第10話 溢れる想い
朝のオフィスは、いつもの喧騒に包まれていた。
俺はデスクで資料をまとめていると、高橋さんが隣に立っていた。
「最近、調子がいいようね」
淡々とした声。でも、口元が少し緩んでいる。
「ええ、まあ・・・・少しずつ、ですね」
俺が苦笑すると、彼女は自然に椅子を引き、隣に座った。
「この部分、取引先の要求が曖昧だから、再確認した方がいいわ。こう直せば、歪みが出ない」
差し出されたメモには、完璧な修正案が書かれていた。
高橋さんは、最近こうして頻繁にフォローしてくれる。
会議での俺の確認発言をきっかけに、彼女は「俺の判断」を重視するようになったと言っていたが、最近はそれ以上の何かを感じる。
——ご主人様。
エクレアの声が、静かに響く。
——高橋様の信頼が、かなり強くなっておりますわ。
——わたくしは、その感情がご本人の中で迷いなく形になるよう、ほんの少しだけ背中を押しました。
——嘘を見破るご主人様の姿に、惹かれているようです。過去の理不尽な経験から、ご主人様への信頼が、愛情に変わりつつあります。
俺は内心でどきりとした。
確かに、高橋さんの視線が、最近柔らかくなった。
仕事の話をする時、目が合う時間が長い。
ある日の昼休みの時だった。
屋上で二人きりになり、高橋さんが、突然立ち止まった。
彼女は、何度か口を開きかけては、閉じた。
いつもの高橋さんらしくない。合理的で、迷いのない人なのに、その時だけは、ひどく不器用に見えた。
「・・・・あなたのこと、好きよ」
ストレートだった。感情を抑えた声なのに、頰がわずかに赤い。
俺は言葉を失った。
「え・・・・高橋さん?」
「突然で、ごめんなさい。でも、抑えきれなくて」
彼女は目を逸らさず、続ける。
「あなたが、ちゃんと立ち向かう姿を見てから・・・・ずっと、気になってた。嘘や理不尽に耐えていたあなたが、少しずつ変わっていくのを見て、胸が熱くなったの」
——高橋様の想いが、限界にまで達しておりますわ。わたくし、少し背中を押し過ぎましたわね。
エクレアの声が、少し困ったように響く。
俺は何か言おうとした。
「高橋さん、俺は・・・・」
だが、彼女が先に口を開いた。
「・・・・ごめんなさい。困らせてしまって」
そう言って、彼女は踵を返した。
背中が、わずかに震えていた。
逃げていく足取りが、速い。
俺は追いかけようとして、止まった。
まだ、気持ちの整理がつかない。
人生でここまでハッキリ好意をぶつけられたことが無いだけに、俺はどうしていいか戸惑った。
——エクレアでございます。
その夜、俺はベッドに横になりながら、エクレアの声を聞いた。
——高橋様の想いが表に出るよう、少し背中を押しましたが・・・・ご主人様のお気に召さなかったようですね。
——ご主人様の心が、動かなかった。それがすべてです。
——ですが、これで高橋様は、ご主人様の強い味方になってくださるでしょう。仕事面で、守ってくださるはずです。
——次は、もっと慎重に・・・・。
エクレアの声が、優しく反省する。
俺は天井を見上げた。
高橋さんの言葉が、胸に残る。
好き、か。
嬉しい。でも、早乙女さんの顔が浮かぶ。
複雑だ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
休日の午後。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、早乙女さんが立っていた。
紙袋を抱え、柔らかい笑顔。
「おはようございます。今日は、シチューを作ってきました」
「また?無理しなくていいのに」
「無理じゃないです。あなたのために、作りたかっただけ」
彼女は自然に部屋に入り、キッチンに立つ。
俺は後ろから見守る。
背中が、温かい。
一緒に食事をしながら、世間話をした。
「最近、仕事はどうですか?」
「まあ・・・・少し、いい感じかな」
早乙女さんは、目を細める。
「よかったです。あなたが頑張ってるの、伝わってきます」
その言葉が、沁みる。
食後、彼女が近づく。
「今日は、少しだけ・・・・そばにいていいですか?」
俺は頷いた。
彼女の指が、俺の手に絡む。
温かい。
息が近づく。
「・・・・好きです」
囁き声。
俺は彼女を抱き寄せた。
(暗転)
翌朝。
目覚めると、早乙女さんが隣で微笑んでいる。
「おはようございます。朝ごはん、作りますね」
穏やかな時間。
そして、その夜。
満ちる日。
部屋の空気が、わずかに歪む。
エクレアの姿が、ゆっくりと実体化する。
銀髪が、月の光のように輝く。
紅色の瞳が、俺だけを見つめる。
「・・・・ご主人様」
声が、震えている。
「エクレア?」
「はい・・・・今夜、わたくし、実体を持つことができました」
彼女が近づく。
手が、俺の頰に触れる。
「こうして、ご主人様をお慰めして、そして甘やかしたかった・・・・」
温かい。本物だ。
「ご主人様のために、すべてを・・・・」
彼女の唇が、近づく。
息が絡む。
俺は彼女を抱きしめた。
静かで、熱く甘い時間。
(暗転)
この瞬間、なによりも、だれよりも幸せに包まれていた。
——すべては、ご主人様の意思のままに。




