1.俺の最期はゴミ箱の中?
一ノ瀬タクマ、17歳。高校2年生。
受験を控えた俺にとって、この夏休みは心置きなく遊べる最後のチャンスだった。だからこそ今日は、久しぶりに家族3人で旅行に来ている。
(休みって、なんでこんなにあっという間に過ぎちゃうんだろ。色々欲しいものを買ってもらって、のんびり遊べるのも残りわずかか……)
そんなことをぼんやりと考えながら、俺は父さんと母さんの後ろを歩いていた。
服に日用品、ゲームに本。それぞれが街を歩きながら欲しいものを見つけては買い漁った結果、気づけば両手いっぱいの買い物袋がすべて俺の担当になっていた。
「ちょっと……さすがに疲れた。荷物重いし、休ませてよ」
俺がたまらず泣き言を入れると、前を歩いていた父さんが振り返ってニヤリと笑う。
「何言ってんだ、まだ若い癖にだらしねえな!」
「あらあら、しょうがないわね。じゃあ、そこのお店で冷たいものでも飲みながら少し休もっか」
母さんの優しい一言に、父さんもそれ以上は何も言えなくなる。厳しい父さんと、それに甘い母さん。
そして、我が家は誰も母さんには逆らえない。これが一ノ瀬家の絶対的なルールだ。
「こうして、3人で何も考えずにのんびり過ごすのもいいわねえ」
冷房の効いた店内で冷たいお茶を飲みながら、母さんが嬉しそうに微笑む。その顔を見ているだけで、持って歩いた疲れも少し吹き飛ぶような気がした。
「よし、じゃあそろそろ行くか。タクマ、荷物よろしくな」
「はーい……」
お茶を飲み終えると、俺たちは再び真夏の街へと繰り出した。
容赦なく照りつける太陽と荷物の重さのせいで、自然と足取りが重くなる。気がつけば、仲良く並んで歩く父さんと母さんの背中が、少し先を歩いていた。
その時だった。
「キャーーーッ!!」
すぐ近くの路地から、鼓膜を突き刺すような鋭い悲鳴が響き渡った。
(なんだ……!? 今、すぐそこから悲鳴が聞こえたぞ。何が起きてるんだ?)
戸惑う俺の耳に、今度は無数の悲鳴と、血の凍るような断末魔が次々と飛び込んできた。
「うわあああーーーっ!?」
「助けてっ! 誰か、誰かーー!」
「逃げろ! 早く逃げろーー!!」
周囲の空気が、一瞬にしてただ事ではないパニックへと変貌する。
さっきまで暑さで流していた生ぬるい汗が、一変して冷たい冷や汗へと変わり、背筋をダラダラと伝っていく。心臓が嫌なリズムでドクドクと脈打ち始めた。
「母さん、タクマ! 今すぐ逃げるぞ! 早く!!」
不意に、目の前にいた父さんの怒鳴り声が響いた。
振り返った父さんは、見てはいけない最悪のものを目撃したかのように血相を変え、顔を絶望に歪ませていた。
「荷物は全部捨てろ!」
父さんは母さんの手を強く引っ張り、今来た道を引き返すように全力で走り出す。
二人が、少し後ろに取り残されていた俺のすぐ側まで駆け寄ってきた、その瞬間。
――そいつが、俺たちの目の前に姿を現した。
2メートルは遥かに超える巨体。虎を人型に歪めたような姿をした、おぞましい化け物だった。
化け物の鋭い爪が、男性の身体を容赦なく切り裂き、引き裂く。
ブシュッ、と生々しい音を立てて鮮血が飛び散り、鼓膜が破れそうな悲鳴と断末魔が街に響き渡った。
床に転がる肉塊を見下ろしながら、化け物はケラケラと楽しそうに笑っていた。そして、逃げ惑う周囲の人々を次々と血祭りにあげていく。
(やばい、やばい、やばいやばいやばい……! 逃げなきゃ、死ぬ。俺も殺される……!)
「タクマ! 早く来いっ!!」
鼓膜を叩いた父さんの必死の叫び声で、俺はハッと我に返った。
両手に持っていた重い買い物袋をその場に放り出し、父さんと母さんの方へと遮二無二足を動かす。
「あははっ! この感触、たまんねえな~! 楽しい狩りの始まりだぁ!」
ただの凶暴な獣じゃない。人の言葉を話し、明確な悪意を持った、知能のある化け物だ。
そいつは一思いに殺すのをやめ、逃げる人間の手足をじわじわと切り落としては、絶望に歪む表情を見てゲラゲラと狂ったように笑っていた。
俺たちは必死に足を動かし、化け物から距離を取ろうとした。
けれど、恐怖で心臓が破裂しそうなほど跳ね上がり、真夏の猛暑に体力を奪われ、少し走っただけで息が切れてしまう。足が思うように前に出ず、大して距離を稼ぐことができない。
とにかく化け物の視界から外れるために、細い路地の曲がり角へと滑り込む。荒い呼吸を必死に押し殺しながら、少しずつ、少しずつ化け物から遠ざかる。
どれくらい経っただろうか。
気づけば周囲から、あの化け物の笑い声も、人々の悲鳴や断末魔も聞こえなくなっていた。
(……助かっ、たのか?)
だが、そんな希望を打ち砕くように俺の視界に、信じられないものが飛び込んできた。
目の前に、そいつが立っていた。
「鬼ごっこは終わりか?」
血に濡れた牙を剥き出しにしながら、化け物が不敵な笑みで俺たちを覗き込んでいる。
「ひっ……あああ、あ、あああッ!」
脳の思考回路が一瞬で破裂した。パニックに陥った俺は、完全に腰を抜かしてアスファルトへ尻餅をつき、喉が引き裂けそうな悲鳴をあげる。
「いい顔するねえ~。痛ぶりがいがありそうだ」
化け物の不気味な眼球が、どいつから貪り食ってやろうかと品定めするように、俺たち3人の顔をゆっくりと舐めまわす。
「タクマ、逃げなさい……! ここはお母さんたちがなんとかするから、早くッ!」
「父さんたちが時間を稼ぐ! タクマ、振り返らずに走れ! 走るんだーー!!」
化け物を目の前にして、二人は直感したのだ。このままでは全員助からないと。
だからこそ、自分たちの命を盾にしてでも、子供である俺だけを逃がそうと身を挺して立ちはだかった。ガタガタと震える母さんの肩を、父さんが決死の形相で支えながら、俺の背中を押す。
「おっ! いいねえ~親の愛だねえ! じゃあ、どっちから殺そうかなあ」
化け物はこの状況すら、楽しむためのゲームとして歓迎していた。
俺は、二人に叫ばれた通りに地を蹴った。
頭の中は真っ白で、恐怖以外の何もかもが吹き飛んでいた。
最低だ、最悪だ、親を置いて逃げるなんて、そんな思考すら湧かないほど狂い、ただひたすら涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、泣き叫んで走った。
背後で、化け物が楽しそうに呟く声が微かに聞こえた。
「よし、決めた! 男、お前から殺そう。女の方はたくさん痛ぶって、悲痛な表情を堪能してから殺すことにしよう♪」
「よせ! 痛ぶるなら俺をやれッ!!」
父さんの必死の絶叫。
「そういえばお前、逃げる時間を稼ぐって言ってたな。よし、じゃあお前が俺を楽しませて時間稼ぎをしろ」
直後、悪魔のような言葉と共に、肉が断たれる生々しい音が響いた。
視界の端で、母さんの首が宙を舞うのが見えた気がした。
ドサリと崩れ落ちる音。そして、この世のものとは思えない父さんの慟哭。
「ゲームだ。1本ずつ切り落としていく。1本で30秒待ってやる。悲鳴をあげたら即殺して、あのガキを殺しにいく。最後まで悲鳴をあげなかったら、追加で1分待ってやるよ。それじゃあ、スタートだ」
背後から、肉を裂く音と、父さんが歯を食いしばって漏らす血を吐くような呻き声が聞こえてくる。父さんは、俺のために、悲鳴を堪えて地獄の拷問に耐えているんだ。
「うああああああん! あああああああ!!」
俺はただ、泣き叫びながら全力で走り続けた。
どれくらい走っただろうか。
無我夢中で足を動かしていたが、足がもつれて激しく転倒した。アスファルトに叩きつけられる。
立ち上がろうとした。けれど、あまりの恐怖に足がすくみ、完全に腰が抜けていた。どれだけ力を込めても、立ち上がることができない。
俺は無様に地面を這いずりながら、必死に手を前に伸ばした。
(父さん……母さん……っ。うっ、ううぅ……何で、何でこんな目に……!)
このまま這って逃げ切るなんて不可能だ。どこか、奴に見つからない場所に隠れなきゃ死ぬ。
俺は近くにあった、人間が一人すっぽり入れるサイズの巨大なゴミ箱を見つけ、その中へ転がり込んで蓋を閉めた。
1分、2分と時間が経つにつれ、肺を焼くような呼吸がほんの少しだけ落ち着きを取り戻し始める。
しかし。
――ドスン。 ――ドスン。
肉厚な、巨大な足音が、まっすぐにこのゴミ箱へと近づいてきた。
(まさか……俺の居場所が、バレてるのか……!? どっちに向かって逃げたかなんて、わかるはずがないのに!)
暗闇の向こうから近づいてくる恐怖の足音が、俺を容赦なく現実に引き戻した。
(このまま、隠れてやり過ごすしかない。いくらあの化け物でも、わざわざゴミ箱の中まで探してこないはずだ。頼む、頼むから来るな、来るな、来るな、来るな……!!)
心の中で狂ったように念じながら、俺はゴミ箱の底で身体を丸め、自分の両手で口を強く塞いで息を殺した。
「まさか、本当に一言も悲鳴をあげずに死んじまうとはな~。いつ限界が来て泣き叫ぶのか、楽しみにしてたのによお」
蓋の隙間から、あの耳障りな声が漏れ聞こえてきた。
暗闇で姿は見えない。だけど、間違いなくあの化け物の声だ。お父さんは……本当に、最後まで悲鳴をあげずに耐え抜いたんだ。俺に時間を、逃げるチャンスをくれるために。
「でも、狩りってのはここからが面白いんだよな~。完全に逃げ切ったと安心しきった獲物を見つけ出して、その絶望する顔を見ながら身体を引き裂く……あの指の感触! たまんねえぜ~!」
そいつは、最初から俺たちを逃がす気なんてなかったんだ。わざと逃がし、安心させてから、より深い絶望の底に叩き落とす。そんな最悪なゲームを楽しんでいる。
(やばい、やばい……! どんどん声が近づいてる。足音も、まっすぐにこっちへ向かってきてる。偶然じゃない、俺の居場所が完全にバレてるんだ……!)
心臓が破裂しそうなほど跳ね上がり、冷や汗が洪水のように溢れ出す。
(もう見つかるのも時間の問題だ。嘘だろ……俺の最期は、こんなゴミ箱の中なのかよ。ちくしょう、ちくしょう……!!)
悔しさと恐怖で涙が溢れる。半ば諦め、身体を硬直させていた、その時だった。
「おっ。こんなところに、やけにデカいゴミ箱があるじゃねえか。人間一人くらい、すっぽり入れそうだな。……もしかして、この中に隠れてる『ネズミ』がいたりしてな~?」
ドクン、と心臓が引き絞られ、世界から音が消えた。
終わった。完全に終わった。
すぐ耳の裏で喋られているかと思うほど、化け物の声が近い。あいつはもう、このゴミ箱の目の前に立っている。確実に見つかる。
自分の死を悟った。もはや抗う術なんて、何一つ残されていない。
俺は声をあげる気力さえ失い、静かに、訪れるはずの「死」を受け入れようと目を閉じた。
「楽しみだなあ~。中に何が入ってるか。……美味しい人間が詰まってるといいんだがなあ~!」
そいつは下劣な笑みを浮かべながら、ゴミ箱を開けようと、ゆっくりと手を伸ばした――。




