第一章(5)
当主の書斎を辞した桜子は、屋敷の奥深くへと続く暗く長い回廊を、ただひたすらに歩き続けた。
純白の足袋を通して伝わってくる板張りの床の冷たさは、すでに皮膚の感覚を奪い去るほどの鋭さを持っていたが、彼女の歩みは少しも乱れることはない。
漆喰の剥がれ落ちた土壁に沿って曲がり、一日のうちで一度も陽の光が差し込むことのない北側へと進むにつれて、屋敷の空気に混じっていた白檀の高貴な香りは跡形もなく消え失せる。代わりに、湿った土の黴と、古い木材が腐朽していく陰鬱な空気が、肺の奥底に重くまとわりついてきた。
やがて、回廊のどん詰まりにある一枚のすり硝子の引き戸が、桜子の目の前に現れた。
一族の者たちが決して近づこうとしない、初葉家の最果ての場所。一族の『瑕疵』として長男が幽閉されている、その薄暗い離れの部屋の前に立つと、桜子の身体をこれまで強固に覆い尽くしていた『初葉の次期当主』という名の無機質な仮面が、音もなく静かに溶け落ちていくのを感じた。
彼女は、凍てついた指先で引き戸の木枠に触れ、ゆっくりと力を込めた。乾いた木が擦れ合う鈍い音が静寂を破り、引き戸が細く開く。
その瞬間、部屋の暗がりの中から、遮光幕の機構が落ちる硬質で短い金属音が響いた。
光の届かぬ部屋の隅で、底冷えのする畳の上に膝を抱えるようにして座り込んでいた青年が、顔の下半分を隠していた黒革の舶来暗箱をゆっくりと膝の上へと下ろした。
初葉清。
陽の差さぬ部屋に、すり硝子越しに僅かに滲む青白い外光を浴びたその横顔は、鋭利な刃物で削り出したかのように繊細で、どこか危ういほどの美しさを湛えていた。
少し長めに伸びた前髪の奥から桜子を見つめる彼の涼しげな瞳には、親族の前に引きずり出された時に見せる怯えや、周囲を拒絶するような狂気の色は全くない。ただ、冷たい雨に打たれ続けた孤独な獣が、唯一心を許した相手に向けたような、深く静かな安堵の光だけが宿っていた。
「さ、さ、さく、ら、こ」
清の青白い唇が微かに震え、そこから漏れ出したのは、痛ましいほどに引き攣った濁った音であった。
愛する妹の名前を呼ぼうとしただけであるにもかかわらず、清の喉仏は己の意思に反して石のように強張った。気管が目に見えない麻縄で容赦なく締め上げられ、肺から押し上げられた空気が声帯に見事にせき止められる。彼の顎の筋肉が不自然に引き攣り、美しく整った顔が苦痛によって無残に歪んだ。額には瞬時にじっとりとした脂汗が滲み、呼吸のやり場を失った胸が激しく上下する。
どれほど心を許した妹の前であろうとも、彼にかけられた極度の吃音という肉体的な呪縛が、都合よく消え去るようなことは決してなかった。言葉を発しようとするたびに、彼はこの窒息するような筆舌に尽くしがたい苦痛の業火に焼かれなければならないのだ。
しかし、桜子はそんな兄の醜悪なまでの苦しみを前にしても、決して目を逸らさない。
彼女は引き戸を閉めると、音もなく畳の上を歩み寄り、清のすぐ目の前に腰を下ろした。そして、痙攣する喉を押さえてうつむく兄に対し、同情の言葉をかけることも、苛立って先回りして言葉を奪うこともせず、ただ静かに、深い慈愛に満ちた漆黒の瞳で彼の言葉が紡ぎ出されるのを待ち続けた。
桜子は知っている。吃音に苦しむ者が最も傷つくのは、言葉を急かされることでも、哀れまれることでもない。己の言葉の価値を否定され、透明な存在として扱われることなのだと。
数分にも及ぶ地獄のような空白の時間を経て、己の唇を噛み破って滲んだ血の味を飲み込みながら、ようやく清の喉の痙攣がわずかに収まった。
「さむ、かった、だろう。こっちへ、おいで」
ひどく掠れ、途切れ途切れになった不格好な声。しかし、その必死に捻り出された言葉の奥には、妹を深く慈しむ確かな温度が宿っていた。
「寒くないわ。ありがとう、お兄様」
桜子は、清の言葉を最後まで聞き届けてから、静かに柔らかく微笑んだ。
その言葉遣いは、父や一族の長老たちの前で見せる、一切の隙もない余所余所しい敬語ではない。大正の街角を歩く普通の少女たちとなんら変わらない、あどけなさと親愛の情に満ちた、等身大の妹としての響きを持っていた。この部屋の中だけで交わされる、二人だけの特別な時間の形であった。
「父様に、呼ばれて、いたの、かい」
清は、暗箱を抱きしめていた指をわずかに緩め、心配そうに妹の白磁のような顔を覗き込んだ。
桜子は小さく息を吐いてわずかに肩を落とすと、着物の膝の上で自らの指を固く絡め合わせた。
「ええ。お父様にね、新聞小説を書くように命じられたわ。帝都で一番大きな大衆新聞よ。初葉の純文学で、新聞の紙面を支配しろと」
桜子が淡々とこぼしたその言葉に、清の肩が弾かれたように大きく跳ねた。
膝の上に置かれた暗箱の真鍮の角を握りしめる清の指先から、急速に血の気が引き、白く骨張っていく。大衆を何よりも憎悪する父が、あえて桜子に大衆新聞に小説を書かせる。その意味するところの残酷さと、桜子にのしかかるであろう途方もない重圧の大きさを、清は瞬時に理解した。
「だめ、だ。そんな、毎日のように、文字を、切り売り、するような真似を」
清の端正な顔が、激しい苦悩と怒りに歪んだ。焦りで言葉がさらに詰まり、喉の奥から空気が擦れるような痛ましい呼気が漏れる。
「ごめ、ん。僕の、せいだ。僕が、まともに話すことも、できない、出来損ないの、木偶だから。君に、そんな、汚泥を啜るような、思いを」
深い自己嫌悪の淵に沈み、己を激しく責め立てる清の声は惨めに震えていた。彼がうつむき、己の不甲斐なさに震える肩を抱きしめようとしたその時、桜子の凍える両手が、清の握りしめた拳を優しく包み込んだ。
「謝らないで、お兄様。お兄様は出来損ないでも、木偶でもないわ。私にとって、たった一人の、一番大切なお兄様よ」
桜子の声は静かだが、決して揺るがない鋼のような芯を持っていた。彼女のしなやかな掌から伝わってくる確かな命の温度に、清は弾かれたように顔を上げた。
「私は、新聞小説を書くわ。どんなに苦しくても、お父様の言う通りに大衆の紙面を初葉の文字で埋め尽くして見せる。私が初葉の当主として完璧な文字を紡ぎ続ければ、誰も、お父様でさえも、お兄様をこの家から追い出すことはできなくなる。私が、お兄様の居場所を守るの」
桜子の言葉は、十八歳の少女が口にするにはあまりにも悲壮で、底知れぬ献身に満ちたものであった。己の若さも、未来の幸福もすべてを活字の神に捧げ、ただ兄をこの陽の差さぬ離れで生かし続けるためだけに、自ら進んで文字の奴隷になるという圧倒的な覚悟。
「だめだ。君の、見る、あの夢。あんな恐ろしい、幻影を、毎日書き出していたら。君が、精神を壊してしまう」
清は首を激しく横に振った。
清の指摘に、桜子はわずかに目を伏せ、冷えきった畳へと視線を落とした。
彼女が文字を紡ぐための源泉。それは、眠りに落ちるたびに彼女の脳髄を容赦なく犯す、あの恐ろしいほど生々しい悪夢であった。
「本当に恐ろしいのは、その中身なの」
桜子は、ひび割れたような細い声で静かに告白を始めた。
「私が毎晩見るあの夢は、私の過敏な神経が捏造したただの架空の幻に過ぎないはずなのよ。それなのに、あまりに生々しくて、そして……残酷なほど温かいの。たとえば、怪我一つない逞しい父親と肩を並べて鉋を引き、額に汗を流しながら共に家を建てる時の、清々しい檜の芳香。愛する人の手を決して離さず、すべてを捨てて逃げ込んだ貧しい長屋で、粗末な食事を分け合いながら微笑み合う時の、胸が痛くなるほどの幸福。あるいは、誰かの暴力から息を潜めて暗い夜道を逃げ延びた先で、ただ静かに身を寄せ合って眠りにつく夜の安堵」
桜子の華奢な肩が、かすかに震え始めた。
「どれも、この屋敷からあまり出たことのない私が、知っているはずのない温もりよ。それなのに、夢の中の私は、確かにその見知らぬ人たちとして生きているの。でも……目が覚めた瞬間、その温もりが嘘だったかのように消え去って、代わりに身を引き裂くような喪失感だけが私の心臓に深く張り付いて残るのよ。まるで、私自身が、絶対に手に入らない幸福な幻影を無理やり見せられて、それを根こそぎ奪われたかのように。その得体の知れない絶望感に、別の何かに、己の存在が塗り潰されてしまう。それが、本当に恐ろしいの」
己の脳が作り出したと信じている架空の幸福。しかし、その直後に襲ってくる圧倒的な喪失感の痛みだけは、現実のものとして桜子の精神を苛んでいた。
その理解不能な痛みを文字に書き起こし、原稿用紙に外へと吐き出すことでのみ、桜子はあの妄執の濁流から辛うじて自らの魂を切り離し、正気を保つことができていたのだ。新聞連載となれば、彼女はその得体の知れない喪失の淵へ、日常的に己の身を投げ打たなければならなくなる。
「だから、やめるんだ。僕のために、君が、そんな幻に苦しめられて、壊れてしまう必要なんて、どこにもない」
清は身を乗り出し、吃音と闘いながら懇願するように桜子の細い肩を掴んだ。彼の目には、破滅へと足を踏み入れようとしている妹を案じる切実な涙が静かに浮かんでいた。
しかし、桜子はゆっくりと顔を上げ、清の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その深淵のような漆黒の瞳の奥には、恐怖をことごとくねじ伏せるだけの、強い意志の光が宿っていた。
「私が幻魔に呑まれることなんてないわ。だって、お兄様がいてくれるもの」
桜子は自分の肩を掴む清の手の上に、静かに自分の手を重ねた。
「私が架空の喪失感に呑み込まれそうになった時、私が私でなくなりそうになった時、いつも私を現実の世界に繋ぎ止めてくれるのは、お兄様がこの暗箱で切り取ってくれる世界だけよ。お兄様の焦点硝子の中の私は、いつだってただの桜子でいられる。だから、私は大丈夫」
桜子は、清の持つ無機質な黒革の暗箱を見つめ、残酷なまでに美しく、そして切ない微笑みを浮かべた。
「得体の知れない喪失の幻が恐ろしいのは本当。でも、私がその痛みを文字にして原稿用紙に閉じ込めることが、お兄様をこの家で守るための盾になるのなら。私は、何度でもあの幻影の深淵に飛び込んでみせるわ」
その言葉は、初葉という呪われた家系に生まれた二人の兄妹が、生き地獄のようなこの屋敷で互いを生かし合うために交わした、最も純粋で、最も狂気じみた契約であった。
清は、桜子の揺るぎない決意の前に、それ以上引き止める言葉を紡ぐことができなかった。彼はただ、己の無力さに唇を噛み締めながら、妹の重ねられた掌の温もりを、狂おしいほど強く握り返すことしかできなかった。
四畳半の離れの部屋は、深い静寂に包まれていた。
結露した曇り硝子の向こう側では、帝都の空から降りしきる白い粉雪が、音もなく初葉の枯山水を埋め尽くしていく。
己の脳が捏造した架空の幸福と喪失感に血を吐き出す妹と、言葉を奪われながらも焦点硝子越しに妹の魂を現実に定着させようとする兄。
彼らの密やかな決意を乗せた『幻燈花』という名の物語は、誰にも知られることなく、この凍てつく暗室から、静かに、そして確実に幕を開けようとしていた。




