石の呪い(6)
儀式の前に、二人はそれぞれ体を清めた。
オルティーネは井戸の水をくんだたらいで、手と足と首筋を洗った。晩秋の井戸の水は、指先がしびれるほど冷たかった。ファルに言われたとおり、ひとつまみの塩を水に溶かして、その水に浸した布で顔を拭いた。髪の飾り紐をほどいて、くしでまっすぐにとかした。結び目も留め具も、儀式のあいだは身につけてはいけないのだそうだ。
ファルが持ってきた白い麻の単衣に着替えた。何度も洗った布らしく、肌に当たるとやわらかかった。袖口のほころびが、細かい針目で何度も繕ってあった。郭の誰かが繕ったのだろう、とオルティーネは思った。
儀式には離れの奥の小部屋を使った。ふだんは物置にしている部屋で、昼のうちにオルティーネとマグダで、つぼや籠を全部台所へ運び出してあった。床には何もない。四隅に一本ずつ、ろうそくが立ててあった。
床の上にファルが炭で大きな円を描いていた。
円の中にもう一回り小さな円。その二つのあいだに、糸を巻きつけたような模様が、ぐるりと描きこまれている。首飾りの台に彫られていたのと、同じ模様だった。
「それで、このあとはどうするの?」
オルティーネは、円の外に立って聞いた。
「まず、円の中心を挟んで、寝転ぶ」
ファルも白い単衣を着ていた。紫の長衣を脱ぐと、肩は張っているのに、腰のあたりが思ったより細かった。ほどいた髪が肩の上に落ちていた。
「頭を中心のほうへ向ける。王女の左手と、俺の右手を中心の上で重ねる。そのあいだに首飾りを挟む。王女は右手に石を持ってくれ」
「こう?」
オルティーネは円の中に入って、床に仰向けに寝た。床の冷たさが、単衣ごしに背中へしみてきた。頭の上の円のまん中のほうへ、左手を伸ばす。
反対側で、ファルも仰向けになった。頭のてっぺんどうしが、拳二つぶんくらい離れて向かい合っている。ファルの右手が伸びてきて、オルティーネの左手の上に重なった。
大きな手だった。指が長くて、手のひらが硬かった。
ファルは二人の手のひらのあいだに、首飾りの石を滑りこませた。石が手のひらの真ん中に収まった。
オルティーネは右手に割れた石の片割れを握った。割れた面のざらざらが、指の腹に当たった。
天井を見上げた。ろうそくの火が、梁の影を揺らしていた。
「では、儀式を始める」
頭の上からファルの声がした。
「王女は、その石を使った呪いを思い描くんだ。国王が一番こわいと思うものを。それが首飾りまで来たら、俺がそれを強める」
「それから」
ファルの声が、少しだけ低くなった。
「途中で何を見ても手を離すな。首飾りの魔女の記憶が、混ざってくることがあるらしい。混ざっても離さなければ、戻ってこられる」
「らしい、って」
「俺も首飾りを使うのは初めてだ」
オルティーネは、天井を見たまま少し笑った。
「正直なのね」
「うそをついても、儀式はうまくいかない」
重ねたファルの手にほんのわずか、力がこもった。
オルティーネは目を閉じた。
右手の石を握りしめた。
――お父様が、王宮の正門の上の露台に立っている。
王の礼服を着て、王冠をかぶっている。広場には民が集まっている。何百人も。何千人も。父は民に向かって片手を上げる。
帝国へ兵を出す。
父がそう言う。
広場の声が止まる。
それから、誰かが石を拾う。最初の石が、露台の手すりに当たって跳ねる。二つ目が父の肩に当たる。三つ目、四つ目。石が雨のように降ってくる。
父は露台の床に座りこむ。王冠が転がり落ちる。両腕で頭を抱えて、必死に耐えている。額の生え際から血が流れる。
やめてくれ。
父が言う。
やめてくれ、頼む、やめてくれ。
広場の誰かが叫ぶ。
やめるのはお前のほうだ。
――石を握った右手が、熱くなった。
熱が腕を上ってくる。肩を越えて、胸を通って、左手のほうへ流れていく。左手の首飾りの石のところで、熱がいったん止まった。
そのとき、重ねた手の上から別の熱が流れこんできた。
ファルの手だった。
大きな手のひらから、オルティーネの熱よりもずっと深くて、静かなものが流れこんでくる。それが首飾りの石の中で、オルティーネの熱と混ざった。混ざったものが、いっぺんに膨れ上がった。
まぶたの裏の広場が揺れた。
石を投げる民の顔が見えた。その中に子どもがいた。小さな手が、地面の石を拾っていた。
あの村の子どもだった。
首飾りの記憶で見た、熱の引いた子ども。その子どもが拾った石の先に、立っているのは父ではなかった。黒い服を着て、髪をきつく結い上げた女だった。額から血を流して、ただ立っている。
オルティーネは自分の右手を見た。
右手は石を握っていた。
投げる側の手だった。
息が止まった。広場がぐるりと回った。どちらに立っているのか、分からなくなった。石を投げている。石を投げられている。父がいる。女がいる。わたしがいる。
左手をぎゅっと握られた。
ファルの手だった。重ねた手の指が、オルティーネの指のあいだに入りこんで、強く握り直している。首飾りの石が、二人の手のひらのあいだで押しつぶされそうになった。
手を離すな、と言われたのを思い出した。オルティーネは、自分からもファルの指を握り返した。
その痛みで、戻ってきた。
女の姿は消えていた。父は露台の上で、頭を抱えてうずくまっている。民の声だけが、雨のように降っている。
右手の石が、すうっと冷たくなった。
熱がどこかへ抜けていった。手の中から、まっすぐに遠いところへ。
オルティーネは目を開けた。
ろうそくの火が、さっきと同じように揺れていた。天井の梁の影が、ゆらゆら動いていた。
「届いた」
頭の上で、ファルが言った。少し息が上がっていた。
「呪いは成功したようだな」
「……うまくいった、気がする」
オルティーネは、自分の声が思ったより落ち着いているのに驚いた。左手は、まだファルの手の下にあった。ファルの指は、オルティーネの指のあいだに入ったままだった。
「このあとは、どうするの?」
「明日の朝になれば、国王は呪いでおびえているはずだ」
ファルの声は、もう落ち着いていた。
「そこで戦をやめると言わせる。言わせたら、首飾りを握ったまま、国王の手首をつかむ。そうすれば、国王に付いた呪いは首飾りに戻る」
オルティーネの指が、ファルの手の下で固くなった。
手首をつかむ。
自分から父に触れる。
最後に父の手が自分に触れたのは、十年以上前だ。そのときの父の手は、オルティーネの頬を打った。
「わかったわ」
オルティーネはそう答えた。
ファルの指が、ゆっくり離れていった。首飾りが、オルティーネの手のひらの上に残った。
「では」
ファルが身を起こす気配がした。
「儀式も終わったことだし、俺は帰らせてもらう」
「え?」
オルティーネは仰向けのまま、首を反らして、さかさまにファルを見た。
「夜は、王宮から出られないわよ?」
ファルが上半身を起こしかけた格好のまま、止まった。
しばらく、そのまま動かなかった。ろうそくの火が、ファルの顔の半分だけを照らしていた。
オルティーネは天井を見上げた。
さっきまで握られていた左手の指を、閉じたり開いたりした。指のあいだに、まだファルの指の形が残っている気がした。
「ねえ」
天井に向かって言った。
「二人のときは、ティーネって呼んで」
返事はなかった。
ろうそくの芯がちりっと鳴った。オルティーネは、天井の梁の木目を数えた。三つ目まで数えたところで、頭の上から低い声がした。
「……ティーネ」




