2.化け物を狩る怪物
(誰か、誰か助けて……! 頼むから、誰か……!)
逃げ場のないゴミ箱の底で、俺は涙を流しながら、届くはずのない祈りを胸の中で必死に繰り返していた。
ガリッ、と蓋が持ち上がる不気味な音がした、まさにその瞬間だった。
「――探し物か? ゴミ箱の中なんて探しても、ゴミしか見つからんぞ」
化け物とは違う、低く冷徹な、人間の男の声が響き渡った。
化け物の動きがピタリと止まる。
(え……人、の声……?)
俺は恐怖で麻痺しかけた頭を必死に動かし、ゴミ箱のわずかな隙間に目を押し当てて外を覗き込んだ。
化け物の背後。いつの間にか、そこに一人の男が立っていた。
その男は、街の風景にはおよそ不釣り合いな、深い緑色の鎧のような特殊なスーツを身に纏っている。
「何だお前。わざわざ俺に殺されにきたのか? 感心感心」
化け物は邪魔が入ったというのに、むしろご機嫌な様子でケラケラと笑い、パンパンと挑発するように手を叩きながら男へと近づいていく。
「残念ながら、死ぬのは貴様の方だ。幸いゴミ箱がすぐ近くにある。貴様の死体は、そこにでも捨てるとしよう」
男の声には、怯えなど微塵もなかった。それどころか、化け物を完全に格下として見下すような挑発を返す。
「笑えない冗談だな、人間。脆弱な人間如きが、この俺に勝てると思っているのか……!」
男の侮蔑を察したのだろう。化け物の声から余裕が消え、怒りを含んだ低い声へと変わる。
「オオオオオオオオオオオッッ!!」
鼓膜が破れそうな、凄まじい咆哮。
隙間から見える化け物の全身の筋肉が、みしみしと音を立てて爆発的に膨張していく。同時に、奴の足元のアスファルトがクモの巣状に激しく割れた。
凄まじい地響きがゴミ箱の底にいる俺の身体にまで伝わってきて、歯の根がガタガタと鳴る。
「俺とお前ら人間の、圧倒的な力の差をわからせてやろう!」
化け物が地を蹴り、その鋭い爪が男の首目掛けて振り下ろされた。
凄まじい風切り音。
しかし――。
「なかなか速いな。だが、俺の方がどうやら速かったようだ」
化け物の爪は、完全に空を切り裂いていた。男の姿が一瞬でその場から消え去っている。
「なるほど、口だけじゃないらしいな。お前の着ているそのスーツのおかげか?」
「だったら何だ」
「何だっていいさ! それよりも、まさかまた戦いを楽しめる相手に出会えるとはな。ただの狩りだけじゃつまらないと思っていたところだ。ちょうどいい、俺の遊び相手になってもらうぞ、人間!」
化け物はニヤリと裂けた口をさらに歪め、重心を低く落とした。いつでも獲物に飛びかかれる獣の体勢だ。
「遊んでいられる余裕があるならな」
男が冷たく言い放つと同時に、背中に背負っていた巨大な剣を鞘から引き抜いた。鈍い金属光を放つ片手剣。
次の瞬間、世界の動きが加速した。
男の姿がブレたかと思うと、一瞬で化け物の背後を取り、鋭い斬撃を繰り出す。
キィィィィィンッ!!
化け物も野性の直感でそれを防ぎ、二人の激しい攻防が始まった。
俺はゴミ箱の隙間から、ただただ圧倒されてその光景を見つめることしかできない。
(な、何が起きてるんだ……!? あの男の人は一体誰なんだ!? 物凄い金属音が響いてる……まさか、あの化け物と対等に戦ってるのか!?)
信じられなかった。人間の手足をゴミのように引きちぎっていたあの化け物と、互角以上に渡り合っている。
二人の戦闘はあまりにも素早く、俺の目では追うのがやっとの速度だった。男は火花を散らしながら瞬く間にその場から移動し、あらゆる角度、違う方向から化け物の肉体を容赦なく斬りつけていく。
ガキィン! ズシュッ! ガガガッ!
次第に化け物は、男の常軌を逸したスピードについていけなくなり、一方的にその身を刻まれ始めた。
このままあの男の人が勝つ
――そう確信しかけた、その時だった。
化け物が強引に振り回した巨大な拳が、男の身体を捉えた。
男は瞬時に剣でガードしたようだったが、凄まじい質量の一撃を受け、弾かれたように後ろへと大きく吹き飛ばされる。
二人の間に、十数メートルの距離が空いた。
「どうやら、本気でやらないといけないみたいだな……。人間如きに本気を出すことになるとは、忌々しい」
化け物の身体から、どす黒いオーラのようなものが立ち上る。
筋肉がさらに異様に肥大化し、二足歩行から四足歩行へと体勢を変えた。そいつはもう「人型の化け物」ではなく、完全なる「異形の獣」へと変貌を遂げていく。
爪はさらに長く、鋭く伸び、口元からは血に飢えた牙がこれでもかと剥き出しになった。
「すぐに死んでくれるなよ、人間ンッ!」
四肢に恐ろしいほどの力を込め、化け物が爆音と共に跳躍した。
さっきとは比較にならない速度と質量で男へと飛びかかり、その凶悪な爪が、再び男の肉体を切り裂こうと迫る――。
――速すぎる。
四足歩行となった化け物の速度は、スーツの男の動きを遥かに凌駕していた。
隙間から見える男の姿は、化け物が容赦なく繰り出す爪の猛攻を、剣の腹で防ぐだけで完全に精一杯になっていた。
完全に形勢は逆転した。鋭い爪が空気を引き裂くたびに、
キン! キン!
と甲高い金属音が重なり、男はただ耐えるだけの防戦一方に追い込まれていく。
「どうした人間ァ! さっきまでの威勢はどこへ行った! 反撃してみろ!!」
化け物は狂ったように叫びながら、さらに速度のギアを上げた。
残像すら見えるほどの猛スピード。ついに男の防御が追いつかなくなる。
ザシュッ、と肉が裂ける不気味な音が響いた。 爪による痛烈な斬撃を受け、男は間合いを取ろうと必死に後ろへ飛び退く。
だが、化け物はその一瞬の隙を逃さなかった。追い討ちをかけるように繰り出された凶悪な一撃が、男の身体を正面から捉える。
「がはっ……!?」
男の身体が大きく吹き飛び、アスファルトの上をごろごろと転がった。咄嗟に受け身を取ったようだったが、そのダメージは計り知れない。
男は苦しげに荒い息を吐きながら、その場にぽつんと膝をついた。
再び、二人の間にじりじりとした距離が開く。
本気を出した自分と、膝をつく人間。その圧倒的な力量差を見て、化け物は完全に勝利を確信したようだった。
「本気で戦ってやったのは、お前が初めてだ。それなりに楽しめたよ、人間。――だが、もうお別れの時間だな」
化け物はどす黒い悦びに口元を歪めながら、ゆっくりと、確実にトドメを刺すために男へと歩を進めていく。
(だ、ダメだ……あの強い人まで、殺されちゃう……!)
ゴミ箱の中で、俺は絶望に歯をガタガタと震わせた。あの人が死んだら、次は間違いなくこのゴミ箱が暴かれる。
しかし、男は諦めてなどいなかった。膝をついた状態から、ゆっくりと、だが力強く立ち上がってみせる。
「まさかこれ程とはな……。事前の情報以上の速さだ」
「もっと楽しみたかったんだがな。お遊びもこれで終わりだ。――楽に死なせてやる」
化け物がトドメの跳躍を見せようと、四肢の筋肉に爆発的な力を込めた
その瞬間。
男が、口元に手を当てて短く呟いた。
「……撃て」
インカムに向けられたその合図と同時に、遥か上空から爆音が響き渡った。
見上げると、雲を割って現れた巨大な飛空船から、何者かがバズーカを構えて対地砲撃を放っていた。
ドォン! ドォン! ドォン!
と、続けざまに放たれる3発の砲弾。
だが、化け物はあざ笑うかのように、超人的なステップでそれらを悠々とかわしてみせた。弾頭はすべて化け物の身体をすり抜け、周囲のアスファルトへ激しく着弾する。
「はははっ! 俺がこんなものでやられると思ったか!? 舐めやがって、こんなスピードのトロいもんが、俺に当たるはずないだろうがぁ!!」
化け物は怒りに任せて男に爪を振りかざし、猛然と突っ込んでいこうとした。
――ベチャチャッ!
不意に、肉がへばりつくような、嫌な音が戦場に響いた。
化け物の突進が、不自然にピタリと止まる。
「……ぬ? なんだ、これは……!?」
隙間から目を凝らすと、化け物の足と地面の間に、見たこともないネバネバとした不気味なジェル状の物質が、蜘蛛の糸のように強固に伸び広がっていた。
さっきのバズーカは、敵に直接当てるためのものではなかったんだ。砲弾に仕込まれていた超強力な粘性ジェルが、今やあたり一面の道路に飛び散り、巨大な罠となって散乱している。
足に不気味なジェルがへばりつきながらも、化け物はなおも執念で前へ進もうと地を蹴った。
だが、その強靭な足が地面から離れない。粘性の塊が蜘蛛の巣のように絡みつき、引っぱれば引っぱるほど、化け物の足とアスファルトを強固に接着させていく。
「なんだと……!? この程度のことで、この俺を止められると思うなーーっ!!」
化け物は狂ったように咆哮し、何度も無理やり足を前に出そうとする。
けれど、足掻けば足掻くほどネバネバとしたジェルが四肢に絡みつき、逃れられない泥沼のように奴の自由を奪っていった。
やがて、化け物の手足4本すべてが完全に地面へ縫い付けられ、文字通りピクリとも身動きができなくなる。
化け物が完全に動きを止めるのを、スーツの男は静かに見届けていた。
男はゆっくりと、歩幅を崩さずに化け物へと近づいていく。ジェルが飛び散るデッドゾーンのはずなのに、男の足取りは何の抵抗もないかのように軽い。
それを見た化け物の目に、明らかな動揺が走った。
「な、なぜだ……! なぜお前は、その足場で平気な顔をして歩ける……!?」
「俺の着ているスーツには、このジェルの粘性を無効化できる素材が使われているからだ」
男は感情の起伏がない、低く冷徹な声でそう答えた。
「……まさか、俺が負けるのか? この、人間如きに……っ」
手も足も出せなくなった絶望的な状況で、化け物は初めて、受け入れ難い「敗北」の恐怖にその顔を歪ませた。
ジリ
と、二人の距離が完全にゼロになる。
男は手にした片手剣の柄をギュッと強く握り直し、化け物の首目掛けて、容赦のない一撃を振り下ろした。
勝負はついた。そう思った、次の瞬間だった。
――パキンッ!!!
ゴミ箱の隙間から見えたのは、信じられない光景だった。
男が振り下ろした渾身の刃を、化け物はなんと自分の「牙」でガチリと噛み砕き、白刃取りのように止めてみせたのだ。そのまま凄まじい顎の力で、鉄の刀身がガラスのように真っ二つにへし折れる。
男の身体が一瞬、予期せぬ不測の事態に硬直した。
化け物はそのわずかな隙を見逃さない。間髪入れず、四つん這いの体勢から首を伸ばし、男の喉元へと猛烈な勢いで噛み付いた。
「ガハッ……! しまった、油断した……っ!」
男の苦しげな声。
「あはははっ! 正直終わったと肝を冷やしたぞ、人間! 四肢を封じられ、文字通り手も足も出せなくなるとはな! だが、お前の方からわざわざ間合いを詰めてきてくれて助かったぞ、間抜けえ!!」
化け物の濁った瞳に、狂気的な歓喜が戻る。
「このまま、貴様の首を骨ごと噛みちぎってやる!!」
バリバリと、スーツのプロテクターが悲鳴をあげる嫌な音が響く。化け物の顎の力は徐々に強くなり、その凶悪な牙が、ゆっくりと、だが確実に男の首筋へと肉薄していく。
武器だった剣は折られ、完全に噛みつかれた超至近距離。もう、この男に打つ手など何一つ残されていないように思われた。
俺はゴミ箱の中で、自分の心臓が止まるかと思うほどの恐怖に目を見開く。
けれど。
牙を突き立てられているはずの男の表情には、まだ、不気味なほどの余裕が残されていた。
「……奥の手は、最後まで隠しておくものだ」
男が低く呟いた、その刹那。
男の手が、背中のもう一つのマウントへと伸びた。
シュパッ
と、空気を切り裂く金属音。
男は背後から隠し持っていた「もう1本の片手剣」を逆手持ちで引き抜き、目にも留まらぬ神速の一閃で、化け物の首を横一文字に跳ね飛ばした。
ゴトリ
と、重い音を立てて、化け物の巨大な頭部がアスファルトに転がる。
首を失った巨体が、ジェルまみれの地面に力なく崩れ落ちた。
「……フゥ。しかし、まさか対策までしてきた相手に奥の手まで使わされることになるとはな」
化け物との壮絶な死闘に完全な決着をつけ、男は静かに、二本目の剣を背中の鞘へと納刀した。カチリ、と硬質な音が、静まり返った街に寂しく響き渡った。




