石の呪い(3)
五日後の昼、オルティーネは離れの食卓にほおづえをついていた。
食卓の上にはまだ何も載っていない。かまどの火は落としてあって、台所はしんとしていた。
「お父様を止める手段が呪いなんてねぇ」
口に出してみると、なんだかおかしかった。
セラフ師団長の話はこうだった。黒の師団には呪いをかける術がある。ただ、黒の団員は誰も、人に呪いを向けてはいけないという掟を守っている。だから、呪いをかけるのは王女殿下、あなただ。黒の団員は、そのための魔力を貸すだけだ。魔法を使えない殿下のために、ある首飾りを使う。
首飾りを届けに近いうちに一人よこす、とも言われた。
郭から戻る馬車の中で、マグダは一言もしゃべらなかった。香り袋を握ったまま、窓の外ばかり見ていた。
それから五日のあいだ、マグダは日に三度は同じことを聞いた。朝、髪をとかしているとき。昼、菜園の豆のつるを片付けているとき。夜、かまどの火を落とすとき。
「姫さま。本当に、やるんですか」
オルティーネはそのたびに、「戦が始まるのと、どっちがいい?」と聞き返した。マグダはそのたびに黙った。黙って少しすると、また同じことを聞いた。
そのあいだにも、王宮の中は日ごとに騒がしくなっていった。厨房の裏には、どこからか運ばれてきた麦の袋が積み上げられた。回廊を、見たことのない師団の使者が行き来した。弟は夜になると熱を出すようになったと、侍従から聞いた。
「でもまぁ」
オルティーネはほおづえをついたまま横を向いた。
「お父様、嫌いだし。ちょうどいいかも」
大きな目が細くなって、目尻が少し上がった。猫が窓の外の小鳥を見るときの顔に似ていなくもなかった。
戸口でマグダが咳払いをした。
「姫さま。お客様がお着きです」
それから、言いにくそうに付け足した。
「紫の師団の文官の方なんですけど。首飾りのお届け物だ、っておっしゃってて」
◇
「ファルだ」
入ってくるなり、男は短くそう言った。
「あ、え、オルティーネです」
いきなり名乗られたのにも驚いたが、着ているものにも驚いた。紫の師団の文官の服だった。足首まである濃い紫の長衣に銀糸のふち取り。腰には紫の帯を締めている。王宮の中でいくらでも見かける服なのに、この人が着ていると、どこかちぐはぐに見えた。
背が高い。戸口の上の梁に頭が届きそうだ。細身だけれど、長衣の肩はしっかり張っている。彫りの深い顔に、鋭い目。肩の下まである黒い髪を、首の後ろで一つに束ねていた。
声は低くて静かで、抑揚が少なかった。初めて聞く声だった。
けれど、その目には見覚えがあった。北の郭でセラフ師団長の隣に黙って立っていた人の目と同じだった。白湯の杯を置いてくれた人の目だ。
「郭で師団長の隣にいた方?」
ファルは少し間をおいてうなずいた。
「あのときは覆面をしていた。今日は、師団長の許しを得て外してきた」
「どうして?」
「覆面の文官はいない」
オルティーネは思わず笑いそうになってこらえた。
ファルは勧められた椅子に浅く腰を下ろした。背筋がまっすぐすぎて、椅子の背もたれにまったく触れていない。長衣の胸元から、かすかに苦い草の匂いがした。郭の廊下にしみついていたのと同じ匂いだった。
座ったまま、ファルは台所を見回していた。壁に掛けた大小の鍋。棚に並んだ干した香草の束と、塩と蜂蜜のつぼ。窓辺で干している薄切りのりんご。かまどの脇に積んだ薪。一つ一つを、何か書きつけるような目で順に見ていった。
「珍しい?」
「ここは何をする部屋だ」
「台所よ。食べるものを作る部屋」
ファルは天井からつるした玉ねぎの束を見上げた。
「王女が作るのか」
「王女が作るの」
ファルはそれきり何も聞かなかった。けれど、玉ねぎの束から目を離すまでに少し時間がかかった。
「本日は、首飾りを届けに参上つかまつった」
急に硬い言葉になったので、オルティーネは目を丸くした。ファルは自分でも言いにくかったのか、少し眉を寄せてから、ふつうの言い方に戻した。
「……届けに来た」
ファルは懐から布の包みを取り出した。包みを開くと、古びた首飾りが出てきた。
黒ずんだ銀の鎖に、親指の先ほどの石が下がっている。石は黒に近い深い紫で、表面に細かい傷がたくさんついていた。石を抱いている銀の台には、糸を巻きつけたような模様が彫られている。北の郭のろうの印と同じ模様だった。
「これには昔の呪いの魔女の魂が入っている」
ファルは首飾りを食卓の上にそっと置いた。
「魔女は自分の魂を呪いにして、この首飾りに付けたと聞いている。魔法を使えないあなたが呪いの儀式をするには、まず、この首飾りの魔女と同期しなければならない」
「同期って?」
オルティーネは首をかしげた。
「両手で握れば分かる、と師団長は言っていた。それから」
ファルは一度言葉を切った。
「必ず同期できるだろう、とも」
オルティーネは首飾りを見下ろした。石の中に、何かが沈んでいるように見えた。
半分も信じていなかった。それでも、両手で首飾りを取り上げて、胸の前で握りしめた。石は思っていたよりも重く、冷たかった。
冷たさが指のあいだから手首へ上がってきた。
次の瞬間、目の前の台所が消えた。
見たことのない村だった。土の道に低い家が並んでいる。家の戸口に、一人の女が立っていた。黒い服を着て、髪をきつく結い上げている。若くはない。目尻にしわがあった。
女は病人の額に手を当てていた。熱で赤くなった子どもの額から、黒いもやのようなものを剥がして、手のひらの上の小さな人形に移している。子どもの母親が女の前で泣きながら頭を下げた。
場面が変わった。同じ女が、別の家で別の病人の胸に手を当てている。また変わる。また別の家。何十人もの顔が、次々に流れていった。
それから、夜になった。
女は一人の男の前に立っていた。立派な服を着た男で、手に巻いた紙を握っていた。女の後ろでは、縄で縛られた若い男が地面に膝をついている。女は立派な服の男の手首をつかんだ。一度だけだった。立派な服の男は悲鳴を上げてその場に崩れた。
また、昼になった。
村の広場だった。人が女を囲んでいた。さっき頭を下げた母親がいた。熱の引いた子どももいた。その子どもの小さな手が、地面の石を拾った。
最初の石は女の額に当たった。
次の石は肩に当たった。女は手を上げなかった。誰にも手を伸ばさなかった。額から血が流れて、目に入っても女はただ立っていた。
石は止まらなかった。
気がつくと、オルティーネは台所の椅子に座っていた。首飾りを握った両手が膝の上で震えている。頬がぬれていた。いつから泣いていたのか分からなかった。
目の前に、灰色の布が差し出されていた。
ファルの手だった。ファルは自分の懐から出したらしい手ぬぐいを、腕をまっすぐ伸ばして突き出していた。顔は少し横を向いている。
「使え」
オルティーネは手ぬぐいを受け取って、目に当てた。洗いざらしの麻の布で、苦い草の匂いがした。目にしみるような匂いだった。
それがおかしくて、泣きながら少し笑った。
「うまく同期できたようだな」
手ぬぐいの向こうでファルの声がした。
「なんでも、俺たちの掟に『呪いを人に向けてはならない』と書き加えさせたのが、この魔女だと聞いた」
「ううん」
オルティーネは手の甲で頬をこすった。
「あの人、病気の子を助けてたんだよ。それなのに、石を投げられてた」
握った首飾りを見下ろした。石はもう冷たくなかった。手のひらと同じくらいの温かさになっていた。
「誰にもやり返さないで、ただ立ってた」
ファルは何も言わなかった。食卓の向こうで、まっすぐにオルティーネを見ていた。
「わたしも小さいころ、いじめられてた」
言うつもりはなかった。口が勝手に動いた。
「王女なのに、か」
ファルの目がわずかに見開かれた。
「王女だからだよ」
オルティーネは首飾りを食卓の上に戻した。
「お父様は、男の子が欲しかったの。でも、最初に生まれたのはわたしだった。なんで女なんだ、なんで女なんだって、何度も叩かれた。まわりの人たちは何もできなかったし、お母様は、はじめはお父様をなだめてくれてたけど、最後には、そういうときは部屋にこもって出てこなくなっちゃった」
ファルの手が食卓の端で止まっていた。
「呪いの子なんじゃないか、ってまで言われた。弟が生まれて、叩かれることはなくなったけど。やっぱり、許せないし、お父様は嫌い」
オルティーネは顔を上げた。
「だから、呪ってやるんだ」
しばらく、台所には何の音もしなかった。かまどの灰がかさりと崩れた。
「呪いと言っても」
ファルが口を開いた。
「相手に幻を見せる程度だ。悪い夢のようなものだ。その幻で相手がどうなるかは本人しだいだ」
「そうなんだ」
オルティーネは少し考えた。
「でも、戦が止まるかもしれないなら、やってみる価値はあるよね」
「そうだな」
ファルは初めてふふっと笑った。笑うと、鋭い目の端がゆるんで、急に年が近く見えた。
「ところで」
オルティーネは首飾りをつついた。
「人を呪うのは禁止なのよね? 魔力を貸すだけでも、同じことに思えるけど」
「禁止だ」
ファルはあっさりうなずいた。
「だが、呪いをかけるのはオルティーネ王女、あなただ。俺は、あなたが呪いをかけるための魔力を出すだけだ。だから、掟は破っていない」
まっすぐな目だった。言い訳をしている人の顔には見えなかった。本当にそう信じている顔だった。
「……そういうものなの?」
「そういうものだ」
オルティーネは何か言いかけて、やめた。代わりに、少し笑った。




