第8話:退職届と、社畜脱出のセレモニー
1
翌朝、午前十時。
私は一週間ぶりに、自分が勤めていた貿易会社『東洋マテリアル貿易』のビルを見上げていた。
薄暗いオフィス街にそびえ立つ、築四十年のくたびれた自社ビル。
数日前までの私なら、この玄関をくぐるだけで胃がキリキリと痛み、足が鉛のように重くなっていたはずだ。
だが、今の私は違う。
ハイブランドの仕立ての良いスーツを身にまとい、足元には高級ハイヒール。手元には高級レザーのアタッシュケース。そして懐には、三億円を超える資産と、脳内の『無限の貿易倉庫』。
「よし……行きますか」
「お姉ちゃん、顔が完全に討ち入りに行く武士だよ」
隣に立つ容子も、同じくデザイナー時代の安月給に別れを告げるべく、自分の勤め先(こちらもブラックな中堅アパレル会社)へ退職届を出しに行く直前だった。
「容子、健闘を祈るわ。終わったら銀座の回らないお寿司屋さんに集合ね」
「了解! 暴れまくってきてね、お姉ちゃん!」
容子とハイタッチを交わし、私は悠々とビルの中へと足を踏み入れた。
2
「——おい琴陵! 無断欠勤同然で有給取って、連絡も寄こさずに何をしてたんだ!」
オフィスのドアを開けるなり、怒号が飛んできた。
声を張り上げたのは、私の直属の上司である課長の武藤だ。五十代半ばの肥満体で、部下の業績を自分の手柄にし、失敗はすべて押し付ける典型的な無能上司である。
フロア中の社員たちが、哀れみの視線を私に向けてくる。
「申し訳ありません、武藤課長」
私は一切怯むことなく、むしろ最高に爽やかな営業スマイルを浮かべながら、武藤のデスクへと歩み寄った。
「申し訳ありません、じゃないだろう! お前のせいで海外からのコンテナ手配が遅れて、クライアントからクレームが来てるんだぞ! 今すぐ残業して穴埋めしろ! 今月のボーナスは査定マイナスだからな!」
バンバンとデスクを叩きながら怒鳴り散らす武藤。
普段の私なら「すみません……」と平身低頭し、終電までサービス残業を受け入れていただろう。
だが、今の私は心の底から思っていた。
(ちっさ……)
スケールが小さすぎる。
世界中を一瞬で飛び回り、数千万円のデッドストックや数億円のエメラルドを右から左へ動かしている私にとって、このハゲかけた中年男の怒号など、羽虫の羽音ほどにも響かない。
「武藤課長」
「なんだ! 言い訳か!?」
「いえ。これ、お納めください」
私はアタッシュケースから、白い封筒を取り出し、武藤のデスクの上にスッと滑らせた。
そこには、達筆な文字でこう書かれている。
『退 職 届』
「……は?」
武藤が呆気にとられた顔で封筒を見つめ、次いで私の顔を見上げた。
「たい……退職だと!? ふざけるな! こんな忙しい時期に辞められるわけがないだろう! 後任の引き継ぎはどうするんだ!」
「本日をもって退職させていただきます。未消化の有給休暇もすべて消化扱いにさせていただきますので」
「馬鹿言うな! 急に辞めてお前、次の仕事はあるのか!? どこも雇ってくれんぞ! ウチみたいな寛大な会社を辞めて、路頭に迷うつもりか!?」
哀れな男だ。
世界には、一瞬で莫大な価値を生み出す「本物のビジネス」があることを知らないのだ。
私はふっと笑い、武藤に向かって顔を近づけた。
「ご心配なく、課長。……私、起業しますので」
「き、起業……!? お前みたいなペーペーのOLが起業だと!? 資本金はどうするんだ! 融資だって通りっこないだろうが!」
「資本金ですか?」
私はアタッシュケースのロックをパチンと外した。
そして、わざとフロア中の社員に見えるように、ケースのフタをゆっくりと開けた。
「……ッ!?」
武藤の目が、飛び出さんばかりに見開かれた。
アタッシュケースの中にぎっしりと敷き詰められていたのは、帯が付いたままの新札の束・一千万円分(※昨日、陣内から受け取った小切手を現金化した一部)。
フロア全体が、凍りついたように静まり返った。
「つ、通りがかりの現金を……なぜそんなに……!?」
「私の新しい事業の『準備金』です。……では武藤課長、これまで大変お世話になりました。お体に気をつけて、残業頑張ってくださいね」
私は優雅におじぎをすると、開いた口が塞がらない武藤と、呆然と立ち尽くす同僚たちに背を向け、カツカツとハイヒールの音を響かせてオフィスを後にした。
(——あ〜〜〜〜!! スッキリしたーーーっ!!)
ビルを出て青空を見上げた瞬間、全身の細胞が歓喜の悲鳴を上げた。
社畜生活の終わり。完全なる自由の獲得だ。
3
午後一時、銀座の高級寿司店。
カウンターの奥で、私と容子はウニとトロの握りを口に放り込んでいた。
「んん〜〜〜〜っ! 美味しい!! 高級寿司最高!!」
容子が頰を抑えて悶絶している。
「容子、そっちはどうだった?」
「完全勝利だよ! デザイナーの意地悪な先輩に退職届叩きつけてきた! 『あんたみたいなセンスのない奴、どこに行っても通用しないわよ!』って言われたから、『あ、私もう個人のブランド立ち上げてパリの工房から直接生地買い付けるんで、お先に〜』って言ってやった!」
「最高ね。私たちの第二の人生に乾杯よ」
私たちは緑茶の湯呑みをカチンと合わせ、笑い合った。
会社という「時間の切り売り」から解放された今、私たちの前には無限の可能性が広がっている。
「で、お姉ちゃん。これからどうする? マジで会社つくるの?」
「ええ。完全合法な見かけを持つ、プライベート貿易商社『合同会社クオリア・ロジスティクス』を設立するわ。登記上の代表は私、副代表は容子」
「かっこいい! で、主な取扱商品は?」
「世界中の『入手困難な希少物資』すべてよ」
私は醤油皿にガリを浸しながら、不敵な笑みを浮かべた。
「ヨーロッパの高級食材、中東の希少鉱物、アフリカの伝統工芸品、さらには医療用緊急物資まで。世界のあらゆる『需要と供給の歪み』がある場所へ、私たちは一瞬で現れ、適正なプレミアム価格で潤滑油になるの」
「一人じゃ倉庫、一人じゃドア。でも……」
「ふたり揃えば、現代社会に存在するどんなダンジョン(物流の障壁)も、一瞬で突破できる」
胸の中で、トクトクと力強く脈打つ心臓。
心拍1回につき10円。
私たちの生存そのものが、世界を動かす資金へと変換されていく。
23歳の双子姉妹による、現代魔法ビジネスの伝説。
そのプロローグは終わり、ここから本当の「世界ハック」が始まるのだった。




