首飾りを差し出せ(1)
首飾りがなくなっていた。
オルティーネは寝台の脇の小箱の蓋を開けたまま、しばらく動けなかった。黒い布を張った小箱の底には、首飾りの形のくぼみだけが残っていた。銀の鎖がとぐろを巻いていたところ。深い紫の石が載っていたところ。くぼみの毛足が、まだそこだけ寝ている。
三日前の朝、父は寝室で戦をやめると言った。
その日の昼には、各師団へ向かった使いを呼び戻す伝令が走った。夕方には、厨房の裏に積み上げられていた麦の袋が、少しずつ倉へ戻されはじめた。弟の熱は、ゆうべ下がったと聞いた。王宮じゅうが、大きく息を吐いたように静かになった。
父はあの朝から、ほとんど寝所を出ていないらしかった。夜になると明かりを消さずに眠り、昼に何度もうたた寝をしては、うなされて目を覚ます。侍従たちは、陛下はお疲れなのだとささやき合っていた。
オルティーネはそれから二晩、首飾りを着けたまま眠った。ゆうべだけは小箱にしまった。
ゆうべも確かにここにあった。
寝る前に蓋を開けて、石を指でなぞった。石は、いつものように少しだけ温かかった。それから蓋を閉めた。閉めたのを覚えている。今朝、井戸へ顔を洗いに出る前にも、蓋は閉まっていた。
オルティーネは小箱をひっくり返した。何も落ちてこなかった。寝台の下をのぞいた。衣装箱の中をかき回した。枕を持ち上げて、掛け布を全部はがした。
なかった。
オルティーネは小箱を抱えて、階段を駆け下りた。下りきる前に、台所の戸口からマグダが顔を出した。
「姫さま、たいへんです」
「マグダ、首飾り知らない?」
「その首飾りがたいへんなんです」
マグダの頭布は、今日も少しずれていた。息を切らせている。両手で、何か紙切れを握りしめていた。走ってくる途中で何度も握り直したのだろう、紙切れはくしゃくしゃになって、手の汗で端がしおれていた。
「ゆうべ、陛下が新しいお触れを出されたんです。王宮にある宝飾品は、すべて王家のものだって。お気に召した品は、陛下の宝物庫へ収めるって」
オルティーネは小箱を持ったまま階段の途中で立ち止まった。
「それで今朝早く、宝物方の人たちが王宮じゅうを回って、宝飾品を集めて歩いてるんです。わたし、ちょうど衣装方の部屋にいて――」
「衣装方」
「はい。冬支度の前の衣装の手入れです。姫さまのお衣装も、きのう、まとめてお預けしたでしょう。黒いお衣装も、あの、帯や飾りも」
オルティーネは手の中の小箱を見下ろした。
きのうの昼、衣装方の女官が来て、冬の前の手入れだからと、衣装箱の中身をまとめて持っていった。黒と紫の服も、飾り紐も、留め具も。そのとき首飾りは、小箱に入れたまま寝台の脇に置いてあった。
夜には、確かにここにあったのだ。
「小箱、ここにあるわよ」
「え」
「中身だけないの」
マグダの顔からすうっと血の気が引いた。
「じゃあ、やっぱり。わたし、衣装方の部屋で見たんです。宝物方の箱の中に、黒い鎖の首飾りが。今朝早く、姫さまが井戸へ出ていらしたあいだに、衣装方の人が、お衣装の飾りの残りを取りに来たって。小箱の中のも黒いお衣装の飾りだと思って、いっしょに」
マグダは、握りしめていた紙切れを差し出した。宝物方の控えの写しだった。走り書きの字で、品の名前がずらりと並んでいる。
その真ん中あたりに、こう書いてあった。
黒き鎖の首飾り、紫の石、一。王女殿下の離れより。
その下にもう一行。
明朝、陛下のご検分へ。
◇
オルティーネは寝間着の上に外衣をはおって、離れを飛び出した。
王宮の回廊は、朝からざわついていた。
あちこちの戸口で、紫の師団の若い者たちが、布張りの盆を抱えて立っている。宝物方の者たちだった。盆の上には、指輪や耳飾りや髪留めが、ひとつずつ小さな布に包まれて並んでいた。女官たちが自分の部屋の戸口で、困った顔をして盆の前に立っている。若い女官が一人、耳たぶから小さな耳飾りを外して、盆の上に置いた。置いてから、何もなくなった耳たぶを指で何度もさわっていた。
回廊の角を曲がったところで、オルティーネは足を止めた。
年老いた侍従が、宝物方の若者の前で片手を胸に抱えこんでいた。
「これだけはご勘弁を」
老侍従の声はかすれていた。
「家内の形見なのです。三十年、この指から外したことがない」
胸に抱えこんだ手の薬指に、細い銀の指輪がはまっていた。小さな青い石が一つ、載っている。銀は黒ずんで、指の肉に食いこむほど細くなっていた。
宝物方の若者は盆を抱えたまま、泣きそうな顔をしていた。
「お触れですので。陛下がお気に召さなければ、必ずお返ししますから」
「お気に召したら」
「……そのときは」
若者は、そこで言葉を切ってうつむいた。
老侍従は、しばらく自分の指を見ていた。それから、指輪を回した。指の関節で指輪が止まった。何度回しても、関節を越えなかった。三十年のあいだに、指のほうが太くなったのだ。
老侍従は指輪に唾をつけて、もう一度回した。今度は関節を越えた。
盆の上に指輪が置かれた。若者がそれを小さな布で包んだ。布の端に震える字で何か書いた。老侍従の名前だろう。
老侍従は指輪のなくなった指を、もう片方の手で包んだまま、回廊の奥へ歩いていった。指輪のあったところだけ、肉が白く、細くくびれていた。
オルティーネはその背中を見送った。
それから、自分の胸元に手をやった。服の下には、何もなかった。
衣装方の部屋の前まで行くと、戸口に宝物方の別の若者が立っていた。中をのぞこうとすると、若者は慌てて戸の前に立ちふさがった。
「お、王女殿下。申し訳ございません。集めた品の箱は、宝物方の頭のお許しがなければ、どなたもお開けできません」
「わたしの品が入ってるの」
「存じております。控えに、お名前が」
若者は、困りきった顔で両手を広げた。
「明朝のご検分までは、宝物方の責任者のほかは、誰も触れてはならないことになっております。わたくしが開ければ、わたくしの首が飛びます」
若者の首は細かった。本当に飛びそうな首だった。
オルティーネは戸の前から一歩下がった。若者がほっと息をついた。
離れへ戻る道で、オルティーネは、さっきの老侍従の指のくびれを何度も思い出した。
◇
昼前にファルが来た。
来ることは分かっていた。三日前の朝、戸口で「三日後に首飾りを見に来る」と言ったのだ。呪いを吸い戻したあとの石が、どうなっているか確かめておきたい、と。
オルティーネはゆうべから豆を水に浸していた。豆の煮込みにする約束だった。かまどの上の鍋の中で、ふくらんだ豆がまだ火にかけられるのを待っている。
戸を開けると、紫の長衣のファルが立っていた。
ファルはオルティーネの顔を見るより先に、台所の奥の鍋のほうへ目をやった。鼻がほんの少しだけ動いた。それから、オルティーネの顔を見た。
鼻の動きが止まった。
「どうした」
「首飾りがないの」
ファルの顔から表情が消えた。
ファルは黙って台所に入ってきた。戸を閉めて、オルティーネの前に立った。それから、オルティーネの顔ではなく、胸元を見た。首飾りの石があるはずのあたりだった。今は何もなかった。
「いつからだ」
「今朝、井戸へ出るまではあったの。小箱に入れて」
「小箱に」
「服の手入れで、着けておけなかったの。一晩だけって思って」
言いながら、喉の奥が熱くなった。オルティーネは唇をかんでこらえた。泣いている場合ではなかった。
ファルはしばらくオルティーネを見下ろしていた。それから、食卓の椅子を引いた。
「座れ」
短い言い方だった。けれど、声はいつもより少しだけやわらかかった。
「最初から話してくれ。全部」
オルティーネは、台所の食卓で朝からのことを話した。お触れのこと。衣装方の手入れのこと。宝物方の控えの写しのこと。明朝の検分のこと。話しているうちに、自分の声が早口になっていくのが分かった。ファルは一度も口を挟まなかった。
話し終えると、ファルは控えの写しを手に取って、黙って読んだ。
「首飾りがなければ」
しばらくして、ファルは言った。
「俺とあなたが二人そろっていても、呪えない」
「わかってる」
「それだけではない」
ファルは写しを食卓に置いた。
「首飾りの中には、魔女の魂が入っている。宝物庫に入ったら、どこへやられるか分からない。誰かに下げ渡されるかもしれない。鋳つぶされて、別の飾りの台にされるかもしれない」
「鋳つぶす……」
「石だけが残っても台が変われば、魂がどうなるか、俺にも分からない」
オルティーネは食卓の上で両手を握りしめた。
首飾りを握ったとき、手のひらに流れこんできた記憶のことを思った。額に石を受けて、ただ立っていた女の人。ファルの話では、あの人の魂はこの首飾りに入っている。その首飾りが父の宝物庫の棚に並べられ、どこかの誰かの首にかけられる。
「姫さま」
戸口のそばでマグダが言った。
「わたしが取ってきます」
オルティーネは顔を上げた。
マグダは、両手を前掛けの前で握り合わせていた。指の関節が白くなっている。
「宝物方の箱は、今夜は衣装方の奥の部屋に置いてあります。鍵はかかってますけど、衣装方の女官は、夜の見回りのあとで鍵を釘に掛けて帰るんです。わたし、知ってます。夜中に行けば、誰にも」
「マグダ」
「だって、あれは姫さまのものです。取り返すだけです。盗むんじゃありません」
マグダの声は震えていた。けれど、目はまっすぐだった。四つのころから、オルティーネの頼みを一度も断ったことのない目だった。
オルティーネはうなずきかけた。
それがいちばん早い。今夜のうちに首飾りを取り戻せば、明日の検分には何も出てこない。控えの一行が、どこかで間違ったことになるだけだ。
口を開きかけて、止まった。
控えの一行が、どこかで間違ったことになる。
誰の間違いになるのだろう。
宝物方の控えには、品の名前が書いてある。どこから集めたかも書いてある。明朝、箱を開けて首飾りがなければ、宝物方は控えをたどる。衣装方をたどる。夜中に衣装方へ出入りした者を、一人ずつ数えていく。
衣装方の部屋に、ちょうどいたのは誰だったか。
「だめ」
オルティーネは言った。
「え」
「マグダが行ったら、マグダが盗人になる」
「でも、姫さまのものを取り返すだけで」
「わたしの品だと分かっていても、お触れで集めたものを黙って持ち出せば、盗んだことにされるわ。控えには、王女の離れから集めたと残っているもの。首飾りが消えたら、宝物方は、離れの誰かが盗んだと思う。離れにいるのは、わたしと、マグダだけよ」
マグダの口が、小さく開いたまま止まった。
「お父様は盗人を許さない。王女付きの女官ならなおさら。わたしが何を言っても、お父様はわたしの言うことなんて聞かない。マグダが罰を受けるのを、わたし、黙って見てることになる」
オルティーネは、立ち上がってマグダの前へ行った。白くなっているマグダの指を両手で包んで、ほどいた。
「もう黙って見てるのは嫌なの」
マグダは何か言いかけて、唇をかんだ。それから、ゆっくりうなずいた。目のふちが赤くなっていた。
食卓のほうで、ファルが静かに言った。
「では、呪いは使えない。盗むこともできない」
「そうね」
オルティーネはファルのほうへ振り向いた。
「だから、正面から取り返すわ」
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noteに解説記事も置いてあります:https://note.com/ten_division/n/n804584159471




