第二十五話【彼女にとって、その日常は】
運命を仕組まれたあなた。
生きる道を血の染みた鉄格子で囲われたあなた。
その道をただ真っ直ぐに歩くあなた。
道中に咲く小さな花を見落とさず拾い上げるあなた。
——そんな生き方が、私にもできたなら。
✤✤
『ご命令をどうぞ』
目の前にいたのは、小太りな男。
息は荒く、額に汗を滲ませ、高揚した顔でこちらを見ている。
腕を引かれる。指示もないまま、投げられた先は寝具の上だった。
ああ、なるほど——今までの統計の末、この先何をすべきかは明確だった。
男が覆い被さる。
灯りが消え、その荒い息が耳元で囁かれる。
『ああ、大枚をはたいて正解だった……さあ、今夜はじっくり付き合ってもらうぞ』
男の手が、私の肌に触れた。
✤✤
——規則的に目を覚ます。
人は皆、目覚めた直後は眠気があるというが、私は感じない。
シーツを直して、服を着替える。
顔を洗って、朝食の支度をする。
いつも通りの日常をいつも通り過ごしていく。
しばらくすると、ゆっくりとした足音が近づいてくる。
「……おはよう、メルディー」
「おはようございます母様。今日は自力で起きられたのですね」
「朝食の、いい匂いがしたのでな……」
目を擦ってあくびをする母様。
理由はどうあれ、自力で起きたのは素直に褒めておかなければなりません。
一際赤く色づいているヤッカの実を、一粒多く母様の器に盛り付ける。
「ソルは、今日も起きて来んのか」
「そのようですね。朝食を食べたら、伺いに行ってきます」
「全く、メルディーのご飯は出来立てが一番だというのに。勿体無いやつよ」
一人分の朝食が盛られたお皿に布をかけ、残り二人分の朝食を食卓へ並べた。
注いだ紅茶の湯気が香りと共に香る。
朝食を食べ終え、食器を片付ける。
その際、書斎に向かう母様からありがとうと労いの言葉をいただきました。
そして、食卓にポツリと残された一人分の朝食をお盆に乗せ、とある部屋へと向かった。
その部屋の主は、三年前に母様が突如拾ってきたソルという赤髪の少年。
一ヶ月前、学園から帰ってきたかと思えば、夕飯も食べずに暗い部屋でベッドに沈んでいた。
この一ヶ月間、母様や私が呼びかけても空返事ばかり。
ドアの前に食べ物を置いておけば、一時間後には空になって置いてあるため、どうやら食欲はあるらしい。
(サマースクールに突入したというのに、何かあったのでしょうか)
そんな中、学園はサマースクールという夏季に行われるプログラムへ突入した。
夏季の一ヶ月間、生徒は学園に泊まり込み、秋頃に控える期末試験や星神術者昇級試験のための特訓を行うのだ。
その前段階として、サマースクール最初は一週間の休学期間なのである。
家族との親交を深めるもよし、夏季特訓に向けて自身と見つめ合うもよし。
予定は人によって様々だが、私は大抵いつも通りの日常を過ごしている。
一、二年の頃は母様に特訓をしてもらっていたこともあった。
(今年は特にやることもありませんし、ソルに何かしてあげられればいいのですが)
そのためにもまず、そろそろこの部屋から出てきてもらわなければ。
そう思い、何度も呼びかけるが声は返ってこない。
「……寝ているのでしょうか。ソル、入りますよ」
ドアノブを握れば、簡単にドアは開いた。
「寝ているのですか? もういい時間ですし、そろそろ起きては……」
暗い室内。私はその異質さに、足を止めた。
陽が差し込んでいるはずの窓は大きな布で覆われ、その布は何かで壁に貼り付けられている。
物は散乱し、机の上にはいくつもの本が無造作に開かれている。
その横には、書き殴った文字が書かれた大量の紙と溢れたインク。
何が彼をそこまで追い込んでいるのか、私には分からない。
何せ、私は人の心を持ち合わせていない。
だから、ベッドでくるまっている彼に何を言えばいいのか分からない。
けれどもこの声が確かに届くように、ベッドの側に腰を下ろした。
静まり返った部屋では、小さく彼の吐息が聞こえた。
「ソル……私は、あまり人の機微が分かりません。ですから、言っていただかないと知り得ないこともあるのです。あなたが何に傷つき、悩んでいるのか。私に教えてはいただけませんか」
もぞ、と白いシーツが動いた。
そこから小さく、赤い瞳が見えた。
「この一ヶ月、あなたのご友人が何度も私の元に訪れてくれました。『ソルは大丈夫ですか』と。クオールさんとリレールくんと言いましたか。それから、アルナさんとスピネルさん」
学園が休みに入って早数日。図書館や運動場で彼らが励む姿を見た。
ソルはいい友人を持てたと、私は嬉しく思いました。
「ああ、アルナさんから伝言も預かってきましたよ。『お姉ちゃんの紹介でユウハちゃんと色々お話をしたよ。ユウハちゃんも寂しがっていたから、今度はソルくんも一緒に行こう』だそうです。詳しいことは分かりかねますが、あなたが知らぬ間に多くの人と出会っていたこと……そしてその繋がりが温かいものであること、それが私には誇らしい。あなたはどうですか、ソル」
二つの赤い瞳が細められた。
次第にシーツが捲られ、赤い髪も顔を出す。
(酷いクマ……ちゃんと寝れているのでしょうか)
言葉を待つ。
日が沈んだように暗い影を落とす赤い瞳は、壁と私とを往来しやがて一点を見た。
「……お前は、知ってたのか。【冥】の属性のこと、蘇生術のこと……転生の儀のこと」
やっと発した言葉は重々しく、覇気がなかった。
それでも。彼の思いはそんな弱々しいものではなかったらしい。
起き上がった彼は、深く息を吸って言った。
「いや、知ってたんだどうせ。聞いたぜ、メルディーお前、準1級なんだってな。そんな奴が創星術について無知なわけがねえ……ああ、そうだ。ずっとそうだったんだ。お前もミルキールも、俺がなんとかして掴んだことを当たり前みたいに知ってる。今回も、そうなんだろ? 知ってて、何も言わねえ……どいつもこいつもそうだ。どうしてなんだ。なんでなんだよ」
シーツから顔を出した彼は、髪をグシャグシャに掻き毟った。
母様でしたら、彼の言っていることを全て理解できたのでしょうか。
そう思えて仕方ない。
「俺は、俺はなあ……本当はずっと、嘘じゃないかって思ってたんだ。向こうで俺はちゃんと生きてて、次、目が覚めたら……また、あの日常に戻れるんじゃないかって。母さんや父さん、何より……俺を好きだって言ってくれたあいつと、今度は……!」
それはきっと、彼が望んでいた日常なのだろう。
彼は言った。掠れた声で、ぐしゃぐしゃに目元を泣き腫らしながら。
「なんで俺だったんだ……! 意味なんてなかったじゃねえか! 心のどっかで、俺が特別なんだと思ってた……けど、そんなこと、一ミリもなかった。そうだ……はじめから、俺であることに意味なんてなかったんだ。それを俺は、分かってなかった」
「……私は、あなたと出会えて嬉しかったですよ。私に出会ってくれたのが、あなただったから意味があるんです。あなただったから、私はあなたのように生きたいと思えたんです。ほら、お友達の顔を思い出してください」
訳が分からないといった彼の様子は、年相応の表情をしていた。
「その顔は悲しそうですか? それとも笑っていますか? 私はそれが後者であると確信を持って言えます。なぜなら、それが答えだからです。泣いても、落ち込んでもいいのです。けれど、それを一人で抱えないでください。私にあなたを教えてください。私はあなたを、ただ知りたいのです」
きっと、ここにいたのが母様だったら、みっともないと一蹴して終わっていたかもしれません。
けれど、私にはそんなことできません。
だって私は人の心を知らないから。ぞんざいな態度で接することはきないのです。
何せ、こうやって泣き喚くことも人の心が生んだ営みなのですから。
✤✤
目の前に広がるのは、広大な青い空。
聞こえてくるのは人々の賑やかな声。
薫ってくるのは鼻腔をくすぐる匂い。
「買ってきましたよ、ソル。ヤッカの実の果物焼きです。食欲がない時でも食べられるでしょう」
「お、おう」
そう言って手渡された一本の串焼き。
ふわりと香る匂いは、確かに食欲をそそるいい匂いだ。
試しに一口食べてみる。
「……うまい」
果物のとろっとした甘味とヤッカの実の歯応えがちょうどいい。
(……っていうか、なんで俺こんなことしてんだよ。さっきまでメルディーの前でみっともなく喚いてた気が……)
もしや、あれが夢でこっちが現実だったのか?
周囲には露店が並び、どう見比べても薄暗い俺の部屋とは似つかない。
そうだ、やっぱりあれは夢だったのだ。
メルディーの前でみっともなく泣き喚くなんて、俺の名誉が保つわけ……
「これで少しは落ち着けましたか?」
はい。俺の名誉は砕け散りました。
どうしてこうなった。それに尽きる。
俺が何か悪いことをしたってのか!?
……したな。がっつり一ヶ月不登校だったな。
とはいえ、隣で同じように串焼きを食べるメルディーは、そんなこと気にしていないような顔だ。
しかしまあ、この一ヶ月メルディーとミルキール……特にメルディーには迷惑をかけっぱなしだった。
「……その、悪かった。この一ヶ月、声かけに来てくれてたのにロクな口も聞かねえで。飯も、昼の分まで用意してくれてて……正直助かった。ありがとう」
「礼など結構です。いつも通り起き、朝食を作り、学園へ通う……そんな日常が今の私に与えられた命。平凡なように見えて、一番移り変わりの激しいものが日常です。あなたが来た日から、移り変わった日常は、いつの間にか何て事ない”いつも通り”へと変化していたのですよ」
嬉しそうに空を見上げて語るメルディー。
その言葉は聡明な彼女らしい物言いで、俺には全てを理解することはできなかった。
けれども彼女が楽しそうである、ということだけは理解できた。
「なんか、今日は饒舌だな。こんなに美味かったのか? これ」
「そうですね……これが美味しいのも確かですが、この程度の味付けなら私にも再現ができそうです。ですが、私は再現し難いこの一時が要因だと思うのです」
「お前なあ、そういうことは店前で言うなよ。そこは素直に、『たまの外食も悪くねえな』でいいんだって」
「ふふふ」
何がおかしいのやら。
一瞬目を丸くしたかと思えば、メルディーはクスクスと笑い始めた。
そんな面白いことを言った覚えはないのだが。
「さ、そろそろ次へ向かいましょうか」
「次? まだどっか行くのか?」
「ええ。せっかくの休日です、あなたに【土の街】を案内して差し上げます」
「また急だな……というか、メルディーが学園以外で屋敷の外を歩くってあんま見ねえ気がすんだけど」
「……それはまあ、色々と事情がありまして。母様から外出は極力控えるように言われていたのです。ですけど、今回は特別ゲストも一緒ですし問題はありません。見てください! 母様に提案した観光ルートです! 自信作ですよ」
自信満々に、目の前で広げられたのは一枚の地図。
これは……【土の街】の全体図だ。
そこには赤いインクで線やら文字やらが書き込まれている。
今日訪れるルートを示しているみたいだ。
「つかこれ、端から端じゃねーか。確かこの街って、この国で一番広いんだろ? 一日で回り切れるのかよ」
「まさか。この街を回り切ろうと思ったら数日はかかります。なのでこの4日間は時間厳守。それにこの一ヶ月で怠けた体を夏季特訓までにほぐすのですよ。今日はとことん歩くので覚悟してください」
「えぇ〜、しかも歩きかよ……」
ま、この一ヶ月は俺に付き合ってもらったのだ。
数日くらい付き合ってやらないと、それこそバチが当たると言うもの。
そうして俺は、サマースクール二日目にして、メルディーと共に【土の街】を巡る傷心旅行へと出かけたのだった。




