてるし、次期部長への昇進、どうかしら?」
上司の九条常務が俺を部屋へ呼んで聞いてきた。
九条常務。本名、九条べに
25歳で重役になった超エリートで、社内では「女帝」と呼ばれ畏れられている。
世界屈指の大企業を率いる九条家の後継者とも言われる雲の上のような人。
そして、俺の直属の上司で、後ろ盾といえる人。
磯崎の理不尽な叱責からも守ってくれた。
そんな人からの打診は本来は受けなきゃいけないんだろうけど・・・・
俺は首を横に振った。
「・・・・俺にはもったいない話ですが、実績が無さすぎます。九条常務の後押しで上がっても、どこかで無理が生じますよ」
彼女は一瞬、目を細めたが、ふっと息を吐いた。
「そう・・・・あなたがそういうのなら」
部長は別の者になった。
同じプロジェクトに参加していた周囲からの信頼の厚い、高橋さんだ。
以前俺のことが好きだと告白してきた人。
それからも何度か助けてもらったことがある。
磯崎のような派手さはないが、堅実でみんながついていくタイプ。
会社は少し落ち着いた空気になった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日、俺は高橋さんと一緒に取引先からの帰り道を歩いていた。
夕方の街中、信号待ちで立ち止まる。
彼女は隣で、資料をめくりながら話しかけてきた。
「君のプロジェクト、順調よね。私が正式に部長になったら、もっと任せたいんだけど」
高橋さんは笑顔で言う。
俺は照れくさく頭を掻いた。
「いや、まだまだです。高橋さんが部長で良かったと思いますよ」
そんな会話をしている最中だった。
突然、背後からタイヤの軋む音が響いた。
振り返ると、暴走したトラックが信号を無視して突っ込んでくる。
歩行者たちは悲鳴を上げ、散らばる。
高橋さんが凍りついたように動けない。
「高橋さん!」
俺は叫んだが、体が動かない。
トラックが迫る。距離はもう、数メートル。
——ご主人様。
耳元で、エクレアの声が響いた。
いつもの穏やかなトーンだが、緊迫感がある。
——ご主人様、ブースターを。
——一秒だけなら、高橋様を救えます。
トラックのエンジン音が耳を劈く。
エクレアの説明にあった代償の重さ、というものが気になった。
それでも俺は即座に決めた。
「・・・・使うしかないだろう」
——ですが、副作用がすごいのです。本当にいいのですか?
エクレアの声に、わずかな躊躇いが混じる。
彼女は俺を心配している。
でも、今はそんなこと言ってる場合じゃない。高橋さんの命がかかっている。
「頼む、エクレア。ブースターを!」
——承知いたしました。ご主人様。
次の瞬間、世界が変わった。体が熱くなり、視界がクリアになる。
音が遅く聞こえ、風の流れさえ感じ取れる。
トラックの動きがスローモーションのように見える。
俺の体は軽く、筋肉が膨張する感覚。
30倍の力が体を突き抜ける。
俺は高橋さんの腕を掴み、横に引き寄せた。
彼女の体が浮くように動く。
トラックが俺たちのいた場所を掠め、ガードレールに激突する。
衝撃波が来るが、俺はさらに彼女を抱えて後退。
時間の感覚も30倍であり、まるで30秒の感覚の中で、すべてが終わった。
だが、魔法の時間は1秒。
現実に戻ると、体が鉛のように重い。
視界が暗くなり、膝が崩れる。
——ご、ご主人様・・・・
エクレアの声が遠く聞こえる。
俺は地面に倒れ、意識を失った。




