首飾りを差し出せ(6)
翌朝、夜が明けきらないうちに、オルティーネは目を覚ました。体には、ファルが持ってきた毛布がかかっていた。端を指でつまんで、部屋の隅を見た。
ファルは宝物方の部屋へ行くのだと言って、出ていった。書き役が一人いないと、今日の返却に間に合わないと、きのう若い者たちに泣きつかれていたらしい。
入れ違いに、マグダが戻ってきた。目の下に、また青い影ができていた。
「結べました」
マグダは戸口に立ったまま言った。
「目録の紐の結び目の陰に。陛下はゆうべ、目録を寝台の脇で一枚ずつめくっていらっしゃいました。最後の一枚までめくって、表紙を閉じて、紐のところを指でなでて。それから、明かりを消されました」
「それから?」
「夜中に何度もお声が」
マグダは自分の手首をもう片方の手で握った。
「ほどけ、ほどけ、って。何度も」
オルティーネは黙ってうなずいた。それから、マグダを台所の腰掛けに座らせて、ゆうべの豆の煮込みを温め直して食べさせた。マグダが食べているあいだに、黒と紫の服に着替えた。
背中の紐は、一人では結べなかった。マグダが器を置いて、手を拭いて、結んでくれた。
「姫さま」
紐を結びながら、マグダが言った。
「わたし、ゆうべ目録に札を結ぶとき、侍従さんにうそをついたんです。枕が高すぎるって。陛下は何もおっしゃってないのに」
「うん」
「うそをついたのは、生まれて初めてでした」
マグダの指が、背中の紐の上で止まった。
「姫さまは、こわくないんですか」
オルティーネは鏡の中の自分の顔を見た。黒い服を着て、髪を高く結い上げた顔。目尻をつり上げると、知らない人の顔になる。
「こわいわよ」
オルティーネは言った。
「お父様の手首をつかむのが、いちばんこわい」
マグダは何も言わなかった。黙って最後の紐を結び終えた。それから、オルティーネの胸元の首飾りの鎖が、服の襟に絡まっていないか、指でそっと確かめた。
◇
宝物方の検分は、王宮の西の翼の小広間で行われた。
長い卓の上に、集められた宝飾品の箱がずらりと並んでいた。箱の数は二十を超えていた。それぞれの箱の前に品を集めた場所ごとに、持ち主の名を書いた札が立ててある。部屋の壁際には、宝物方の者たちと、衣装方の女官たちが緊張した顔で並んでいた。品を取り上げられた者たちも、何人か呼ばれて、部屋の隅に固まって立っていた。年老いた侍従、若い女官、下級貴族の夫人。誰もが、自分の箱の前の札を見つめていた。
ゲルダは卓の端に立っていた。首から下げた水晶の玉を指でつまんで、くるくる回していた。
国王は卓の正面の椅子に座っていた。
オルティーネは入ってすぐに父の顔を見た。
目の下が黒ずんでいた。
頬がこけて見えた。髪は侍従が整えたのだろうが、こめかみのあたりが一筋だけ跳ねている。両手は、ひじ掛けをきつく握っていた。指の関節が白い。手首の内側を、もう片方の手の親指が何度も何度もこすっていた。
まるで、何かがそこに巻きついていたのを、こすり落とそうとするように。
国王の前の卓には、ゆうべの目録が置いてあった。厚い紙の束の背を、麻紐が二重に巻いている。その結び目の陰に、小さな布の切れ端がぶら下がっていた。国王の指が、ときどきその結び目のほうへ伸びた。触れる前に引っこんだ。
国王は王女が入ってきたのに気づいた。
黒い服だった。黒い絹に深い紫の飾り布。襟元と袖口の黒い透かし編み。高く結い上げた金の髪に、黒い飾り紐。
胸元には、黒ずんだ銀の鎖が下がっていた。鎖の先で、深い紫の石が窓からの光を吸いこんでいた。
国王の目が、その石の上で止まった。
「その服は何だ」
国王が言った。かすれた声だった。
「なぜ黒を着ている。黒は北の郭の色だ。王女が黒など」
「お父様に、お目にかかるときの服ですわ」
オルティーネは答えた。
「この前も、そうしておりましたでしょう。お父様がわたしをご覧にならないから、お気づきにならなかっただけで」
国王の口が、半分開いたまま止まった。
部屋の隅の誰かが、小さく咳をした。すぐに口を押さえる音がした。
オルティーネは卓の前まで進んで、裾をつまんで一礼した。
「お父様。お約束どおり、わたしの品を持ってまいりましたわ」
低い声だった。ゆっくりで、語尾まで冷えていた。
部屋の隅の者たちが息をのんだ。ゲルダの指が、水晶の玉をつまんだまま止まった。
国王は何か言おうとした。
唇が動いた。けれど、声にならなかった。国王の目は、まだ首飾りの石の上にあった。それから、ゆっくりと卓の上の箱へ移った。宝物方の箱。指輪や腕輪や髪飾りが、柔らかい布に包まれてぎっしり詰まった箱。
国王の喉がごくりと鳴った。
「……それを」
国王はかすれた声で言った。
「それを差し出せ」
オルティーネは首をほんの少しだけかしげた。
「差し出していただくのは、お父様のほうですわ」
「何を」
「その命令を」
部屋がしんとした。
「王宮の宝飾品は、すべて王家のもの。お気に召した品は宝物庫へ。そのお触れを、取り下げていただきます」
国王の手がひじ掛けの上で震えた。
「朕のものだ」
国王は言った。声が裏返っていた。
「王宮にあるものはすべて朕の――」
「お前がこちらのものだ」
オルティーネは静かに言った。
国王の顔から血の気が引いた。
オルティーネはそこで口をつぐんだ。ただ、黙って父の顔を見ていた。目を細めて、首をかしげたまま。
国王の目が、卓の上の宝飾品を見た。王冠はなかった。けれど、国王は王冠を探すように、卓の端から端まで目を走らせた。それから、自分の手首を見た。手首には、何も巻きついていなかった。
「……取り下げる」
国王の声は、ほとんど聞こえないくらい小さかった。
「お触れは取り下げる」
「集めた品は、すべて持ち主へ返していただけますわね」
「返す」
「宝物方と衣装方の者は、誰も罰しない。箱の札を替えた者も、品を取り出した者も」
国王の目が一瞬だけ、ゲルダのほうへ動いた。
「……罰しない」
「では」
オルティーネは卓の脇を回って、国王の椅子の前へ出た。
片手を胸元の首飾りに当てた。服の上から石を握った。
もう片方の手を、ひじ掛けの上の国王の手首へ伸ばした。
四日前と同じだった。指先が、手首に届く前に一度止まった。宙で小さく震えた。
オルティーネは唇の内側をかんだ。
それから、つかんだ。
細い手首だった。四日前より、もっと細くなった気がした。骨ばっていて、冷たかった。手首の内側の、親指でこすり続けていたところだけが、赤く熱を持っていた。
国王の体が、一度だけ大きく波打った。それから、椅子の背にぐったりともたれかかった。
オルティーネの胸元で、首飾りの石がじわりと温かくなった。
手を離した。
国王はもう王女を見なかった。椅子にもたれたまま、ひじ掛けの上の自分の手首をぼんやりと見ていた。
オルティーネは国王に背を向けて、卓の端のゲルダのほうへ歩いた。ゲルダは水晶の玉をつまんだまま、まっすぐ王女を見ていた。
「お約束どおり、持ってまいりましたわ」
オルティーネは胸元の首飾りを指先で示した。
「帳面のわたしの名前の横に戻した、と書いておいて」
ゲルダはしばらく黙っていた。
それから、深く頭を下げた。いつもより、ずっと深く。
「かしこまりました。王女殿下」
宝物方の者たちが、箱の前で動きはじめた。
布に包まれた品が一つずつ取り出され、持ち主の名を読み上げられて、部屋の隅の者たちの手へ戻されていった。若い女官は耳飾りを受け取ると、その場ですぐ耳たぶに着け直した。下級貴族の夫人は受け取った腕輪を胸に抱いたまま、目を閉じた。
ゲルダが小さな布の包みを一つ、自分の手で取り上げた。
包みの端に、震える字で名前が書いてあった。ゲルダはその名前を読み上げなかった。部屋の隅へ歩いていって、年老いた侍従の前で止まった。黙って包みを差し出した。
老侍従は包みを両手で受け取った。布を開いた。
細い銀の指輪だった。小さな青い石が一つ、載っていた。
老侍従は指輪をつまんで、薬指にはめようとした。指の関節で指輪が止まった。老侍従は指輪に唾をつけようとして、ここが陛下の御前だと気づいたように手を止めた。それから、指輪を薬指の先に引っかけたまま、もう片方の手で包みこんだ。
老侍従の目が、部屋の向こうの王女のほうへ動いた。
オルティーネは黒い服のまま、まっすぐ前を見ていた。老侍従のほうは見なかった。目尻をつり上げたまま、小広間の戸口へ向かって歩いていった。
戸口を出る直前に一度だけ、目元がゆるんだ。誰もそれを見ていなかった。
小広間を出て、回廊の角を曲がったところで、オルティーネは壁に片手をついた。
右の手のひらが、まだ父の手首の形を覚えていた。細くて、冷たくて、内側だけが赤く熱かった。手のひらを壁の石に押しつけると、石の冷たさがその形を少しずつ消していった。
足音がした。
回廊の向こうから、紫の長衣の背の高い男が、帳面を三冊も抱えて歩いてきた。宝物方の部屋へ向かうところらしかった。ファルは壁に手をついている王女に気づいて、足を止めた。
回廊には、ほかにも人がいた。侍従が二人、女官が一人。紫の文官が、王女に気安く声をかけられる場所ではなかった。
ファルは何も言わなかった。
帳面を抱えたまま、ほんの少しだけ顎を引いた。うなずいたのか、会釈をしたのか、分からないくらいの小さな動きだった。
オルティーネは壁から手を離した。背筋を伸ばして、黒い服の裾を整えた。それから、ファルとすれ違った。すれ違うとき、ファルの長衣の袖と、オルティーネの黒い袖がかすかにこすれた。
どちらも振り返らなかった。
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noteに解説記事も置いてあります:https://note.com/ten_division/n/n804584159471




