第十八話【課外授業Ⅲ[正義という綺麗なもの]】
——助けないと、助けないと、助けないと、助けないと、助けないと。
俺の脳にあったのは、ただそれだけ。
任務だとか、義務だとか、恐怖だとか、不安だとか……そんな、ごちゃごちゃした感情はない。
「う、ぅあー、あ」
今もなお、目の前で歪な声を発し続ける少女を——助けないと。
目の前の光景から動けずにいる俺の横でエイナさんとリレールが周囲の確認をしていた。
「この子は一体……いえ。それよりも他には何もないわよね? あんたたち、何か異常はない?」
「僕らは平気です。でもこの子……犯人、なんでしょうか」
「関係は、あるんでしょうね。特徴とも一致してるし」
エイナさんは刀を地面に置いて、陣の前で膝を折った。
近づいた彼女の松明の明かりが、さらにそれを照らした。
血で描かれた術の陣が、濃い影のように地面に染みている。
「ねえあなた、名前は? 言える?」
少女に向かって話しかける。目の前で手を振ったり、目線を合わせたり。
だがしかし、少女は虚な瞳で「ぁ……あぅ、あー」と意味のない音を発し続けるだけ。
(これが、儀式を失敗した代償……)
俺が辿っていたかもしれない、末路。
それが今、目の前の現実として輪郭を持っている。
俺にとっては、その事実だけで十分だった。
「……ダメね。理由は知らないけど、この周囲にある陣からして何らかの術に失敗した影響ね」
「どうするの、この子」
「ひとまず協会に引き渡すわ。犯人の最有力候補ですもの。この街の術者や国務機関の連中が血眼で探してるでしょうから」
保護ではなく、引き渡し——その言葉が、俺の体を震わせた。
(星神術者協会……それに国務機関。冗談じゃねえ、あんな連中がこの子の存在を知ったらどうするかなんて……火を見るより明らかじゃねえか。俺が一番それをよく知ってんだ)
3年経った今でさえ、ふと思い返すことがある。
あの壇上でスベギライスさんが助けてくれなかったら、俺はどうなっていたのだろうかと。
訳も分からずこんな世界に飛ばされて、大切な人たちが一晩で消えて。あまつさえ、その罪が俺にあると嘲笑された。その時の絶望を、恐怖を——俺は知っている。
(あいつらはきっと、この子に罪をなすりつける。子供だろうが、被害者だろうが……そんなの関係なく)
誰も助けようなんて言わない。誰もこの子が犯人であると否定しない。
どうしてだ。どうして、現実はこんなに無慈悲なんだ。
「……違う」
「ソル?」
「……助けないと」
「助けるって、こいつをか? そりゃ、意識も朦朧として話を聞くどころじゃないだろうけど……」
クオールは俺とその子を交互に見る。
眉を顰めたその表情は、疑念を含んでいた。意図を探るような彼女の瞳と目が会う。
(どうしてそんな顔をする? 俺が間違っているって言うのか?)
リレールも、スピネルも、アルナちゃんも、エイナさんも。
みんな、みんな、同じ顔をしている。俺だけが異物であるように、俺がおかしいかのように。
よろよろと、力のない足が無意識に動く。立ち止まった先で見下ろしたのは、項垂れる少女。
光の宿っていない瞳に、不揃いな毛先。青白い肌に、意味もなく音を発する口。
その全てが告げている。この儀式の惨たらしさを。世界の醜さを。
「……協会に引き渡して、この子はどうなる? ありもしない罪をなすりつけられて、訳もわからないまま裁かれるのか? そんなのおかしいだろ。それを分かってて見捨てるなんて……俺にはできない」
「何言ってるんだ、ソル? どうしてお前、そんな……」
俺にとっての明確な理由は、皆にとっては疑念の材料にしかならないらしい。
咎めるようなエイナさんの鋭い声が洞窟に響く。
「バカなこと言わないで。そりゃ、一時的なケアは必要でしょうけど、この子は犯人の可能性が高いのよ? 何百という人間を殺した、殺人鬼。見なさい、この桃色の髪と青い瞳を。血で描かれた陣形を。それが何よりの証拠でしょう」
「——違う! そんなんじゃ……これは、違うんだ……!」
言葉が、喉の奥でつっかかる。
言いたいのに言えない、そのもどかしさを。俺は無意識に拳を握った。
(転生の儀を知ってるなんてバレたら……ミルキールやスベギライスさんたちの苦労が無駄になる。それだけじゃない、下手すれば俺の全てが……母さんたちの思いまで、また否定される)
自分の全てを投げ打ってでも、この子を助けたい。けれどそれじゃ意味がない。
俺に賭けてくれた人の恩を、願いを、祈りを無駄にすることになる。
俺はグッと口をつぐんだ。だがそれがかえってエイナさんの逆鱗に触れたのか、彼女は呆れたように言った。
「違う? 何を根拠に……あんたはどうせ、くだらない正義感で傷ついているその子に同情しているだけでしょう」
彼女の視線が、鋭く突き刺さる。軽蔑の色が混じった、憎しみの色。
(同情? 当たり前だ。もしこの子が俺と同じなら、一番この子を理解してあげられるのは俺だ。俺しかいないんだ。俺しか、助けられないんだ)
この子にはまだ温もりがある。
抱き抱えた頭は小さくて、その体はか細い。
わずかな呼吸が、確かにここにいると示している。
(俺だけが知っている真実。
俺だけが分かっている現状。
どう言えばいい? どう示せばいい?
どうすれば、この子を助けられる?)
答えの出ない問いを自問する。グルグルと思考が巡り、考えがまとまらない。
そんな俺の様子がどんなふうに見えたのか、彼女はため息をついて言った。
「皮肉なものね。一番憤りをあらわにしてたアンタが、それと真逆の行動をとるなんて。中途半端なのよ、あなたの正義感は。どちらも助けたいという思いが先行して、結局動けずにいる。覚悟も何もない、口だけの半端者——そこを退きなさい。これ以上駄々を捏ねるようなら、力尽くでやるわ」
オレンジ色の光が、目の前で反射した。
いつの間にか、彼女は刀身を抜いていた。鋭く、鮮烈に光る切先が目の前にあった。
一触即発の雰囲気が肌を撫でる。何人かが止めに入ろうとするが、彼女の圧倒的な迫力に動けずにいる。
「……どうとでも言えばいい。なんと言われても、俺は絶対に引かない。どんなに傷ついたって、この命が続く限り俺は俺の使命を果たすと決めてんだ。これが正しいことだと、俺は知ってるから」
「っ……世間知らずが! 何かあってからじゃ遅いのよ! 使命だろうが何だろうが、それは何も失ってないから言える世迷言よ!! この世界はね、アンタが思うほど綺麗なものじゃない。誰かを傷つけないと、自分も……大切な人さえも守れない。それが現実! 自分が正しいかなんて、結果でしか示すしかないのよ!」
「お姉ちゃん……」
苦しげに、彼女の顔が歪んだ。向けられた切先が、わずかに震えていた。
その葛藤も苦しみも、俺は知らない。知らないのに、彼女の中に宿るわずかな光が鈍るのを見ていた。
✤✤
これは、なんという言葉だっただろう。
夜巡隊——それは、日の当たらぬ夜さえも人々を守るために動くと名付けられた、組織の名。
人のため、世のためという願いを叶えられない人々が縋る、最後の砦。
かと言う私もその1人。
妹とは違い、私は生まれつき人より星神力が少なかった。
それでも、人のためにできることを諦めなかった。それしか、分からなかった。
だから、人のためになると、そう信じて多くの任をこなしていった。
「……えっと、今、なんと?」
「——だから、今度の任務はこの人物の暗殺だ」
とある、冬の日。
私は一つの任務に駆り出された。夜巡隊の第四部隊に就任して、約半年。
指示された任務は、暗殺。
殺しを命じられた人物は、【木の街】の助祭。司祭や助祭長の目を盗み、違法植物を売買していた。
星神術協会が取り締まるのは、涜神者のみ。こういう汚れ仕事は私たちの役目だった。だからいつまで経っても夜巡隊の地位は変わらないし、陽の光を浴びることもない。
「……それが、本当にこの世界のためなんですか」
「何?」
「罪を裁かず、償わせもせず、ただ一方的に処分する。それじゃいつまでも間違いを正せない! この世界は変わらないじゃないですか! 先輩は、それでいいんですか!?」
「……エイナ、君は少し勘違いをしている。我々にその権利はない。我々が持ちうるのは、この力を持って闇を振り払うことだけ。この世界を正すのは、我々ではない。我々は守るためにいるのだ」
守る? 一体何を、何のために?
守るのは正義じゃないの?
正しさのために、戦うんじゃないの?
私の力は、誰かの命を奪うためにあったの?
その自問は、あまりにも浅はかだった。正義の意味さえも知らない若輩が、自身の信念が正しいと意地を通したいだけの暴論だ。
正義は、生きてこそ証明される。
正義は、生きている人のためにある。
正義は——きっと。
「……どうして」
目の前の血溜まりが、私に現実を突きつける。
それは甘い理想だと。お前が目を背けていたものは何なのかと。
先ほどまで、共に笑い合っていた同僚が、今は血まみれで地に伏している。
それをした張本人は、高笑いを浮かべている。
「助かったぞ小娘! 貴様らのような三流に命乞いをした成果はあったというわけだ!」
命だけは、と男は言った。切先が首筋に触れる一瞬に流した涙を見てしまった。
仲間は、ためらうなと言った。でも私は、それを信じてしまった。
——これのどこが、正義だっていうの。
私のせいだ。私のせいだ。私のせいだ……私の。
自分の夢ばかり見て、現実を何も見れていなかった。
それがこの代償だった。
『この世界を正すのは、我々ではない。我々は守るためにいるのだ』
彼の言うことは正しかった。
勘違いをしていたのは、私の方だった。
私は間違えていた。
「——ははは! ただの助祭だと侮ったな!? ハッ! 本気を出せば造作もない! 貴様もここで終わりだ! 夜巡隊!!」
意識した時には、すでにこの足は地を離れていた。思いの外、身軽に跳べた。
——刀を振るう。鮮血が舞う。大きくなっていく血溜まりを、私は見下ろしていた。
(私が守るもの……守らなければ、ならないもの)
この血に塗れた手で守れるのは、そう多くない。
少なくとも、正義などという曖昧なものを守るためのものではないことは理解した。
それが、現実なのだと——理解した。
——だからこそ。今こうして、自身の前に立ちはだかる少年が煩わしくてたまらない。
かつての自分と同じ、甘い幻想を抱いていた愚か者。
そこにある脅威を、脅威と認識せずに信じている。
裏切られることも知らず、そこに正義があると信じて。
(ああ、なんて忌々しい……)
怒りのせいか、力みすぎた刀が震える。
(落ち着け……こんなことをしたって意味はないのよ。今すべきは、理性が戻る前に犯人を確保すること)
深く息を吐いて、その分だけ空気を吸う。
ああ、ここが洞窟でよかった。冷えた空気が私の頭を冷やしてくれる。
「……渡しなさい」
「いやだ」
「……分かった。その子の安全は保証してあげるから、だから今は」
口八丁、手八丁で騙しなさい。
たとえ恨まれることになろうとも、今の私が選択できる最善を。
「——そうそう。そいつを渡してよ。そしたら、君たちの安全は保証してあげるからさぁ」
知らない、誰かの声。無邪気さを纏った、子供の声。
皆の視線がその声の方向へ注がれる。
——そう、私の中にある選択肢。
私が取れる選択肢。
その最善を、私は選びたかった。
入り口から姿を見せたのは、桃髪に青い瞳をした——少年だった。




