第10話
私はアルバートに手を引かれ、研究棟の彼の研究室へ誘われる。
広々とした空間に、本や紙束、実験器具などが雑多に詰め込まれた一室。
その中へ足を踏み入れて扉を閉めるや否や、アルバートは私を壁に追いつめた。
「カリスタ」
後退ろうにも壁と背が触れている私に逃げ場はない。
アルバートの顔からはいつの間にか笑みが消えていた。
彼は真剣な面持ちで私の顔を見つめている。
「どうして俺を避けるんだ」
日頃飄々とした態度を崩さない彼から詰め寄られたのはこれが初めてだった。
彼が怒っている事は明白だ。
そこで漸く私は、彼の中の私が婚約者として嫌々関わっているだけの存在ではないのだという確信を得ることが出来た。
どうでも良い存在であれば、距離を置かれた時点でそれに乗じるだけで良いし、こうしてわざわざ別の建物へ乗り込んでまで呼び出し、理由を問う必要もないのだから。
「……ごめんなさい」
「謝って欲しい訳じゃない。ただ、理由を知りたい」
気を悪くさせた事は間違いないはずだが、彼は感情的になって声を荒げる訳でもなく、私側の事情を聞く姿勢を見せてくれていた。
ならばせめてもの誠意として、彼が望むように、自分の行いの理由を話すべきだろう。
それがたとえあまりに愚かで、くだらないような事であったとしても。
自分が抱いている恐れや弱さを赤裸々に語るのは前世も含めて初めての事だった。
喉に何かがつっかえるような感覚があり、声が震える。
目頭が熱くなるのを何とか堪えながら、私は拙いながらに自分の本音を喉から絞り出した。
「…………貴方から避けられるのが、こわかった」
眼鏡の奥で、翡翠色の瞳がゆっくりと見開かれる。
言葉にした事でこれまで胸の内に秘めていた罪悪感が膨れ上がり、私はアルバートから目をそらしてしまう。
「先に距離を置いたのは私なのに、というのはわかっているわ。けれど、夜会での騒ぎの事があって……軽蔑されても仕方ないと思ったの。婚約も解消されるだろうし、ならせめて、貴方の心が離れていくのを目の当たりにしない方法で、関係を終えたいと思って」
溢れそうになる涙を押し留める為に、目を閉じる。
私は言葉を続けようとしたけれど、喉から出掛かる音に泣きが混ざり始めていることに気付いて、気持ちを落ち着かせることを優先しなければならなかった。
私が一度言葉を切れば、当然その場には沈黙が訪れる。
静寂の中、続きを話すべく冷静さを取り戻そうとしていた私だったが、再び話し始めるよりも先、頬に優しい感触が伝わった。
「カリスタ」
先程までの抑揚のない声とは異なる、普段のような柔らかな声だった。
潤んでしまった目をゆっくりと開ければ、私の頬に触れるアルバートと目が合う。
「それは、俺に少なからず好意を抱いているから、嫌われるのが怖かった……という事?」
私の子の存在が少なからず、などという言葉で片付けられるようなものではない事を彼は自覚していないのだろう。
けれど、涙が零れてしまいそうな程不安定で大きな感情に呑まれている私には今、言葉でわざわざ訂正できる程の余裕もなく、首を縦に振るので精一杯だった。
私の反応を見たアルバートは深く息を吐く。
それは呆れや怒りといった感情ではなく、心からの安堵のようであった。
「…………君は昔から、自分への好意を信じ切れない質だものなぁ」
「アルバート、私」
「いい。君の気持ちはわかったし、俺に愛想を尽かした訳でないというのなら……今はそれでいい」
詰まってしまった言葉の続きを伝えようとすれば、無理をする必要はないと首を横に振られる。
それから彼は甘えるように私の肩に自分の頭を摺り寄せた。
「あ、アルバート……」
「もう分かるだろ。俺が君を遠ざける気なんてこれっぽっちもない事は」
私は頷きを返す。
全ては私が勝手に諦めたふりをして、逃げていただけの事。
彼に対して恐れるような事は何一つ存在はしておらず、私は恐れるのではなく、彼ともっと早くに向き合うべきだったのだ。
「分かったならいい。……それで? 半年間婚約者に拒絶され続けた憐れな男を労わるなり慰めたりくらい、してくれたっていいんじゃないか?」
予想だにしていなかった彼の言葉に私は驚く。
彼がこうして甘えるような素振りを見せるのも、ましてや言葉で直接好意を示してくる事など、初めての事だったから。
もしかしたら、諦め癖を持つ私を安心させ、喜ばせてくれようという彼なりの計らいだったのかもしれない。
彼のこの主張のお陰で、私の胸の内は彼へ対する愛おしさと喜びに満たされていったのだから。
私は彼の頭に触れる。
さらさらとした髪を撫でながら、改めてアルバートという存在が私にとって大きなものである事を痛感する。
それは間違いなく、画面越しに見ていた時には抱く事がなかった感情だ。
ゲーム『君紳』の隠しキャラのアルバートではなく、共に今を生きている個人としてのアルバートだからこそ、私はここまで心を揺さぶられ、惹かれてしまったのだろう。
私は暫くの間アルバートの頭を撫でてから、彼の背中に手を回す。
これまで私とアルバートはどちらもダンスやエスコート以外でこうしたアプローチを交わす事はなかった。
諦め癖の私と、本心を晒す質ではないアルバート。
どちらも積極的に自己の想いを主張するタイプではないのだからそれも当然だったといえるだろう。
私が彼の背に触れれば、それに応えるようにアルバートが私の背に腕を回す。
顔を上げた彼の胸の中にすっぽりと収まってしまった私は、彼の温もりに身を委ね、やや速いように思える鼓動に耳を傾けながら幸福を噛み締めるのだった。
「さて。ずっとこうしていたいのは山々だが……生憎とまだ話しておかなければならない事が残っているからな」
暫くして。
苦笑しながら不満を述べたアルバートは私を解放すると、来客用に用意されているテーブルとソファの前まで先導した。
彼は公爵家の嫡男だというのに、私を先に座らせると紅茶を二人分用意して菓子と共にテーブルに並べた。
そして遅れて向かいのソファに腰を下ろし、手を組んで口を開く。
「君を陥れようとした存在と、長年悩まされている『呪い』について……な」




