第二章(2)
浅草六区の猥雑な熱気と、鼓膜を引き裂くような喧騒から逃れるようにして、清と桜子は活動写真館の分厚い天鵞絨の垂れ幕をくぐり抜けた。
外の極彩色の狂乱が嘘であったかのように、館内にはひんやりとした重苦しい闇が広がっている。太陽の光を徹底して遮断したその巨大な箱のような空間は、初葉の屋敷の冷え切った死の静寂とはまた質の異なる、大衆の熱に浮かされた独特の密室の空気を漂わせていた。
湿気を吸った安物の絨毯が放つ埃っぽい臭気、男たちが髪に撫で付けた舶来の髪油と安煙草の煙脂の悪臭、そして何百人という人間がひしめき合って吐き出す、むせ返るような濁った呼気と体温の熱気。それらが漆黒の中で濃密に混ざり合い、館内を満たしている。
しかし、その息苦しいほどの闇は、今の桜子にとっては何よりも安心できる揺るぎない隠れ家であった。
この光の届かない客席の最後列に身を沈めている限り、彼女は初葉家を背負う『次期当主』でもなければ、純文学の『三代目』でもない。厳しい父の冷酷な監視の目も、親族たちの値踏みするような視線も、ここまでは決して届かない。ただの、夢見がちで少し影の薄い、帝都のどこにでもいる十八歳の少女として呼吸をすることが許されるのだ。
館内の空気を震わせていたのは、前方の舞台袖に立つ活動弁士の、血を吐くような熱弁であった。
三味線と胡弓、そして場違いな洋琴が奏でる哀切な和洋折衷の旋律に乗せて、弁士が大仰な身振りを交えながら、銀幕の上で声なき芝居を繰り広げる役者たちに命を吹き込んでいく。
観客たちは固唾を呑み、あるいは手拭いで目頭を押さえながら、その作り物の悲劇にすっかり没入し、安い涙を流していた。
だが、桜子の意識は、弁士の語る陳腐な悲恋の筋書きなどには全く向いていなかった。
彼女の聴覚を支配していたのは、弁士の声よりもさらに後方、頭上の高い位置にある映写室から絶え間なく響いてくる、機械の暴力的な駆動音であった。
硬質な金属の歯車が噛み合い、合成樹脂の透き通った薄帯を圧倒的な速度で巻き取っていく、規則的で無機質な回転音。
そして、その機械の隙間から放たれる、一本の鋭く太い光の束。
映写機の強力な炭素弧光灯から放たれた白煙を伴う強烈な光線は、埃の舞う館内の暗室を真っ二つに切り裂きながら、前方の巨大な銀幕に向かって一直線に伸びている。
清は、隣の席で身を固くしている妹の横顔を、暗がりの中でそっと盗み見た。
桜子は、頭から被っていた濃紺の頭巾が肩まで滑り落ちていることにも気づかず、銀幕に映し出される光と影の明滅を、瞬きすら忘れたかのように見つめ続けていた。
光の届かぬ座席で、映写機の放つ青白い光の反射だけが、桜子の白磁のような肌を不規則に照らし出している。その完璧なまでに美しい横顔には、初葉の書斎で父・清太郎に見せていたような、感情を一切表に出さぬ人形のような冷たさは微塵もなかった。
彼女の漆黒の瞳は、映写機の光をすべて吸い込むように異常な熱を帯びて見開かれ、恐ろしいほどの執着を宿していた。
薄い桜色の唇が、誰に言葉を届けるわけでもなく、微かに震えている。膝の上で固く組まれた両手は、着物の布地が破れんばかりの力で握りしめられ、その指先からはことごとく血の気が引いていた。
桜子は、活動写真という『大衆の安い娯楽』を見ているのではない。彼女は、銀幕の中で泣き崩れ、絶望の表情を浮かべる美しい主演女優の姿そのものを、魂ごと喰らい尽くそうとするような飢えた眼差しで見つめていたのだ。
女優になりたい。
それこそが、純文学という活字の檻に幽閉された少女・初葉桜子が、己の胸の最も深い奥底にひた隠しにし続けてきた、誰にも言えない真の夢であった。
桜子にとって、活字を書き連ねるという行為は、自らの魂を削り、精神を破壊する地獄の儀式に他ならない。
彼女が毎晩のように見る、あの生々しく泥臭い悪夢。己の過敏な脳髄が捏造する、幸福な時間と、それが目覚めと共に奪い去られる抗いようのない喪失感という名の痛切な幻覚。それを原稿用紙に書き起こす時、桜子は己の魂の輪郭を無残に殺し、その架空の重苦しい痛みを、余すところなく自分の血肉へと取り込まなければならない。
それは、終わりのない底なし沼に己の身を沈め、泥水を飲み込みながら呼吸をするような、凄まじい窒息感と恐怖を伴うものであった。
しかし、女優は違う。
銀幕の中で悲劇の佳人を演じるあの美しい女は、架空の絶望や悲哀を、ただ『美しい衣装』のように己の肉体の外側に纏っているだけだ。
どれほど涙を流そうとも、どれほど狂気に満ちた叫びを上げようとも、それはあらかじめ用意された台本という安全な枠の中での出来事に過ぎない。撮影機の回転が止まり、監督の合図が響けば、彼女は直ちにその悲劇の衣装を脱ぎ捨て、本来の自己を取り戻し、何事もなかったかのように楽屋へと帰っていくことができる。
痛みを内側に取り込むのではなく、ただ外側で表現するだけの、完璧に守られた虚構。
その『美しい嘘』の特権が、桜子には身を焦がすほどに羨ましかった。
もしも自分が女優であったなら。
この頭を狂わせるような喪失の痛覚も、圧倒的な重圧も、すべてを『演技』という名の嘘に変換して、自分の外側へと吐き出すことができたはずだ。活字の牢獄で血を吐きながら文字を連ねるのではなく、眩い光を浴びながら、指先の震えや伏せたまつげの角度だけで、世界中の人間を欺くことができたはずなのだ。
何より、女優であれば、自分の声で、自分の肉体を使って、世界と直接関わることができる。紙の上に残された洋墨の染みとしてではなく、血の通った人間として、光の当たる舞台で生きる権利を得られるのだと。
映写機が刻む無機質な駆動音が、桜子の胸の奥に秘められたその身を切るような情熱を、容赦なく煽り立てる。
銀幕の中の女優が、悲劇的な運命に翻弄されながらも、最後に一瞬だけ見せた、この世のものとは思えないほど蠱惑的で美しい微笑み。
桜子の目は、その一瞬の光の瞬きを片時も逃さぬように見開き、そして、ゆっくりと暗い絶望の色に沈んでいった。
なんと非情な光なのだろうか。
桜子は、闇の中で小さく息を呑み、震える唇を固く引き結んだ。
自分がどれほど銀幕の世界に憧れようとも、どれほど女優という虚構の自由に焦がれようとも、その夢が叶うことなど、万に一つも存在しない。
彼女には、初葉の血が流れている。身分を捨ててまで純文学の狂気に取り憑かれた初代・清秋の呪いが、彼女の細胞の隅々にまで深く根を張っているのだ。
そして何より、桜子には守らなければならないものがあった。
隣の席で、息を殺して自分を見守ってくれている、愛する兄の存在である。
極度の吃音によって言葉を奪われ、一族から物言わぬ木偶として切り捨てられた兄を、この冷酷な世界で生かし続けるためには、自分が初葉の道具として、純文学の奴隷として機能し続けるしかない。自分が女優になるという安易な自由の道を選べば、それはすなわち、兄を見殺しにし、暗い離れの部屋から外界という名の処刑場へ突き落とすことを意味している。
自分には、美しい嘘を纏う資格などない。
汚泥をすすり、己の脳が作り出す凄絶な喪失の幻覚に魂を侵食されながら、ただひたすらに洋墨と血を混ぜ合わせて原稿用紙を黒く塗り潰していく。それこそが、初葉桜子という少女に与えられた、唯一の存在理由であり、逃れようのない宿命なのだ。
銀幕の中で佳人が息絶え、物語が劇的な終幕を迎えた瞬間、活動写真館の中に割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こった。
弁士の声が最高潮に達し、三味線と洋琴が狂ったような後奏を掻き鳴らす。
しかし、桜子の耳には、その大衆の熱狂は一切届いていなかった。彼女の網膜には、すでに消え去ったはずの銀幕の女優の微笑みだけが、無慈悲な残像として焼き付いている。
桜子は、膝の上で握りしめていた両手の力をゆっくりと抜き、冷え切った指先で、肩に落ちていた濃紺の頭巾を再び頭から深く被り直した。
それは、束の間の『ただの少女』としての時間を終え、再び『初葉の次期当主』という冷たい仮面を被り直す、哀しい儀式であった。
頭巾の影に隠された彼女の顔は、映写機の放つ光の筋から外れ、再び黒々とした影へと沈み込んでいく。
清は、その一連の妹の所作を、隣でただ黙って見つめることしかできなかった。
彼には、桜子の瞳に灯っていたあの異常なまでの情熱の正体が、痛いほどに理解できていた。彼女が本当は活字など憎んでおり、光の当たる場所で、美しい嘘を演じる女優になりたかったのだということを、言葉を交わさずとも直感で悟っていた。
そして同時に、彼女がその夢を今、自分のために心の奥底へと葬り去ったのだということも。
『僕の喉が呪われているばかりに、彼女の光を奪っている』
清の胸の奥で、凄まじい自己嫌悪と罪悪感が、どす黒い刃となって彼自身の腑を無残に切り裂いた。
言葉を持たない木偶でしかない兄の存在が、才能に溢れ、誰よりも美しく輝くはずの妹の未来に巨大な鎖を巻きつけ、底知れぬ影へと引きずり込んでいる。彼女が毎晩、絶望的な喪失の幻覚に魘されながら血を吐くようにして純文学を書き連ねているのは、他でもない、この出来損ないの木偶を延命させるためだけなのだ。
清は、己の胸に抱き抱えていた黒革の暗箱の冷ややかな真鍮の角に、痛いほど強く額を押し付けた。
声を上げて泣き喚くことすら、吃音の呪縛は彼に許してくれない。喉の奥で痙攣が起き、息が詰まる。その物理的な苦痛よりも、妹の殺された夢の残骸を直視しなければならない精神的な苦痛の方が、何千倍も清の心を苛んだ。
活動写真の上映が終わり、客席の明かりが点灯してもなお、映写室から漏れ聞こえる無機質な歯車の駆動音が、清の耳の奥にこびりついて離れなかった。
それはまるで、初葉の血に縛られた彼ら兄妹の運命が、決して巻き戻ることのない残酷な因果の歯車によって、ゆっくりと、しかし確実に破滅へと向かって巻き取られていく音のようであった。
浅草の熱気の中にあっても、二人の周囲だけには、凍てつくような死の冷気が重く横たわっていた。




