首飾りを差し出せ(5)
二度目の儀式は、一度目よりも静かに始まった。
奥の小部屋の床には、前の儀式の炭の円がかすれたまま残っていた。ファルはそれをぬらした布で丁寧に拭き取ってから、新しく描き直した。オルティーネは塩を溶かした井戸水で顔を拭き、髪の留め具を外して、白い麻の単衣に着替えた。
ファルは今度は小さく巻いた毛布を一枚、持ってきていた。
「それ、何?」
「毛布だ」
「どうして?」
「……夜は王宮から出られない」
ファルはそれだけ言って、毛布を部屋の隅に置いた。オルティーネは思わず噴き出しそうになって、口元を手で押さえた。
毛布を置いて身を起こしたとき、ファルの髪を束ねていた紐がするりとほどけて落ちた。肩の下まである黒い髪が、背中に広がった。
「あ」
ファルは床に落ちた紐を拾おうとして、かがんだ。かがむと、髪が前に落ちて顔を覆った。ファルは片手で髪を払いのけながら、もう片方の手で紐を探った。
「貸して」
オルティーネは紐を拾い上げて、ファルの後ろへ回った。
「儀式のあいだは結び目はいけないんでしょう。でも、寝転んだら髪が顔にかかって、じゃまよ。ゆるくひと巻きだけにしておくわね」
ファルの髪を、両手で後ろへまとめた。
思ったより、やわらかい髪だった。まっすぐで、指のあいだをするすると滑っていく。首筋のところで、髪の根元が少しだけ汗ばんでいた。オルティーネは髪を一束にまとめて、紐をひと巻きだけ回した。結ばずに、端を巻いた紐の内側へ押しこんだ。弟の髪を、寝る前にまとめてやるときと同じやり方だった。
「はい、できた」
ファルは後ろへ手をやり、巻いた紐にそっと触れた。
「自分でやると、すぐほどける」
「じゃあ、ほどけたら呼んで。もう一度巻くから」
ファルは紐から手を離し、円の中へ入った。
「石を。俺が持っておく」
差し出した手へ、オルティーネは首飾りを渡した。ファルが横になるのを待って、自分も円の中心を挟んで仰向けに寝た。
左手を伸ばすと、すぐにファルの右手が重なった。初めての儀式よりも、迷いのない重ね方だった。二人の手のひらのあいだに、首飾りの石が収まった。
右手には、布札の片割れを握った。麻布はやわらかくて、握ると手のひらの中で丸まった。紋の縫い取りの糸だけが、指の腹にごつごつと当たった。
「途中で何を見ても」
「手を離すな、でしょう」
「そうだ」
ファルの手に、少しだけ力がこもった。
オルティーネは目を閉じた。
お父様の寝所。
寝台の脇の卓に、目録が置いてある。父は目録を開いて、指で一行ずつなぞっている。指輪。腕輪。髪飾り。王冠。読み上げるたびに、品が卓の上に現れる。父は満足そうに一つずつ手に取って数える。
朕のものだ。
父が言う。
そのとき、王冠がしゃべる。
持ち主の許しなく、触れるな。
父の声だった。父自身の声が、王冠の中から聞こえる。父の手がびくりと止まる。
指輪がしゃべる。持ち主の許しなく、歩くな。腕輪がしゃべる。持ち主の許しなく、眠るな。どれも父の声だ。
卓の上の飾り紐が蛇のようにほどけて、父の両手首に巻きつく。
朕のものだ。朕のものだ。
父は叫ぶ。紐を引きちぎろうとする。紐は引けば引くほど締まる。
お前がこちらのものだ。
王冠が父の声で言う。
お前がこちらのものだ。
――右手の布札が熱くなった。
熱が腕を上り、胸を通って、左手の首飾りへ流れていく。首飾りのところでファルの手から、深くて静かなものが流れこんでくる。二つが混ざって、膨れ上がる。
前の儀式と同じだった。
同じではなかった。
膨れ上がったものが、首飾りの石の中で何かに触れた。石の奥の暗いところ。三日前に吸い戻して、降り積もったもの。その、さらに奥。
誰かの指が見えた。
細い女の指だった。爪が短く切りそろえてあって、指先がひび割れている。その指が、首飾りの留め金を留めていた。
この首飾りの、留め金だった。
指は留め金を留め終えると、鎖をなぞって、石の上で止まった。石をそっと包んだ。
ここなら、と、誰かが言った。
声はそれだけだった。
オルティーネの右手から、熱がすうっと抜けた。手の中から、まっすぐに遠いところへ。
目を開けた。
ろうそくの火が揺れていた。左手は、まだファルの手の下にあった。
「届いた」
頭の上で、ファルが言った。
「……何か、見たか」
オルティーネは天井を見上げたまま、しばらく黙っていた。
「留め金を留めてた」
「留め金?」
「女の人の指が、この首飾りの留め金を留めてた。それでここなら、って」
ファルの手がオルティーネの手の上で、わずかに動いた。
「ここなら」
「それだけ。声はそれだけ」
ファルは何も言わなかった。重ねた手を離さなかった。
ろうそくの芯がちりっと鳴った。
やがて、ファルの手がゆっくり離れた。身を起こして、部屋の隅の毛布のほうへはっていく気配がした。
オルティーネは仰向けのまま、首飾りを胸の上で握った。
石は温かかった。
ろうそくが一本、燃えつきて消えた。部屋の隅が少しだけ暗くなった。
「ファルさん」
オルティーネは天井に向かって言った。
「起きてる?」
部屋の隅で、毛布がこすれる音がした。
「起きている」
「三日ごとに見に来るって、郭の人たちには、何て言って出てくるの」
しばらく、返事がなかった。
「父には言ってある。ほかの者には、王宮の書庫の写しを手伝いに行く、と」
「うそじゃないの、それ」
「今日は本当に帳面を写した」
オルティーネは声を立てずに笑った。
「郭って、どんなところ?」
「……どんな、とは」
「子どもの声がしたわ。わたしが行ったとき。笑ってる声」
毛布がまた少しこすれた。
「郭には、子どもが多い。門の脇の石に置かれて、拾われた子どもだ。俺が知っているだけで、百人はいる」
「ファルさんもそうなの?」
「俺は郭で生まれた」
ファルの声はいつもと同じに低くて、抑揚がなかった。
「子どもたちは夜になるとよく泣く。病の子もいるし、たださみしくて泣く子もいる。世話係の手が足りないときは、俺も抱いて歩く」
「ファルさんが?」
「下手だと言われる。抱き方が荷物を運ぶようだと」
オルティーネは、ファルが泣いている子どもを両腕で抱えて、廊下をまっすぐ歩いていく姿を思い浮かべた。弟の前で片膝をついたときの、ぎこちない動きを思い出した。
「わたし、教えてあげようか。弟で慣れてるから」
部屋の隅が急に静かになった。
毛布のこすれる音もしなかった。息の音も聞こえなくなった。
「……抱き方をか」
「子どもの抱き方よ。今度、郭の子に会ったときのために」
「……そうか」
ファルの声は、ほんの少しだけ裏返っていた。
オルティーネは首飾りを胸の上で握ったまま、目を閉じた。
ここなら、と言った声のことを考えた。ひび割れた指のことを考えた。それから、明日の朝、父の手首をもう一度つかまなければならないことを考えた。
考えているうちに、眠っていた。
オルティーネの寝息が聞こえはじめると、ファルは身を起こした。持ってきた毛布を広げて、そっとオルティーネにかけた。




