石の呪い(4)
「では、そろそろ帰る」
ファルは椅子から立ち上がった。
「明日の夕方、また来る。夜になったら呪いの儀式をしよう」
「ねえ」
オルティーネも立ち上がった。
「時間があるなら、ちょっと街に買い物に行きたいの。付き合ってくれないかしら」
「しかし、用事が済んだらすぐ帰らなければならない」
「わたし、一人じゃ王宮から出られないのよ」
オルティーネは両手を後ろで組んで、ファルの顔をのぞきこんだ。
「王女が街を歩くには、供と護衛がいるの。北の郭へ行ったときみたいに馬車を出したら、大ごとになっちゃうし。でも、ちょうど紫の師団の服を着た方がいらっしゃるから、その方が一緒に来てくださるなら、出られるわ」
ファルは自分の服を見下ろした。紫の長衣の胸元をまじまじと見た。それから、オルティーネの顔を見た。
何か考えているようだった。眉のあいだにしわが寄っている。
「……王女の頼みを断ると、罰せられるのか」
「さあ、どうかしら」
ファルの眉のしわがもっと深くなった。
結局、ファルはついてきた。
王宮の通用門を出て、下り坂の石畳を歩きながら、オルティーネは聞いた。
「ところで、どうして紫の師団の服を着てらっしゃるの?」
「前に」
ファルは前を向いたまま答えた。
「急ぎの用で、黒の師団の者がそのままの格好で王宮に入ったことがあるらしい。王宮じゅうが大騒ぎになったそうだ」
「あー」
オルティーネは黒い頭巾の人が王宮の廊下を歩いていく姿を思い浮かべた。女官たちが悲鳴を上げて柱の陰に逃げこむ。マグダなら、たぶん気を失う。
「それはなるわね」
◇
王都の中央市場は昼すぎがいちばんにぎやかだった。
石畳の広場いっぱいに、布の屋根をかけた店が並んでいる。かぶの山、玉ねぎを編んでつるした束、籠に入った生きた鶏。焼き菓子の店からは、蜂蜜と焦げた麦の匂いが流れてくる。どこかで魚屋が声を張り上げていた。
ファルはオルティーネの半歩後ろを歩いていた。
歩きながらずっと首を回している。右の店を見て、左の人を見て、後ろをふり返ってまた前を見る。肩に力が入りすぎて、長衣の背中がつっぱっていた。人がそばを通るたびに体がわずかに固くなる。
「どうしたの」
オルティーネは笑いをこらえながら聞いた。
「本物の護衛の人みたいだよ」
「この服で」
ファルは低い声で言った。
「この目立つ服で歩いていると、まるで裸で歩いているようだ」
オルティーネはこらえきれずに吹き出した。
郭の人たちはみんな黒い頭巾をかぶっていた。郭で会ったときのこの人は、顔の下半分を布で覆っていた。きっと、ずっとあの黒い服の中にいたのだ。それが今、王宮の中ならどこにでもいる紫の服を着て、隠すもののない顔をさらして昼の市場を歩いている。
笑いながら一歩踏み出したとき、つま先が石畳の継ぎ目に引っかかった。
体が前にのめった。目の前の道を、野菜を積んだ荷馬車が横切ってくるところだった。馬のひづめがすぐそこにあった。
「危ない、オルティーネ王女!」
腕をつかまれた。強い力で後ろへ引かれて背中が何かにぶつかった。
ファルの胸だった。長い腕がオルティーネの肩と腰をまとめて抱きかかえている。荷馬車の車輪がつま先の先をがらがらと通り過ぎていった。御者が何か怒鳴った。
耳のすぐ上でファルの息が荒かった。抱えている腕にまだ力が入っている。長衣ごしに伝わってくる胸の鼓動がひどく速かった。
「だめだよ」
オルティーネは言った。
「抱きかかえてすまない」
ファルの腕がぱっと離れた。
「すぐに離す。もう離した」
「そうじゃないよ」
オルティーネはくるりと向き直って、ファルを見上げた。
「こんなところでオルティーネ王女なんて大きな声で言ったら、せっかくお忍びで来たのにばれちゃうでしょう」
そう言って、人差し指をファルの唇に当てた。
ファルは動かなかった。
まばたきするほどのあいだ、オルティーネの指の先でファルの唇がかすかに震えた。それからファルは急に顔を横へ向けた。束ねた髪が揺れて首筋が見えた。
耳が赤くなっていた。
オルティーネは指を引っこめて、何も言わずに前を向いた。自分の指先をそっと握りこんだ。
しばらく、二人とも黙って歩いた。
広場の端の井戸のそばで、ファルがふいに足を止めた。
井戸のふちに女が一人、子どもを抱いて座っていた。子どもは三つか四つで、母親の肩に頬をつけて、浅い咳を繰り返している。咳のたびに、小さな背中がぴくりと跳ねた。
ファルは母親の前まで行ってしゃがんだ。子どもの顔をじっと見た。手は伸ばさなかった。
「いつからだ」
母親は紫の長衣の男にいきなり話しかけられて、身を固くした。
「と、十日ほど前から。夜になると、ひどくなって」
「咳のときに、胸のこのあたりが鳴るか」
ファルは自分の胸の下のあたりを指で押さえてみせた。母親がこわばった顔のままうなずいた。
「茶の師団の診療所へ連れていけ。今日のうちに。明日まで待つな」
それだけ言って、ファルは立ち上がった。母親は子どもを抱きしめたまま、ファルの顔とオルティーネの顔を見比べた。それから慌てて立ち上がって、広場の外へ小走りに去っていった。
「お医者さまみたい」
オルティーネが言うと、ファルは首を横に振った。
「病を見立てるのは仕事の一つだ。治すのは茶の師団のほうがうまい」
ファルは去っていく母親の背中を、角を曲がって見えなくなるまで見ていた。
それから二人は八百屋を三軒回った。
オルティーネはかぶを選び、にんじんを選び、玉ねぎを選んだ。根元に土のついたねぎと、香草の束も買った。
ファルは荷物を持ちながら、オルティーネが手に取るものを一つずつじっと見ていた。
「それは何だ」
「かぶ」
「それは」
「にんじん。……ファルさん、にんじん知らないの?」
「名前は書物で読んだ」
ファルはオルティーネの手の中の赤紫色のにんじんを見下ろした。
「こういう色だとは書いていなかった」
八百屋のおかみさんが二人を見てくすくす笑った。それから、「お連れさんはかぶも初めてかい」と言って、小ぶりのかぶを一つおまけに包んでくれた。
乾物屋では干しきのこを一袋、肉屋では塩漬けの豚の脂身をひとかたまり買った。
夕方、ファルはオルティーネを王宮の通用門まで送った。門の前で立ち止まって、抱えていた包みを全部オルティーネに渡した。
通用門の門番が、紫の長衣のファルと包みを抱えた王女を見比べて目を丸くした。王女が文官を供に連れて市場から帰ってきた。それも、かぶやねぎの束を山ほど抱えて。門番は何か言いたそうに口を開いて、結局黙って門を開けた。
「欲しいものが買えてよかった。ありがとう!」
ファルは黙って一礼した。それからくるりと背を向けて、北のほうへ歩いていった。紫の長衣の背中が夕暮れの坂の下へ小さくなっていく。
一度もふり返らなかった。
けれど、坂の角を曲がる前にほんの少しだけ足が止まった。オルティーネはそれを見ていた。
次から儀式の準備が始まります。
毎日11時に投稿予定です。




