石の呪い(5)
翌日の夕方になった。
呪いの儀式は夜にしかできない。ファルは日が傾くのを待って、紫の長衣で王宮の通用門をくぐった。二度目でも、この服には慣れなかった。門番の目が自分の顔の上を素通りしていくたびに、背中がこわばった。
郭を出る前に、父に言われたことがあった。
「王女の離れで何か出されたら、断らずにいただきなさい」
なぜ、と聞くと、父は少し黙ってから、「そういうものだからだ」とだけ答えた。
ファルには、そういうものがどういうものなのか、分からなかった。分からないことは、ほかにもあった。市場で唇に当てられた指のことを、ゆうべから何度も思い出した。思い出すたびに、自分の唇を指でさわってみた。自分の指では何も起きなかった。
郭の書物にはそういうことは一行も書いていなかった。
王女の離れは王宮の北の隅にあった。
小さな二階建ての棟で、前に柵で囲った菜園がある。菜園の隅には、刈り取ったあとの豆のつるが束ねて立てかけてあった。王宮の中だというのに、郭の外れの畑とあまり変わらない眺めだった。
戸口に立つと、中から足音が駆けてきて、戸が開いた。
「おかえりなさいませ」
ひだ飾りのついた前掛けをした王女が、そう言った。
それから、自分の口を押さえた。
「あ、じゃなかった。いらっしゃいませ」
ファルは何も言えなかった。
何か言わなければならないということは分かっていた。郭の書物には、客として招かれたときの挨拶がいくつも書いてあった。そのどれも今は出てこなかった。ファルはただうつむいた。うつむいた先に、王女の小さな靴のつま先があった。
離れの中は温かかった。
入った途端に、匂いがした。何の匂いなのか、ファルにはまったく分からなかった。甘いような、塩辛いような、土のような匂いがいくつも重なって、鼻の奥から腹の底まで入ってくる。郭の廊下にしみついた、薬草を煮る苦い匂いとは、まるで違った。
「儀式の前に、お食事をしておこうと思って」
王女はかまどのほうへ戻りながら言った。
「ファルさんも食べますよね」
答える前に、食卓の上に深い木の器が置かれた。
ファルは器をのぞきこんだ。
とろりとした、黄色みがかった汁の中に何かがたくさん沈んでいた。白くて丸いもの。赤紫の輪切りのもの。半分透き通った、やわらかそうなもの。緑の細い葉が上に散っている。
「これは何だ」
「え? ただの野菜の煮込みですけど」
「こんなに野菜が入っている食べ物は初めて見た」
郭の食事は、麦と豆を水で煮たかゆだ。日によって、そこに塩漬けの魚のかけらか、干した菜っ葉が入る。器の底が見えるくらい薄い日もある。郭には千八百人が住んでいる。そのほとんどが病人か、捨てられた者か、そういう者の世話をする者だ。
「じゃあ、どうぞ。たくさんありますから!」
王女がそう言ったので、ファルは座った。
木のさじで白くて丸いものを一つすくった。口に入れた。
歯を立てる前に、それは舌の上で崩れた。崩れたところから、甘い汁があふれた。玉ねぎの甘さと、塩漬けの脂身の塩気と、ほかにも名前の分からない味が、いくつも舌の上に広がった。
喉の奥が熱くなった。
気がつくと、目の前の器がにじんでいた。
最後に泣いたのがいつだったか、ファルは覚えていなかった。郭では、泣いている顔を見せてはいけない。見せれば、つけこまれる。物心ついたころから、ずっとそうしてきた。
それなのに、涙が一粒、さじを持った手の上にぽたりと落ちた。
「こんなに、うまいものが、あるとは」
声がかすれた。
「いやだぁ、ただのありふれた煮込みですよ〜」
王女は笑って、かまどの鍋をかき回した。ファルの涙のことは、何も言わなかった。見ないふりをしてくれているのか、本当に見ていないのか、ファルには分からなかった。
ファルは二杯目を食べた。三杯目も食べた。四杯目をよそってもらうとき、さすがに器を差し出す手が止まりかけたが、王女は「はい」と言って、なみなみとよそった。
四杯目の途中でファルは顔を上げた。
「ところで。王宮には、料理人がいるのではないのか」
「王宮の料理を食べるということは、お父様と顔を合わせるということ」
王女は鍋のふちについた汁を指でぬぐって、なめた。
「それが嫌なので、ここでこうして、自分の食べるものは自分で作っているんです」
「料理を、ここまで運んでもらえばいいだけではないのか」
「それは」
王女はさじをファルのほうへ向けた。
「わたしが作りたいからですっ」
ファルは手の中の器を見下ろした。
器の底が見えていた。最後に残った赤紫のにんじんを、すくって口に入れた。市場でこういう色だとは書物に書いていなかった、と言ったにんじんだった。
◇
「ああ、そうだ」
五杯目を断ったあとで、ファルが急に言った。
「儀式には、首飾りのほかに呪うための品が要るのだった」
「今ごろ言うの?」
オルティーネは洗いかけの器を手に持ったまま振り向いた。
ファルは食卓の上で両手を握りしめていた。
「申し訳ない。……本人が恐れていて、夢に出たらうなされるような品が要る」
「それなら」
オルティーネは器を置いた。
「お父様なら、大丈夫よ」
前掛けで手を拭いて、裏口から菜園へ出た。
外はもう暗くなりかけていた。冷えた土の匂いがした。菜園を区切る小道の端に、拳ほどの石が並べてある。オルティーネはしゃがんで、その中から一つを選んだ。灰色で角が少し丸くなった、片手にちょうど収まる石だった。
台所に戻って、食卓の上に置いた。ことん、と重い音がした。
「石?」
「お父様が王になる少し前に、王都の市場で大きな騒ぎがあったんですって。お父様は王家の名代として、馬車で様子を見に出されたの。そうしたら、集まった人たちが馬車に石を投げたの。その石が窓を突き破って、お父様の額に当たった」
オルティーネは、自分の額の髪の生え際を指でなぞった。
「大けがだったそうよ。今でも、ここに傷が残ってる。王宮の古い庭師が教えてくれたの。それ以来、お父様はこういう石が大嫌いで、こわがってるの。お父様が通る庭の小道には、拳くらいの石は一つも落ちていないのよ。庭師が毎朝拾って歩くから」
ファルは食卓の上の石を見た。それから、オルティーネの顔を見た。
「あなたは、石がこわくないのか」
「石が?」
オルティーネは、食卓の上の石を指でつついた。石は、ころりと半分だけ転がって、止まった。
「石はわたしを叩かなかったもの」
ファルはしばらく黙っていた。
「それは好都合だ」
それから、少し考えるように眉を寄せた。
「同じ石から呪具を二つ作る。片方は相手のそばに置く。もう片方は、儀式のときにあなたが握る」
「二つ?」
「黒の呪いは相手に触れているか、すぐそばにいないと効かない。あなたが国王の寝所に入って呪うわけにはいかないだろう。だから、二つに分けた石の片方を国王のそばに置いておく。もう片方を握って呪えば、対になった石を通って、向こうへ届く」
ファルは石を持って立ち上がった。
「割ってくる。平たい石と手斧を借りたい」
裏口の外でかつん、かつんと二度、硬い音がした。三度目で音が変わった。
戻ってきたファルは椅子に腰を下ろした。手のひらには、石が二つ載っていた。まん中からきれいに割れていた。割れた面は外側よりも白っぽく、細かい粒がきらきらしていた。
「石を割るのにも、魔法を使ったの?」
「まだ魔法は使っていない。手斧で割っただけだ」
「割るのはふつうなのね」
「ふつうだ」
そこへ、裏口からマグダが入ってきた。夕方の仕事を終えて、離れへ戻ってきたところだった。
「姫さま、お夕飯の片付けはわたしが――」
マグダは、食卓の前に座っている紫の長衣の男を見て、口を閉じた。それから、王女の顔を見た。
「マグダ。こちら、北の郭のファルさん」
マグダの顔からすうっと血の気が引いた。
ふらりと揺れたマグダの背中を、オルティーネは片手で支えた。マグダは裏口の柱にしがみついて、なんとか立っていた。
「き、北の郭の……あの、紫の方が」
「この前、師団長の隣にいた方よ。今日はお客様」
「お、お客様」
ファルが立ち上がって、マグダに一礼した。ひどく硬い、古い書物の挿絵のような一礼だった。マグダは柱にしがみついたまま、ぎこちなく頭を下げ返した。
「マグダ。今夜と明日の朝、お父様のお寝間の世話番に入れないかしら」
「陛下のお寝間の、ですか」
「ええ。この石を、お父様の枕の下に入れてほしいの。寝具を整えるときなら、人に見られずにできるでしょう?」
マグダは食卓の上の石を見た。それから、ごくりと喉を鳴らした。
「……世話番の方に聞いてまいります」
マグダは離れを出ていった。しばらくして戻ってくると、戸口で小さくうなずいた。
「今夜と明日の朝は、代わりにわたしが入ることになりました」
「ありがとう。お願いね」
ファルが割れた石の片方を差し出した。
マグダは前掛けの隠しから手ぬぐいを取り出し、その布で石をくるんで受け取った。指が、直接石に触れないようにしていた。くるんだ石を、そのまま前掛けの隠しにしまった。
「行ってまいります」
声が震えていた。前掛けの隠しのあたりを片手で押さえたまま、マグダは裏口から出ていった。足音が遠ざかって、途中で一度何かにつまずいた音がした。
「……大丈夫だろうか」
「マグダはこわがりだけど」
オルティーネはマグダの出ていった裏口を見た。
「わたしの頼みを、一度も断ったことがないの」




