石の呪い(7)
これで第1話完結です!
朝、ファルは顔を赤くしたまま、そそくさと帰っていった。
帰る前に、オルティーネはゆうべの煮込みの残りを温め直して、器によそって出した。ファルは椅子に座らず、戸口の近くに立ったまま食べた。さじを口に運ぶのが、ゆうべよりずっと速かった。器を返すとき、ファルの指先がオルティーネの指に当たった。ファルは器から手を離すのが少し早すぎて、オルティーネが慌てて受けとめた。
「すまない」
「落ちなかったからいいわ」
ファルは器を受けとめたオルティーネの手を見ていた。それから目をそらした。
紫の長衣の帯を締め直しながら、戸口でふり返った。
「三日後に首飾りを見に来る」
オルティーネの目を見ずに、早口で言った。
「呪いを吸い戻したあとの石が、どうなっているか、確かめておきたい」
「わかったわ。じゃあ、そのときは何か作っておくわね」
ファルの肩がぴくりと動いた。
「……かぶの、あれか」
「かぶの、あれでもいいし、別のでもいいわ」
「別の、とは」
「それは三日後のお楽しみ」
ファルは「ティ……」と言いかけて、口をつぐんだ。それから一礼して、通用門のほうへ足早に歩いていった。
背中が見えなくなってから、オルティーネは戸を閉めた。
奥の小部屋をのぞくと、床の炭の円がまだ残っていた。夜のあいだに誰かの寝返りで端がこすれたのか、外側の円が一か所だけかすれて途切れている。四隅のろうそくは、どれも根元まで燃えつきていた。
オルティーネは円を消さずに、戸を閉めた。
台所の椅子に、どさりと座りこんだ。
体がだるかった。それなのに、ふわふわしていた。足の裏が床についていないような気がした。呪いは成功した。手応えがまだ右手に残っていた。
「ふふふ」
口から勝手に笑いがこぼれた。
オルティーネは立ち上がって、二階の寝間へ上がった。寝台の足もとの衣装箱を開けて、いちばん底に手を入れた。
黒い服が出てきた。
黒い厚手の絹に、深い紫の飾り布が何本も縫いつけてある。襟元と袖口には、黒い糸で編んだ透かし編みが重なっていた。腰は細く絞ってあって、裾は幾重にもひだを取って広がっている。いっしょにしまってあった、黒と紫の細い飾り紐も取り出した。
ふだんのオルティーネは、こういう色を着ない。
父に会う日にだけ、着る。
鏡の前で、オルティーネは髪を高く結い上げた。黒い飾り紐を、金の髪に巻きつけた。首飾りを首にかけて、石を服の胸元の内側に落としこんだ。石は肌に当たって、少しだけ温かかった。
鏡の中の顔が目を細めた。
「では、最後に」
低い声で言った。
「締めをするとしますわ」
◇
儀式の夜、王の寝室からは夜じゅううなり声が聞こえていた。
マグダは寝室の隣の控えの間で一睡もできなかった。うなり声は、低くなったり高くなったりしながら、明け方まで続いた。ときどき、何かが床に落ちる音がした。誰かの名前を呼ぶ声もした。何と言っているのかは、聞き取れなかった。
控えの間の固い腰掛けに座ったまま、マグダは自分の両手を見ていた。
ゆうべ、この手で寝具を整えた。国王が湯を使いに出ているあいだだった。寝台の掛け布を広げ、枕を叩いてふくらませ、そのとき、前掛けの隠しから布の包みを出した。包みをほどいて、中の石だけを枕の下へ押しこんだ。押しこむとき、指先が一瞬、石に触れた。ひやりとした。
石はただの石だった。菜園の小道の端に並んでいた、どこにでもある灰色の石だ。それなのに、指先に触れたところがいつまでも冷たい気がした。マグダはその指を何度も前掛けでこすった。
国王が寝間に戻ってきたとき、マグダは頭を下げたまま、寝台のほうを見ないようにした。国王は何も気づかずに寝台に入った。マグダは明かりを落として、控えの間へ下がった。
うなり声が始まったのは、それから一刻ほどたったころだった。
声が高くなるたびに、マグダは両手を握りしめた。姫さまは今ごろ、あの奥の小部屋で何をしているのだろう。北の郭のあの背の高い人と。考えると、指の冷たさが手首のほうまで上ってくるような気がした。
朝の鐘が鳴って、マグダは年かさの女官と二人で寝室の戸を開けた。
寝台には、誰もいなかった。
掛け布が床にずり落ちて、枕が半分、寝台からはみ出している。マグダの目は、まずその枕へ吸い寄せられた。枕の下に石を入れたのは、ゆうべの自分だ。
それから、部屋の隅で何かが動いた。
国王だった。
寝間着のまま、壁と衣装棚のあいだに体を押しこむようにして、うずくまっていた。両腕で頭を抱えている。肩が震えて、喉の奥からうう、うう、と声が漏れていた。
寝間着の背中が、汗で肌に張りついていた。裸足の足の裏が、こちらを向いていた。床には、寝台の脇の小卓から落ちたらしい水差しが転がって、敷物に黒いしみを広げている。大広間の玉座から戦を告げた人と、同じ人には見えなかった。
年かさの女官が小さく悲鳴を上げて、マグダの腕をつかんだ。マグダもその場から動けなかった。年かさの女官は何が起きたのか分からなくておびえている。マグダは、何が起きたのか分かっているから、もっとおびえていた。
そのとき、背後で戸が開いた。
一人の少女が入ってきた。
黒い服だった。黒い絹に深い紫の飾り布。襟元と袖口に、黒い透かし編みが重なっている。高く結い上げた金の髪に、黒い飾り紐が巻きついていた。
顔は、見慣れた王女の顔だった。
けれど、顎をわずかに上げ、部屋の隅の国王を見下ろす目には、いつもの親しみがなかった。口元には薄い笑みが浮かんでいる。王女は急がなかった。父がうずくまる姿を眺めながら、一歩ずつ近づいていく。歩くたびに、黒い裾が床をこすって、さらさらと鳴った。
マグダは、この方が四つのころから仕えてきた。泣いている顔も、笑っている顔も、鍋を焦がして怒っている顔も、全部知っている。
それなのに、知らない人のように見えた。
「お父様」
王女が言った。
低い声だった。ゆっくりで、語尾まで冷えていた。
部屋の隅で国王が顔を上げた。王女の姿を一目見て、「ひっ」と息をのんだ。すぐに顔をそむけて、壁のほうへ体をねじった。
「帝国と戦をなさろうとしていると聞きましたが?」
王女は部屋の真ん中まで進んで、止まった。
「言った。言ったのは本当だ!」
国王の声はひび割れていた。
「では、すぐにやめるとおっしゃってくださいな」
王女は首をほんの少しだけかしげた。
「民の前で戦をすると言ったらどうなるか。お分かりですよね?」
国王の肩がびくりと跳ねた。
抱えた腕の中で、国王の目が床の上をさまよった。何かを探すように。何かが落ちていないか確かめるように。自分の両手を見下ろして、指を開いて、閉じた。それから、自分の額に手をやった。生え際のあたりを指でなぞった。
「わ、わかった」
国王の声が上ずった。
「わかった、わかった! やめる。すぐにやめると宣言する!」
王女は、しばらく何も言わなかった。
それから国王のほうへ歩いていった。
うずくまった国王の前で、膝を折った。片手を自分の胸元に当てた。服の上から、何かを握りしめるような手つきだった。
もう片方の手を国王の手首へ伸ばした。
その手が震えていた。
マグダには、それが見えた。伸ばした白い指先が国王の手首に届く前に、一度、止まった。宙で小さく震えた。
それから、つかんだ。
国王の体が大きく一度波打った。抱えていた腕から力が抜けた。肩が落ちて、壁にもたれかかった。荒かった息が少しずつ、少しずつ静かになっていった。
王女は手首をつかんだまま、動かなかった。
長い時間に思えた。けれど、たぶん、まばたきを何度かするほどのあいだだった。
王女が手を離した。立ち上がった。
国王はもう、王女のほうを見なかった。壁にもたれたまま、ぼんやりと床を見ていた。
王女は寝台のほうへ歩いた。ずり落ちた枕を両手で持ち上げて寝台の上に戻した。戻すとき、片手が枕の下に滑りこんで、すぐに出てきた。その手はそのまま黒い袖の中に隠れた。
王女は、戸口のマグダのほうへ歩いてきた。
すれ違うとき、ちらりとマグダを見た。
ほんの一瞬だけ、目元がゆるんだ。いつもの、姫さまの目だった。
さらさらと裾の音をさせて、王女は寝室を出ていった。
年かさの女官がマグダの腕をつかんだまま、震える声で聞いた。
「い、今のはどなた……」
「王女殿下です」
マグダは答えた。
自分の声も震えていた。
年かさの女官は、まだ戸口のほうを見ていた。それから、はっと我に返って、部屋の隅の国王のもとへ駆け寄った。肩に掛け布をかけ、水差しを拾い、敷物のしみに布を当てた。マグダもそれに続いた。手を動かしているあいだは、膝の震えを忘れていられた。
国王は、されるがままになっていた。寝台へ戻るように言われると、子どものように素直に立ち上がった。立ち上がるとき、寝台の枕のほうを一度だけ見た。何も言わなかった。
寝台に腰を下ろした国王は、掛け布を肩にかけたまま、かすれた声で言った。
「大臣たちを呼べ。それから各師団に、出兵は取りやめると伝えよ」
年かさの女官が、ぽかんと口を開けた。マグダは頭を下げた。
「かしこまりました」
控えの間へ下がる前に、マグダは寝台の枕を見た。枕は、王女が置いたまま、きちんとまっすぐになっていた。
◇
寝室を出て、長い廊下を半分ほど来たところで、オルティーネは立ち止まった。
袖の中から石を取り出した。枕の下から抜き取った、片割れだった。
それから、服の隠しに入れておいた、もう片方の片割れを取り出した。ゆうべ、儀式のあいだ右手に握っていたほうだ。
二つを合わせてみた。
割れた面と割れた面が、ぴたりと合った。継ぎ目の線だけが細く残って、もとの、拳ほどの一つの石に戻った。
オルティーネは、その石を両手で包んだ。
右の手のひらに、まだ父の手首の感じが残っていた。
細かった。
骨ばっていて、冷たくて、つかんだ指がぐるりと回ってしまいそうだった。
オルティーネの覚えている父の手は、大きかった。目の前を覆うくらい大きくて、振り上げられると、天井が見えなくなった。その手の先に、あの手首がついていたはずだった。
うずくまった父の額の生え際も見た。白い傷が、髪の分かれ目からのぞいていた。指の先ほどの長さの、ひきつれた傷だった。あんなに近くで見たのは、初めてだった。
オルティーネは、合わせた石を服の隠しにしまった。
廊下の窓から、王宮の中庭が見えた。庭師が一人、籠を下げて小道を歩いていた。ときどきしゃがんで、何かを拾っては籠に入れている。父の通る道から、石を拾っているのだった。毎朝、そうしてきたのだろう。何年も何年も。
オルティーネは、窓から目を離した。
離れへ戻ると、黒い服のまま、前掛けを着けた。黒い絹の上に、ひだ飾りのついた白い前掛け。鏡には映さなかった。
かまどに薪をくべて、火を起こした。
食卓の上に市場で買ったかぶの残りを並べた。にんじんが二本、玉ねぎが三つ。塩漬けの脂身もまだ半分ある。三日後は豆の煮込みにしよう。豆は、前の晩から水に浸しておけばいい。
昼前にマグダが戻ってきた。
戸口に立ったマグダの頭布は、またずれていた。目の下には、くまができている。マグダは何も言わずに台所に入ってきて、かまどの前の小さな腰掛けにすとんと座りこんだ。
オルティーネは黒い服に前掛けをした格好のまま、温めておいた煮込みを器によそって、マグダの手に持たせた。
「姫さま」
マグダは器を両手で包んだまま、オルティーネを見上げた。
「さっきの姫さま、まるで悪い人みたいで、こわかったです」
「そう」
「陛下より、こわかったです」
オルティーネは何も答えずに、マグダの頭布をまっすぐに直してやった。マグダは器に顔を近づけて、湯気の中で鼻をすすった。それから、ゆっくり食べはじめた。
昼すぎ、王宮の正門のほうから、また伝令の馬が駆け出していく音がした。
オルティーネは、窓の外を見なかった。
かぶの皮をむいていた。むいた皮が細く長く、一度も切れずにまな板の上に垂れていった。
お約束からの悪役令嬢モードでの締めでした。
明日以降、第2話を投稿していく予定です。
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