第二章(3)
活動写真館の分厚い天鵞絨の垂れ幕を押し上げ、再び浅草六区の表通りへと出た瞬間、春先の冷たい風が、館内の熱気に当てられていた清と桜子の火照った頬を鋭く撫でた。
鉛色の雲の隙間から、薄日が路地の水溜まりを白く反射させている。銀幕の中で演じられていた極彩色の悲劇から、泥臭くも圧倒的な生命力に満ちた現実の世界へと引き戻され、二人は無言のまま、肩を寄せ合うようにして喧騒の中を歩き始めた。
先ほどまでの、己の殺された夢を直視してしまった桜子の痛切な横顔と、己の無力さを呪う清の深い絶望。その二つの重苦しい感情の淀みを、浅草の猥雑な空気が少しずつ中和していく。
初葉の屋敷であれば、一度沈み込んだ暗い感情は、冷え切った枯山水の底に澱となって永遠に蓄積されていくだけだ。しかし、この大衆の欲望が渦巻く街には、人間の抱える陰惨な暗闇をも強引に吹き飛ばしてしまうような、暴力的なまでの『生の熱量』が満ち溢れていた。
六区の裏通りへと少し足を踏み入れた場所に、そのこぢんまりとした西洋建築の店はあった。
赤煉瓦の外壁に、新派な彩色硝子が嵌め込まれた木製の扉。軒先に吊るされた看板には、白い塗料で『洋食・カフヱー』と丸みを帯びた真新しい書体で書かれている。
清が真鍮の冷たい取っ手を回して扉を押し開けると、頭上に吊るされた小さな扉鐘が、軽やかな金属音を立てて二人の来店を告げた。
途端に、凍えていた二人の肺腑を、圧倒的な質量を持った濃密な芳香が容赦なく侵犯してくる。
それは、小麦粉と牛脂を丹念に炒め、何日も煮込んだ褐色の肉汁が焦げるような重厚な香り。挽肉と玉葱を豚脂で揚げた際の、胸焼けしそうなほど甘ったるく暴力的な油煙。そして何より鼻腔の奥を直接突き刺してくるのは、豆蒄、馬芹、鬱金といった、異国から持ち込まれた香辛料が放つ、目眩がするほど鮮烈で鋭い咖喱の臭気であった。
昆布の出汁や醤油といった、奥ゆかしくも淡い風味しか許されない初葉の食卓では、決して知ることのない、胃袋の底にある本能的な飢渇を直接鷲掴みにするような強烈な熱気である。
店内の空気は、厨房から立ち上る白い湯気によって微かに霞み、むせ返るような熱気を帯びている。
耳を打つのは、活動写真館の前のダミ声や拍子木とは全く違う、ひどく生活感に溢れた喧騒であった。
白い給仕服を着た女給たちが、忙しなく床を踏み鳴らして立ち働く足音。分厚い白磁の皿に、銀鍍金の重い匙や肉叉が立て続けに触れ合って響く無骨な金属音。そして、食卓を囲む書生や労働者、洋装の婦人たちが、口の周りを褐色の汁で汚しながら大声で笑い合う、底抜けに明るい話し声。
すべてが、活字という無音の牢獄に縛り付けられている兄妹にとって、圧倒的なまでの『生者の営み』の証明であった。
清は、窓際に空いていた小さな木製の卓を見つけ、桜子をそこへ促した。
網細工の白幕越しに差し込む大正の柔らかい光が、食卓の上に敷かれた赤と白の格子柄の卓布を明るく照らしている。
桜子は、頭から深く被っていた濃紺の頭巾をゆっくりと肩まで下ろし、周囲の客たちの視線を気にしながらも、小さく安堵の息を吐き出して椅子に腰を下ろした。
女給が硝子の冷水と品書きを持ってくると、清は己の喉の奥が微かに引き攣るのを感じた。
しかし、彼が吃音と闘いながら無理に言葉を捻り出そうとする前に、桜子がすかさず、しかし極めて自然な所作で顔を上げ、銀の鈴を転がすような声で注文を告げた。
「咖喱飯を二つと、馬鈴薯の揚げ物を一つ。それから、食後に珈琲をお願いいたします」
兄に言葉の苦痛を味わわせまいとする、妹のさりげない、しかし揺るぎない庇護。清は、その温かな配慮に胸を締め付けられながらも、無言で小さく頷き、卓の上で己の細い指を組み合わせた。
やがて、白い前掛けをした女給の腕によって、大正の新しい食文化の象徴とも言える料理が二人の目の前に運ばれてきた。
楕円形の分厚い白磁の皿に、真っ白に輝く銀飯がこんもりと盛られ、その半分を覆い隠すようにして、とろみのある黄金色の咖喱の汁がたっぷりと掛けられている。汁の表面には肉の脂が薄っすらと膜を張り、窓からの光を反射して琥珀色に鈍く光っていた。
そして、その傍らに置かれた丸い小鉢には、狐色に香ばしく揚げられた俵型の揚げ物が、熱々の湯気を立てながら鎮座している。添えられた甘藍の千切りの青臭い匂いと、揚げ物に掛けられた酸味のある舶来の西洋醤油の香りが、咖喱の鋭い香辛料と複雑に絡み合い、二人の食欲を暴力的に煽り立てた。
桜子は、洋銀の重みのある肉叉を右手にとり、まずは馬鈴薯の揚げ物の真ん中へと静かに突き立てた。
粗いパン粉の衣が砕け散る小気味良い破砕音が、周囲の喧騒を切り裂いて鮮明に響く。
外殻が崩れ落ちた断面からは、熱気とともに、滑らかに潰された馬鈴薯の甘い芳香と、豚の挽肉から滲み出した濃厚な肉汁がとめどなく溢れ出した。
彼女は、少し行儀悪く口を大きく開け、その熱い塊を頬張った。
軽快に崩れる衣の歯触りと、舌の上でとろけるような芋の甘み。西洋醤油の鼻を突く酸味が、揚げ物の脂っこさを絶妙に中和していく。そのあまりの熱さと強烈な旨味に、桜子は小さく熱い吐息を漏らし、慌てて冷水を口に含んだ。
氷が玻璃杯にぶつかり、涼やかな反響音を立てる。
水を飲み下した後の桜子の白磁のような頬は、揚げ物の熱さと咖喱の香辛料の刺激によって、薄っすらと健康的な桜色に染まり始めていた。
初葉の冷たい屋敷で、他人の失われた幸福の幻覚に魂を犯されながら、青白い顔で原稿用紙に向かっているあの悲壮な少女の姿は、今の彼女には微塵もない。
熱いものを熱いと感じ、美味しいものを美味しいと感じて目を細める。それは、大正の帝都を生きる、ごく普通の十八歳の少女の、あまりにも当たり前で、そして途方もなく尊い姿であった。
「美味しいかい」
清の喉から、驚くほど滑らかで、柔らかな声が漏れ出た。
この喧騒に包まれた洋食屋の熱気と、何より目の前で無防備に食事を楽しむ妹の姿が、彼の気管を締め付けていた吃音の呪縛を、魔法のように解きほぐしてくれていたのだ。
桜子は、黄色く染まった銀の匙を置き、深く力強く頷いた。
「ええ。とても美味しいわ。お兄様も、冷めないうちに食べて」
そう言って、桜子は花が綻ぶような、これ以上ないほどに純粋で屈託のない笑顔を清に向けた。
銀幕の中で女優が見せたあの蠱惑的な微笑みでもなく、父の前で作る冷たい仮面でもない。それは、ただ愛する兄の前でだけ見せることのできる、血の通った人間の温かな笑みであった。
清もまた、銀の匙を手に取り、黄金色の咖喱を口へと運ぶ。
舌の根を焼くような香辛料の鋭い刺激。牛肉の深いコク。そして、とろけるように甘い玉葱の味わい。
泥臭く、猥雑で、しかし圧倒的な生命力に満ちた大衆の味が、清の冷え切った腑をゆっくりと、確実に温め、彼の中に潜む虚無感を一時的に満たしていく。
初葉の純文学がどれほど高尚であろうとも、この一皿の咖喱飯が持つ、人間の胃袋と心を直接的に救済する温もりには、決して勝つことはできないだろう。清は、香辛料の辛さで少しだけ視界を滲ませながら、目の前で嬉しそうに揚げ物の衣を崩している妹の姿を、まるで焦点硝子越しに永遠の記憶として焼き付けるように、じっと見つめ続けた。
二人の皿に匙が当たる澄んだ反響音が、絶え間なく重なり合う。
外の寒さも、初葉の家の重圧も、そして己の喉にかけられた呪いも、すべてを忘れ去ることができる束の間の時間。
珈琲の焙煎された苦い香りが漂い始める中、窓から差し込む春の光に包まれた二人は、ただの平凡な兄と妹として、静かに、そして確かに、そのささやかな平穏の味を共有し合っていた。




