9.絶望に抗う一振りの刃
静かに開かれた長月さんの瞳は、まるでアクアマリンのように青く澄み渡っていた。
夜の闇のなかでも鈍く煌めくその瞳は、相手のすべてを冷徹に見透かすかのような、どこか恐ろしさを孕んだ美しさがあった。
「長月の準備が、終わったようだな。清乃女、俺たちも引くぞ!」
「はいなー。巻き込まれたらひとたまりもあらへんわ」
三神隊長の鋭い指示に、清乃女さんが即座に頷く。二人は一瞬で地を蹴り、サイ型から――いや、長月さんから大きく距離を取って後退した。
「一ノ瀬! お前も絶対に長月の間合いに入るなよ!」
インカムから響いた隊長の厳しい怒号に、俺はビルの影から慌ててさらに数歩後ろへと下がった。
(間合いに入るな、だって……? 仲間であるはずの長月さんを、味方がここまで本気で警戒するなんて、一体どれだけヤバい人なんだ?)
隊長たちのあまりに尋常じゃない対応に、俺の胸は激しい胸騒ぎで満たされていく。
けれど同時に、味方さえも恐れるほどの強さなら、この最悪な絶望をひっくり返せるかもしれない――俺のなかで、確かな期待が鎌首をもたげていた。
後方では、如月さんが満身創痍の五十嵐さんを回収し、真二くんが意識の朦朧とした真一さんを必死に支えて下がっていた。上空の飛空船から高速リールで垂らされたロープに彼らが掴まり、次々と空へ引き上げられていく。
その離脱を見てサイ型UMAが、逃がすまいと巨体を動かそうとした。だが、その行く手を阻むようにして、天色の髪を揺らす長月さんが一歩前へと踏み出す。
「なんだあ? こんな細っこいねーちゃん一人で俺の相手をするのか? あんた一人で、俺の相手が務まるかねえ……っ!」
化け物は完全になめきった態度で、無警戒に間合いを詰めて大きな手を伸ばした。――その、刹那だった。
――ズバッ!!!
肉を断つ苛烈な音が夜の街に響き、ドッと鮮血が宙に舞った。
「なっ……なんだと、見えなかった……!?」
伸ばしたはずの自分の片腕から血が吹き出しているのを見て、化け物の声が初めて困惑に震えた。自分の動体視力で完全に「見切れなかった」という事実が、奴の底に眠る怒りを一気に呼び覚ましていく。
驚いた。長月さんは、一切の予備動作をまるで『なかった』かのように、ただ静かにその場に佇んでいるのだ。
しかし、さっきまで背負っていたはずのあの巨大な長刀は、いつの間にかその細い両手にしっくりと握られていた。鈍く光る美しい刃の先端に、ほんの少しだけ化け物の青黒い血が付着している。
それが意味するのはただ一つ。彼女は、目にも留まらぬ一瞬の神速で長刀を抜刀し、化け物の腕を深く刻みつけて、再び何事もなかったかのように構え直したのだ。
(す、げえ……なんだ今の!? 遠くから見てたのに、何かがもの凄い勢いで動いたっていう残像しか見えなかった。間近にいたあの化け物じゃ、何が起きたのかすら分からなかったはずだ。人間に、あんな動きができるのか……!?)
しばらく信じられないといった様子で自分の腕を見つめていたサイ型UMAだったが、やがてその濁った瞳にギラリとした殺意を宿らせた。
「お前の力を認めよう、人間。お前はもはや、脆弱な人間の域を超えた存在だ。――ここからは俺のすべてをぶつける。対等な『敵』とみなしてな!」
化け物は大きく地を蹴って距離を取ると、再びあの凶悪な突進の構えへと入った。
「俺の突進をどう攻略する!? お前の回答を見せてみろ、女ァ!!」
奴の四肢に恐ろしいほどの力が込められ、筋肉が異様に肥大化していく。凄まじい力みに耐えかねて、奴の足元のアスファルトがメキメキと深く凹んでいった。
そして――さっきの五十嵐さんを弾き飛ばした一撃とは比べ物にならない、音速に近い速度で、化け物が長月さん目掛けて突っ込んだ。
――しかし、長月さんはその破滅的な突進をいとも容易く、紙一重のステップでかわしてみせた。
それだけじゃない。すれ違いざま、長月さんの両手が閃き、刃が一閃する。
「ぐっ……やるな……!回避するだけでなく、カウンターを合わせてくるとは。」
身体のあちこちからどす黒い血を流しながら、化け物は長月の圧倒的な実力を測るように、荒い呼吸を吐き出した。
さっきまでの前線崩壊という絶望的な状況が、嘘のように一転している。長月さん一人の力で、あの強大なサイ型UMAを完全に追い詰めつつあるのだ。
(勝てる……! この人なら、あのバケモノに一人で勝てるんだ……!)
俺の胸のなかに、長月さんの圧倒的な強さという、眩いほどの『希望』が燃え上がり始めていた。
「次は俺の得意なインファイトスタイルでいくぜ!!」
化け物は低い重心へと体勢を変え、人間のボクサーのように、巨大な拳を顔の前で固く構えた。
今度は直線的な突進じゃない。じりじり、じりじりと、緻密に長月さんとの間合いを詰めにかかってくる。
サイ型がその巨体に似合わない緻密なステップで長月さんとの距離を詰め、一定の間合いに侵入した瞬間、長月さんの長刀が閃き、鋭い太刀筋がサイ型の肉体を襲った。
「くっ、やはりはやい」
サイ型は一気に距離を詰めるべく猛然と突っ込んできた。自身の拳が届く超至近距離まで、強固な前足でガードを固めながら強引に突き進む。
奴が間合いに踏み込んだ瞬間、目にも留まらぬ速さの鋭い斬撃が、長月さんの手から幾度も繰り出された。
ガガガガガッ!
と肉と骨が削れる凄まじい音が響く。しかし、サイ型はその猛攻を全身で食らいながらも、狂ったように巨大な拳を突き出してきた。
ドゴォン!! ドゴォン!!
化け物の拳が空を切り、背後の地面を打ちすえるたびに、アスファルトが大きく凹んで地形がめちゃくちゃに崩れていく。
長月さんはその破滅的な拳を紙一重でかわしながら、すれ違いざまにサイ型の伸ばした腕を正確に切り裂いた。化け物の拳のスピードがさらに加速する。激しい風圧が、離れた俺の場所にまで届くほどだ。
それでも長月さんは眉ひとつ動かさず、完璧な回避と冷徹な斬撃をくり返し続けた。
――タッ、と不意にサイ型が大きく後方へとバックステップを踏んだ。みずから間合いを取り、息を荒くして攻撃の手を止める。
奴の両腕からは、どす黒い血が止めどなく流れ落ちていた。
対する長月さんは、一切の呼吸を乱していなかった。
激しい戦闘の跡でボコボコに凹み、抉れた地面の真ん中で、彼女はほとんどその場から動くこともなく、化け物の猛攻をすべて受け流し切ってみせたのだ。
「まさか一発も当たらぬとは。呼吸すら一切乱れぬか。――ならば、俺の本気を見せてやる。今度は本当に一瞬で終わってしまうかもしれんが、この俺に本当の『本気』を出させたことを誇るがいい」
化け物が地を深く踏み締め、全身の筋肉に恐ろしいほどの力を込めた。
メリメリメリッ!
と、街全体が悲鳴をあげるようにアスファルトが粉砕され、割れていく。直後、サイ型の肉体が急速に膨張を始めた。その巨体はみるみるうちに膨れ上がり、気づけば身の丈5メートルを超えるほどの、圧倒的な大怪獣へと変貌を遂げていた。
「ただ大きくなっただけだと思うなよ。スピードだけならまだお前のほうが上だろう。だが――かわせないようにする方法もある。今からそいつを見せてやろう」
巨大化したサイ型UMAの言葉には、ハッタリなんかじゃない、絶対的な自信が満ち満ちていた。
(かわせない攻撃……!?)
ビル影から戦況を見ていた俺の指先が、冷たく強張る。
(もしもそれが本当なら、あんなクソデカい化け物の一撃を喰らったら、長月さんだってひとたまりもない。だけど……奴のあの口ぶり、とても嘘を言っているようには思えない……)
さっきまで完璧な勝利が見えていたはずの戦場に、不穏な暗雲が立ち込め始める。
化け物の不敵な笑みと、確信に満ちた発言。俺の脳裏に、さっきまで圧倒的な強さで敵を寄せ付けなかった長月さんからは、およそ想像もできない最悪の『敗北』の二文字が過ってしまった。
(いや、負けるはずがない。これだけ圧倒的な戦いをする長月さんが、あんな化け物に負けるはずがないんだ……!)
必死に自分の心に言い聞かせる。
なのに、なぜだろうか。心臓の奥が嫌な音を立てて波打ち、全身を不気味な悪寒が駆け抜けていく。
そして――俺のその最悪な予感は、すぐに的中することになる。




