10. 天色の糸が鮮血を啜る
身の丈5メートルを超える大怪獣となったサイ型UMAが、その巨大な胸板を大きく膨らませ、肺が破裂せんばかりに息を深く吸い込んだ。
直後の、次の瞬間だった。
「―――――――――――――ッッッッ!!!」
鼓膜が消し飛ぶかと思うほどの、すさまじい咆哮。
化け物の口から放たれたのは、大気を物理的に歪めるほどの『指向性衝撃波』だった。狙い澄まされた超重低音の暴力が長月さんを襲う。さしもの長月さんもその衝撃の質量に身動きを奪われ、咄嗟にその場にしゃがみ込んで身体を丸めた。
化け物はその一瞬の硬直を、絶対に見逃さなかった。
視界がブレるほどの踏み込み。巨体から繰り出されたのは、ビルをも粉砕するであろう渾身の右ストレートだった。
ドズンッッッ!!!
爆音と共に周囲のアスファルトが文字通り爆発し、濃密な土煙が激しく舞い上がった。視界が一瞬で真っ白に染まり、前線の様子が何も見えなくなる。
(ち、直撃したのか……!? いや、長月さんならかわしたはずだ。きっと、ギリギリでかわしているはずだ……!)
ビル影に身を潜める俺は、必死に自分に言い聞かせた。
だけど――もしあの人が無傷でかわしたのなら、とっくに土煙を切り裂いてカウンターの斬撃を叩き込んでいるはずだ。そんな最悪な思考が頭の片隅を過って消えない。
(頼む、かわしていてくれ! あんなクソデカい化け物の拳をまともに喰らったら……っ!)
心臓が痛いほど脈打つ。祈るような気持ちで目を凝らした俺の視界で、土煙がゆっくりと風に流されていった。
そこにいたのは。
スーツを血に染め、明らかに重傷を負った長月さんの姿だった。
彼女は激しく吐血しながらも、愛刀の長刀を深くアスファルトに突き刺し、それを支えにしてなんとか、なんとかその場に立ち上がっていた。
(そんな……っ!? 本当に直撃したのかよ、あのデカブツのパンチが……!?)
絶望が脳を殴りつける。だが、完全に無防備で喰らったわけではなかった。
化け物が拳を繰り出すまさにその刹那、咆哮が途切れてほんの一瞬だけ身体の自由が戻った。長月さんはその極小の隙を見逃さず、肉体が接触する直前に、長刀の『柄』を拳の軌道へと滑り込ませていたのだ。刃で受ければ折れる。
だからこそ強固な柄で受け流し、拳の軌道をミリ単位で逸らしながら、致命傷だけはガードしきっていた。
「ほう。あの状況で、肉体ごと粉砕されずに対応してみせるか。素晴らしい技術だ。――だが、それもどこまで持つかな? 」
化け物がじりじりと、その巨体で再び間合いを詰めてくる。
「……それなら、既に対抗策はある」
サイ型との戦闘が始まって以来、長月さんが初めて言葉を発した。
鈴を転がすような、だけど酷くかすれた冷たい声。呼吸は激しく乱れ、衣服の隙間からどす黒い血を流すその痛々しい姿は、さっきまで敵を圧倒していたときには想像もつかないものだった。
「そうか。では見せてもらおう。貴様の回答をなッ!」
サイ型UMAが再び胸を膨らませ、息を吸い込む。
その瞬間、長月さんの身体が爆発的な初速で地を蹴った。化け物の周囲を、円を描くように猛スピードで移動しながら、その残像のなかから鋭い斬撃を繰り出していく。
「―――――――――――――ッッッッ!!!」
地響きと共に、再び爆音の衝撃波が放たれた。 しかし、衝撃波は彼女の残像を虚しく通り過ぎていくだけだった。位置を完全に特定させない、完璧な回避策だ。
(す、すごい……っ! 敵の攻撃をまともに喰らって、考えることすら難しいはずの極限状態なのに、一瞬で相手の技に対する有効な戦術を組み立てるなんて……!)
ただでは起きない長月さんの執念の戦い。深手を負わされながらも、一歩も引かずに化け物のハメ技を破ってみせたその姿に、俺の胸のなかで消えかけていた『希望』が再び激しく燃え上がる。
この人なら、まだ勝てる。
「なるほど。常に動き回り、狙いを定めさせないというわけか。――だがな、そんなことは百も承知だ」
見上げるほどの巨体が、酷く歪んだ笑みを浮かべた。そして三度、サイ型UMAは大きく息を吸い込んだ。
(な、なんでだ……? ついさっき試して、完全に回避された技を、なぜもう一度使おうとするんだ……!?)
その不可解で、かつ確信に満ちた化け物の行動に、俺の第六感が強烈なアラームを鳴らした。冷たい悪寒が背筋を駆け抜ける。
次の瞬間、化け物は口を開かなかった。
代わりに、その5メートル級の圧倒的な質量を乗せた前足を、おもいっきり地面へと叩きつけたのだ。
ズドォォォォォンッッッ!!!
それは攻撃ですらなかった。局所的な大地震。
凄まじい衝撃波が地盤を伝わり、世界がグラリと大きく揺れる。
ただでさえ、これまでの戦闘でボコボコに凹んで足場の悪くなっていた地面だ。猛スピードで疾走していた長月さんの体勢が、その急激な地鳴りによって、一瞬だけ、崩れた。
彼女の神速の動きが、ピタリと止まる。
化け物は、その一瞬の隙を逃さなかった。
「―――――――――――――ッッッッ!!!」
待ってましたと言わんばかりに、至近距離からあの爆音の衝撃波が長月さんを直撃した。
崩れた体勢を立て直しきれないまま、超重低音の暴力によってその場に縫い付けられ、地面へとへし折られるようにして身動きの自由を奪われる長月さん。
そこへ、化け物の丸太のような拳が、容赦なく振り下ろされた。
「ふむ、手応えありだ。――これで終わったか?」
土煙の向こうから、化け物の残酷な声が響いた。
ふたたび戦場に凄まじい土煙が舞い上がり、二人の姿を完全に覆い隠した。
ビルの陰から固唾を呑んで見つめる俺の心臓が、早鐘のように鳴り響く。
遠目からでもはっきりと分かった。長月さんは地盤沈下の衝撃で完全に体勢を崩し、身を丸めて地面に押しつけられていた。あの完全に潰された体勢からでは、先ほどのような刀の柄を使った受け流しなんて、逆立ちしたってできるわけがない。
考えたくもない最悪の結末が、容赦なく脳裏を支配していく。
初めはあれほど圧倒的で、化け物の攻撃を1発すら寄せ付けない完璧な戦いを見せていたんだ。それなのに、形勢は一瞬で防戦一方へとひっくり返ってしまった。
最初は1ミリも想像できなかった『長月時雨の敗北』という未来を、今の俺は、恐ろしいほど容易く、鮮明にイメージできてしまっていた。
(嘘だろ……頼む、長月さん! 無事でいてくれ、負けないでくれ、勝ってくれ……!!)
俺は目に涙を浮かべながら、必死に胸の中でその名を叫び続けた。化け物の爪を恐れる必要すらないと思わせたあの圧倒的な強者に、俺は今、心の底から怯え、縋るように祈っていた。
やがて、ゆっくりと視界の煙が晴れていく。その向こうに、一本の人影がぽつりと浮かび上がった。
(――良かった! まだ立ってる……! まだ、負けたわけじゃない!)
一瞬だけ、胸の奥の塊がスッと軽くなった。だが、次の瞬間、俺は息を呑んで戦慄した。
さっきまでは軽傷に思えた傷口からはどす黒い血が溢れ、天色のスーツはズタズタに引き裂かれている。その輪郭はガタガタと震えていて、明らかに、もう立っているのが奇跡というほどの限界状態だった。
(長月さん、もう……意識を保つだけでも限界なんじゃ……!? まずい、このままじゃ本当に殺される!)
俺はたまらなくなって、前線にいる三神隊長の方へと視線を走らせた。
隊長もまた、その表情を激しく動揺させていた。戦況のあまりの悪化に、何か重大な判断を迷っている――そんな顔だ。けれど、隊長のその鋭い眼光の奥には、前線でボロボロになりながら立つ仲間への、絶対的な信頼の光が確かに灯っていた。
(……そうだ、隊長はどこまでも合理的な人だ。今この場で、あのクソデカいUMAに致命傷を与えられる戦力は、負傷している長月さんと、俺と大した歳が離れていない無傷の真二くんしか残ってない。どれだけボロボロに見えても、化け物の攻撃をここまでいなし続けている長月さんのほうが、真二くんよりも遥かに勝機がある。……そう判断したからこそ、隊長は出撃命令を撤回せず、彼女に戦闘を任せているんだ。隊長は、長月さんが勝つと信じてる。だったら、俺も――長月さんと隊長の判断を、信じ抜く!)
恐怖を覚悟でねじ伏せ、俺はふたたび前線へと目を凝らした。
「その細い身体で、凄まじい執念だな」
5メートル級の巨体が、長月さんを見下ろして感心したように声を漏らした。
「今の一撃は、そのスーツごと肉体を消し飛ばす勢いで拳を放ったんだがな……まだ立ち上がるか。お前には戦士としての敬意を表するよ。人間でありながらここまでやるとは見事だ。――せめてもの情けだ。なるべく痛みも感じぬ一瞬の間に、確実に殺してやる」
化け物が不気味に胸を膨らませ、大きく息を吸い込む。
(次だ……。次、奴の攻撃をかすりでもすれば、長月さんはもう……確実に...)
長月さん自身も、次が最後の交差になることを、その命の灯火で察しているようだった。
彼女は長刀の切先を真っ直ぐにサイ型UMAの眉間へと向けたまま、微動だにせず、ただ静かに佇んでいる。
「―――――――――――――ッッッッ!!!」
大気を引き裂き、三度目の指向性衝撃波が長月さん目掛けて一斉に放たれた。
長月さんが構えていたはずの一本の刀が、まるで陽炎のように、無数の残像となってブレて見えた。
直後、化け物が放った目に見えない衝撃波の圧力が、長月さんの数メートル手前で、まるで強固なガラスの壁にでもぶつかったかのように、激しく左右へと霧散していく。
何が起きているのか脳の処理が追いつかない俺を置き去りにして、サイ型UMAのトドメの巨拳が、頭上から猛烈な勢いで振り下ろされた。
ドゴォォォォォンッッッ!!!
大気を爆発させ、街全体を揺らすほどの爆音が鳴り響く。
戦場はまたしても、分厚い土煙の渦へと包み込まれた。長月さんはあの不可解な防御から、化け物の本気の拳を回避できたのだろうか。俺は祈るように、ただ静かに土煙が晴れるのを待った。
数秒後、白く濁った煙が激しく揺らいだ。
煙のなかから湧き上がるようにして、土煙と入れ替わるように、真っ赤な血飛沫が盛大に夜空へと舞い上がった。
(長月さんは……どうなったんだ!?)
俺はビルの影から身を乗り出し、薄れゆく煙のなかへと必死に目を凝らす。
その時、化け物の太い右腕を、何かが凄まじい初速で駆け上がっていくのが見えた。その影が通過した軌跡を追うようにして、シュババババッ!と生々しい肉飛沫が勢いよく吹き荒れる。
(――長月さんだっ!!!)
俺は叫びそうになる口を両手で押さえた。
死んでなんかいない。長月さんは巨大化したサイ型の腕を垂直に駆け上がりながら、目にも留まらぬ速さで猛烈なカウンターの斬撃を繰り出していたのだ。
化け物も肉に刻まれる激痛に絶叫し、空いた左手で自分の腕ごと長月さんを叩き潰そうと何度も拳を振るう。
しかし、彼女の姿はすでにそこにはない。サイ型UMAがどれだけ暴れ回り、巨体を揺らして叩き落とそうと足掻いても、天色の残像は完全に奴の動体視力を凌駕し、その巨体そのものをステップの足場にしながら、容赦なく肉を刻み続けていく。
巨大な質量の上で繰り広げられる、神速の攻防。
そして――長月さんの身体がふわりと宙を舞い、ついにサイ型UMAの巨大な首元へと肉薄した。
世界の動きが、一瞬だけスローモーションになる。
長月さんは両手に握った長刀を、全身の遠心力を乗せて、これ以上ないほど力強く一閃した。
ザバァァァァァッッッ!!!
凄まじい切断音。
身の丈5メートルを超えるサイ型UMAの巨大な頭部が、ゆっくりと宙を舞い、地面へと転がっていく。
首を失った巨体は、一歩も動けぬままその場に直立不動で硬直した。直後、断頭台から溢れ出た大量の青黒い血飛沫が、周囲一帯に激しい『血の雨』となって降り注ぐ。
ザーーーッ、と不気味な雨音が静まり返った街に響く。
アクアマリンのように澄んでいた長月さんの美しい天色の髪が、生温かい鮮血によって真っ赤に染め上げられていく。
化け物の首を完全に切り落とした長月さんは、血の雨を全身に浴びながら、静かにアスファルトの上へと降り立った――。




