首飾りを差し出せ(4)
布札を二つに切ったのは、ファルだった。
台所の小刀で黄みがかった麻布を、王家の紋のちょうど真ん中から縦に裂いた。炎の上に冠が載った紋が、左右に分かれた。裏の墨書きも二つに分かれた。片方には「持ち主の許しなく」が、もう片方には「開くべからず」が残った。
「お父様のそばには、どっちを置くの」
「どちらでも同じだ」
「じゃあ、こっち」
オルティーネは、「持ち主の許しなく」のほうを取った。
「明日の朝の検分の目録って、お父様はいつ見るの」
「宝物方の者の話では、今夜のうちに寝所へ届けられる。陛下は寝る前に、寝台の脇で目録を確かめる習慣があるらしい」
「寝る前に一つずつ数えるのね」
ゲルダの話が耳に残っていた。自分の持ち物を夜、一つずつ数える少年。
オルティーネは布札の片割れをマグダに渡した。
「目録の紐に結べる?」
マグダは布札を両手で受け取った。今度は前掛けでくるまなかった。四日前に石を運んだときのように、指先が震えてもいなかった。
「目録は、宝物方から侍従が寝所へ届けます。届ける前に、いったん控えの間の卓に置くんです。わたし、今夜もお寝間の世話番の手伝いに入れます。紐の結び目にこう、目立たないように」
マグダは布札の紐の端を、自分の指に巻きつけてみせた。
「結べます」
「無理はしないでね」
「姫さまの首飾りを取り返しに行くより、ずっと楽です」
マグダは少しだけ笑った。それから布札を前掛けの隠しにしまって、出ていった。
日が暮れる少し前に、衣装方の女官が黒と紫の服を返しに来た。手入れが済んだのだ。胸元の鎖がこすれた跡は、細い黒糸できれいに繕ってあった。オルティーネは繕い目を指でなぞって、女官に礼を言った。女官は、王女に礼を言われたことにびっくりしたような顔をして、何度も頭を下げて帰っていった。
衣装方の女官と入れ違いに、小さな足音が菜園の小道を駆けてきた。
「姉上!」
戸口に、エーベルベインが立っていた。
頬がまだ少し赤い。熱が下がったばかりなのだろう。礼服ではなく、ふだん着の上に厚い毛織りの上着を着せられていた。ずっと後ろのほうで、付き人の侍従が、息を切らしながら追いかけてきていた。
「エーベル。もう起きていいの?」
「熱はゆうべ下がったよ。侍医が少しなら歩いてもいいって」
弟は台所に駆けこんできて、オルティーネの腰に抱きついた。オルティーネは弟の額に手のひらを当てた。まだ少し温かかったが、もう熱くはなかった。
「姉上、知ってた? 父上が戦をやめたんだって」
「知ってたわ」
「ぼく、行かなくていいんだって」
弟は顔を上げて、にっと笑った。前歯が一本、抜けたあとにまだ生えそろっていなかった。
「姉上の言ったとおりだった。『行かないわ』って」
オルティーネは、弟の髪をくしゃくしゃとなでた。熱で寝ていたせいで、後ろ頭の髪が一束、ぴんと跳ねていた。それを指で押さえつけて、ついでに上着の襟も直した。弟は、くすぐったそうに首をすくめた。
それから、弟は食卓のほうを見て、ぴたりと動きを止めた。
ファルが椅子から立ち上がっていた。
ファルは背が高すぎた。台所の梁に頭がつかえそうな男が、紫の長衣を着て、無表情に自分を見下ろしている。弟はオルティーネの腰に抱きついたまま、そろそろと姉の後ろに隠れた。
「姉上。あの人、だれ?」
「紫の文官さんよ。帳面のお手伝いに来てくれてるの」
「……おおきいね」
ファルはしばらく弟を見下ろしていた。
それからゆっくりと片膝をついた。床に膝をついて、弟と目の高さを合わせた。その動きは、ひどくぎこちなかった。一度、長衣の裾を膝で踏んで、体が傾きかけた。
「ファルだ」
ファルは言った。
「……書き役をしている」
弟は姉の後ろから半分だけ顔を出して、ファルを見た。ファルの目をじっと見た。
「ぼく、エーベルベイン」
「知っている」
「どうして?」
ファルは少し考えた。
「王子の名前は書き役ならみんな知っている」
弟はなるほど、という顔をした。それから、姉の後ろから出てきて、ファルの前に立った。ファルの長衣の袖を、指でつまんだ。銀糸のふち取りを、ふしぎそうになぞった。
ファルは動かなかった。袖をつままれたまま、片膝をついた格好でまばたきもしなかった。
「エーベル、もう戻らないと。侍従が待ってるわ」
オルティーネが言うと、弟は名残惜しそうに袖から指を離した。
「姉上、また来てもいい?」
「熱がちゃんと下がったらね」
弟は戸口で一度ふり返って、ファルに小さく手を振った。ファルは片膝をついたまま、少し遅れて、手を上げかけた。上げきる前に弟はもう侍従に手を引かれて、菜園の小道を戻っていくところだった。
ファルは上げかけた手をゆっくり下ろした。
立ち上がると、ファルは自分の長衣の襟を指で確かめた。オルティーネは弟の後ろ姿を見送りながら笑った。
「あの子、すぐ髪が跳ねるの。何度直しても」
ファルの指が襟から離れた。
「……弟君は、あなたによくなついている」
「熱が下がって、うれしいのよ。今日はずいぶん走れたわね」
オルティーネは戸を閉め、かまどへ戻った。ファルも食卓の椅子へ戻ってきた。
夕飯は豆の煮込みだった。
ゆうべから水に浸しておいた豆を塩漬けの脂身と、玉ねぎと、にんじんの残りと、香草の束といっしょに煮た。豆はかまどの上で一刻煮ると、指でつぶせるくらいにやわらかくなった。
ファルは木のさじで一粒すくって、じっと見た。
「これが別のか」
「三日後のお楽しみ、って言ったでしょう」
ファルは豆を口に入れた。
かんだ。
もう一度、かんだ。
それから、何も言わずに、二さじ目をすくった。三さじ目をすくった。器の底が見えるまで、一度も顔を上げなかった。
中身のなくなった器をファルは食卓に置いた。置いてから、器を見下ろしたまま、ぽつりと言った。
「豆は郭でも食べる」
「うん」
「同じ豆とは思えない」
食卓の端で、マグダが自分の器を両手で抱えたまま、くすっと笑った。笑ってから、慌てて口を押さえた。ファルがマグダのほうを見た。マグダは器に顔を隠すようにして、豆を口に運んだ。
「郭の豆はどうやって煮るの?」
「水と塩で豆がつぶれるまで」
「それだけ?」
「それだけだ。千八百人分を大鍋で」
オルティーネは、郭の大鍋を思い浮かべた。千八百人分の塩だけの豆。
ファルの器を取って、おかわりをよそった。
◇
目録は、思っていたよりも分厚かった。
マグダは王の寝所の控えの間で、卓の上に置かれた目録を見下ろしていた。宝物方から届いたばかりの目録だった。厚い紙を二十枚ほど重ねて、背を細い麻紐でとじてある。紐は表紙の上で二重に巻かれて、蝶の形に結んであった。
控えの間には、マグダのほかにもう一人いた。目録を届けに来た侍従だった。若い男で卓の脇に立って、寝所の戸のほうを気にしていた。陛下が湯からお戻りになったら、目録を寝台の脇の卓へ運ぶのが、この侍従の役目らしかった。
マグダは、前掛けの隠しの上から布札の片割れを押さえた。
侍従がいるあいだは結べない。
マグダは控えの間のろうそくの芯を切ったり、水差しの水を替えたりして時間をつぶした。手を動かしていないと、膝が震えそうだった。侍従は卓の脇から動かなかった。寝所の戸のほうを見て、目録を見て、また戸のほうを見た。
廊下の奥で、湯殿の戸が開く音がした。
侍従がはっとして目録を取り上げようとした。
「あの」
マグダは思わず声をかけた。
侍従が目録に手をかけたまま振り向いた。
「陛下のお寝間の枕の具合を見ていただけませんか。わたし、この前整えたんですけど、陛下が高すぎるとおっしゃって。殿方の手で押さえていただいたほうが、ちょうどよくなるかと」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。陛下は、枕のことなど何もおっしゃっていない。
侍従はちょっと困った顔をした。けれど、寝所の戸のほうを見て、うなずいた。
「すぐに」
侍従は目録を卓に戻して、寝所の中へ入っていった。
マグダは、前掛けの隠しから布札を取り出した。
指が震えた。布札の紐の端を、目録の麻紐の結び目にかけようとして、二度しくじった。三度目で、紐の端が結び目の輪にくぐった。マグダはその端を一回、二回と巻きつけて、きつく結んだ。布札は目録の背の麻紐の結び目の陰に、ちょうど隠れるようにぶら下がった。
王家の紋の片方が、目録の背で小さく揺れた。
持ち主の許しなく。
裏の墨書きの、半分だけの言葉がマグダの指先に触れた。
寝所の中から侍従が戻ってきた。
「ちょうどよいようでしたが」
「ありがとうございました。わたしの思い違いでした」
マグダは頭を下げた。頭を下げたまま、目録が侍従の手に取り上げられ、寝所の中へ運ばれていくのを見送った。
顔を上げると、控えの間には、もう誰もいなかった。
マグダは卓の端に両手をついて、長い息を吐いた。それから、ろうそくの芯をもう一度切った。さっき切ったばかりで、切るところなど少しも残っていなかった。
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noteに解説記事も置いてあります:https://note.com/ten_division/n/n804584159471




