第二章(1)
生者の感情を徹底的に排除した墓場のような初葉の屋敷から、帝都最大の歓楽街である浅草六区へと足を踏み入れた瞬間、清と桜子の全身は、まるで別次元の強烈な熱波に真正面から殴りつけられたかのような錯覚に陥った。
大正十二年の春先。
空にはまだ冬の名残を思わせる薄雲が広がっていたが、浅草の街を覆い尽くす空気は、季節の法則など完全に無視して異常なまでの熱を帯びていた。
視界のすべてを原色に塗り潰すような、圧倒的な色彩と喧騒の濁流。それが、純文学という名の無機質な白と黒の世界に幽閉されていた二人の眼球を、容赦なく灼き尽くそうとしていた。
帝都随一の娯楽の聖地、浅草六区。
ここには、初葉の父・清太郎が何よりも憎悪し、軽蔑してやまない『大衆の安い欲望』が、文字通りの泥水となって渦巻いていた。
通りを見上げれば、鉛色の空を真っ二つに引き裂くようにして、赤煉瓦で構築された十二階建ての巨大な西洋建築、凌雲閣が、帝都の人々の際限のない欲望を象徴するバベルの塔のように威圧的にそびえ立っている。その周囲を取り囲むように、活動写真館、芝居小屋、寄席、そして淫靡な光を放つ洋酒場が隙間なく建ち並び、建物の外壁という外壁には、人間の背丈の何倍もある巨大な極彩色の絵看板が打ち付けられていた。
看板に描かれているのは、血飛沫を上げて見得を切る時代劇の剣客であり、あるいは両手で顔を覆って泣き崩れる新派悲劇の薄幸の佳人である。どれもこれも、赤、青、黄色といった色を毒々しいまでに塗りたくった、ひどくけばけばしい代物であったが、大衆の目を引きつけ、彼らの財布の紐を緩ませるという一点においては、どんな高尚な純文学よりも強烈な引力を放っていた。
風が吹くたびに、小屋の軒先に吊るされた無数の幟旗が、狂った鳥の羽ばたきのように激しく音を立ててはためき、通りを行き交う群衆の頭上を威嚇するように乱舞している。
視覚の狂乱に輪をかけて凄まじいのは、鼓膜を直接引き裂かんばかりの聴覚の濁流であった。
通りのあちこちから鳴り響くのは、東西屋が打ち鳴らす鉦や太鼓、そして舶来の木管笛の間の抜けた旋律である。それに負けじと、各劇場の入り口に立つ木戸番たちが、拍子木をけたたましく打ち鳴らしながら、喉から血が滲むのではないかと思うほどの泥臭い濁声で客引きの口上をわめき散らしている。
「さあさあ、お立ち会い、天下の活動大写真、本日は大入り満員、泣いて笑って手に汗握る大活劇の始まり始まり」
唾を飛ばしながら絶叫するその声は、市電の軌道が軋む金属音や、何千、何万という群衆の足音と完全に混ざり合い、ひとつの巨大な不協和音となって浅草の空気を激しく震わせていた。
そして、鼻腔を容赦なく侵犯してくるのは、多種多様な人間の体臭と、猥雑な生活臭の奔流である。
鋪装されていない土の道路から舞い上がる土埃の乾いた空気。屋台で焼かれる鯣や醤油の焦げた香ばしさ。労働者たちの半纏に染み付いた汗と泥の入り混じった体臭。
そのむせ返るような熱気の中を縫うようにして、最先端の洋装に身を包んだ新しい女たちが、銀幕の女優を真似た派手な化粧を施して通り過ぎていく。彼女たちの首筋からは、安価な白粉の粉っぽさと、甘ったるい香水、そして男たちの髪に撫で付けられた舶来の髪油の強烈な芳香が立ち上り、冬の冷たい風を粘り着くような欲情の温度へと変質させていた。
初葉の屋敷に漂っていた、あの死の気配を孕んだ和紙の腐敗臭も、息が詰まるほどの白檀の高貴な香りも、ここには一切存在しない。
あるのはただ、今日を生き、今日だけの安易な快楽を貪ろうとする、泥臭くも圧倒的な生の熱量だけであった。
清は、群衆の波に押し流されそうになりながら、己の胸に抱えた黒革の暗箱を、まるで命綱のように強く握りしめていた。
四方八方から見知らぬ人々の肩がぶつかり、下駄の歯が泥を跳ね上げる。人いきれによる酸欠で眩暈がしそうになるほどの狂騒。しかし、不思議なことに、この騒音の坩堝の中にあって、清の喉は屋敷にいる時ほどの激しい痙攣を起こさなかった。
誰もが自分の欲望を満たすためにわめき散らし、誰の言葉もまともに聞き取れないこの場所では、彼が言葉を発せない吃音者であることなど、何の意味も持たなかったのだ。
周囲の圧倒的な雑音が、彼の抱える絶対的な沈黙を完全に飲み込み、無化してくれていた。清は、無言のまま群衆の隙間に身体をねじ込み、自分のすぐ後ろを歩く妹が他人にぶつからないよう、己の背中で必死に空間を作りながら歩みを進めた。
彼の後ろを小刻みな歩幅でついてくる桜子は、父・清太郎の目を盗んで屋敷を抜け出すため、普段の初葉家長女としての豪奢な着物ではなく、地味な矢絣の銘仙を身に纏っていた。
さらに、初葉の長女であることを誰にも悟られないよう、頭からすっぽりと濃紺の頭巾を被り、その美しい顔の半分を布の影に隠している。しかし、どれほど地味な装いで身を隠そうとも、隙間から覗く彼女の白磁のような肌と、漆黒の瞳が放つ孤高の美しさは、この泥臭い浅草の群衆の中にあって、かえって異様なほどの存在感を放ってしまっていた。
すれ違う労働者や書生たちが、息を呑んで足を止め、頭巾の奥の桜子の顔を無遠慮に振り返る。清はそれが酷く恐ろしく、誰かに声をかけられる前に急いで彼女の細い手を引き、活動写真館が密集する路地の奥へと足早に向かった。
絶対に、見つかるわけにはいかない。
もしも、初葉の三代目当主として大衆新聞での連載が決定したばかりの桜子が、このような娯楽の泥水の中に身を浸していることが父に知れれば、彼女は二度と屋敷の外へ出ることを許されなくなるだろう。いや、それどころか、兄妹の密やかな逃避行を手引きした清自身が、今度こそ本当に屋敷から追放されるに違いなかった。
それでも、清は桜子をこの場所に連れてこなければならなかった。
毎晩、得体の知れない喪失の幻影に苛まれ、その痛みを文字にして原稿用紙に定着させることでしか正気を保てない妹。彼女の精神が完全に摩耗し、自ら生み出す狂気に呑み込まれて壊れてしまう前に、ほんの数時間だけでも『初葉桜子』という重圧から彼女を解放してやる必要があったのだ。
「さくらこ、はぐれるな」
清が、耳元で怒鳴り響く東西屋の鉦の音に負けまいと、声を張り上げて言う。吃音の引っ掛かりは、凄まじい喧騒に掻き消されて誰の耳にも届かない。
桜子は、清の二重回しの袖口を白く細い指でしっかりと掴みながら、無言で深く頷いた。
彼女は、頭巾の奥から、道の両脇にそびえ立つ巨大な活動写真の絵看板を、穴のあくような視線で見上げていた。
そこにあるのは、純文学が描こうとする人間の醜悪な深淵や、己の脳髄を犯すような得体の知れない喪失の痛みなどではない。ただひたすらに大衆を喜ばせ、夢を見させるためだけに作られた、嘘にまみれた甘美な幻影である。
活字という音のない牢獄の中で、自らの捏造した幻覚の痛みに身を削り続ける桜子にとって、銀幕という光と影が織りなす娯楽の世界は、どれほど低俗であると父に教え込まれていようとも、抗いようのない強烈な引力を持っていた。
特に、看板の中心で光を浴びて微笑む、美しい女優たちの姿。
桜子の漆黒の瞳の奥に、初葉の屋敷では決して見せることのない、熱を帯びた微かな炎が揺らめいた。彼女の視線は、周囲の土埃も、鼻につく白粉の粉っぽさもすべて忘れ去ったかのように、ただ一点、巨大な看板の上の女優の瞳だけを蠱惑的なまでの強い執着で射抜いている。
「綺麗」
誰に聞かせるでもなく、桜子の薄い唇から零れ落ちたその一言は、拍子木の音と群衆の嬌声の中に、あっけなく吸い込まれて消えた。
清は、そんな妹の横顔を、痛ましさと愛おしさが入り混じった複雑な思いで見つめていた。
本当ならば、彼女はあのような嘘の世界で、ただの美しい少女として無邪気に笑っているべき人間なのだ。初葉の血の呪縛さえなければ、あのような残酷な幻影に精神を削られることもなく、大衆娯楽を心から楽しむ普通の人生があったはずなのだ。
清は、己の無力さを噛み殺すように、暗箱の冷たい真鍮の角をさらに強く握りしめた。
人波に揉まれ、土埃にまみれながら、兄妹は浅草六区の心臓部とも言える、最も大きな活動写真館の入り口へと、静かに、しかし確かな足取りで吸い込まれていった。




