第一章(4)
だがその刻。清が待ちわびる純白の足袋は、彼が待つ離れではなく、何十年という歳月を経て黒光りする本屋敷の冷たい回廊を、音もなく滑っていた。
歩みを進めるたびに、上質な正絹の着物の裾が微かに擦れ合い、その静かな衣擦れの音だけが、墓場のように静まり返った屋敷の沈黙を、細い糸で縫い合わせるようにして響いている。
初葉家の長女、初葉桜子。
明治三十八年に生を受け、今年で十八歳を迎えるこの少女は、帝都の表通りを闊歩する同世代の新しい女たちとは、全く異なる次元の空気を纏って生きていた。
陽の光を極端に避けて育てられたその肌は、血の通った人間のものというよりは、精巧に焼かれた白磁の陶器のように透き通るほど青白い。一切の乱れなく結い上げられた漆黒の髪は、その病的なまでの肌の白さをさらに際立たせ、細く通った鼻筋と、桜の花びらを思わせる薄い唇が、彼女の顔立ちに触れることすらためらわれるような、冷たく孤高な美しさを与えている。
しかし、彼女の容貌の中で最も見る者を惹きつけ、同時に名状しがたい畏怖を抱かせるのは、その長く伏せられた睫毛の奥に隠された、深く、底知れぬ漆黒の瞳であった。
桜子の瞳には、十八歳の少女が当然持っているはずの未来への希望や、大正という華やかな時代に対する無邪気な憧憬といったものは、微塵も宿っていない。
彼女の眼差しは、常に現実の表面的な事象を通り越し、目に見えない深い思索の暗海を漂っているかのような、恐ろしいほどの静謐さに満ちていた。
それは、彼女が幼い頃から抱え込んでいる、ある『不可解な因果』の影響でもあった。
桜子は、物心ついた頃から、眠りに落ちるたびに奇妙な夢を幻視した。
それは漠然とした空想などではない。名前も顔も知らない他人の、泥臭く、ひどく生々しい物語が、まるで自分が直接体験しているかのような圧倒的な質量を持って、脳髄に流れ込んでくるのである。ある時は職人の手に入り込んだ木屑の痛みを感じ、ある時は誰かに宛てた手紙を破り捨てる時の張り裂けそうな胸の痛みを感じた。
目が覚めると、彼女の頬はいつも理由のわからない涙で濡れており、その夢の記憶は、一つの完璧な『物語』として彼女の頭の中に焼き付いて離れなくなるのだ。
桜子自身は、それが己の過敏な神経が捏造した幻であると信じ込んでいた。だが、その夢の物語を文字にして原稿用紙に書き写す彼女の天賦の才は、皮肉なことに、初葉家が求める完璧な文学的才能として、大人たちから異常なまでの狂信的な称賛を浴びることとなったのである。
桜子は、芯まで冷え切った廊下をゆっくりと進みながら、己の吐き出す白い息の行方を伏し目がちに見つめていた。
足の裏から這い上がってくる凄まじい冷気が、足袋を通り抜けて骨の髄まで沁み込んでくる。だが、どれほど肉体が凍えようとも、彼女がその歩みを止めることは許されない。彼女が向かっているのは、この屋敷の最も暗く、最も重苦しい場所。父である二代目当主・清太郎が待つ、あの死の気配が漂う書斎であった。
本来であれば、初葉の血を継ぐ長女として、彼女はどこかの名家へ嫁ぎ、静かで何不自由ない奥方としての人生を歩むはずであった。
しかし、初葉の家を縛り付ける純文学という名の悪鬼は、彼女にそのような平凡な幸福を決して許さなかった。心優しい兄が、一族の『瑕疵』としてあの冷え切った離れに幽閉されてしまったその日から。初葉の血脈と歴史を背負うという巨大な十字架は、まだ幼かった桜子の華奢な両肩に、有無を言わさず乗せられることになったのである。
突き当たりの襖の前に立ち、桜子は冷えきった自らの指先を重ね合わせ、一度だけ静かに深呼吸をした。
肺の奥にまで入り込んでくるのは、廊下に焚き染められた白檀の高貴な香りではなく、襖の向こう側から漏れ出してくる、和紙が腐朽する酸っぱい臭気と、濃密な膠の生臭さであった。
「桜子です。お呼びでしょうか、お父様」
銀の鈴を転がすような、しかし感情の起伏を徹底して押し殺した平坦な声で告げると、襖の奥から「入れ」という、ひび割れた氷のような短く冷酷な声が返ってきた。
音を立てぬように両手でゆっくりと襖を開き、桜子は薄暗い書斎の中へと足を踏み入れた。
四方の壁を天井まで埋め尽くす異様な数の書物と、そこに沈殿する重苦しい怨念の澱。そして、その中央に鎮座する黒檀の机と、そこに端座する父・清太郎の姿。
清太郎の落ち窪んだ眼窩の奥で鈍く光る爬虫類のような瞳が、入り口で深々と頭を下げる桜子の姿を、頭の頂から足の爪先まで、値踏みするように執拗に探った。その眼差しの表面に、血を分けた娘への慈愛は一切浮かんでいない。あるのはただ、初葉の掟に縛り付けられた絶対的な家長としての、威圧と冷酷さだけであった。
「面を上げよ」
清太郎の低い声が、和紙の腐敗臭に満ちた空気を震わせた。桜子がゆっくりと顔を上げると、清太郎は机の上に置かれていた一枚の真新しい西洋紙を、細い指先で軽く打った。
「帝都で最も発行部数を持つ、あの大衆新聞社から、我が初葉家への連載の依頼が来ている。桜子、お前が書け」
その言葉の意味を理解した瞬間、桜子の心臓の奥底で、重い鉛の塊が鈍い重さを持って胃の腑へと落ちていくような錯覚を覚えた。
新聞小説。それは、初代・清秋が泥水の中から這い上がるために書き捨て、のちに純文学の頂へと上り詰めたことで過去のものとして切り捨てたはずの、大衆向けの娯楽媒体である。活字を神聖視し、大衆に迎合することを何よりも嫌悪する父が、なぜそのような俗悪な媒体に、初葉の名を冠した小説を掲載することを許すのか。
桜子の僅かな動揺を見透かしたように、清太郎は冷ややかに唇の端を歪めた。
「大正という時代は、ひどく薄っぺらで騒がしい。民衆は活動写真や流行歌といった、一時的な慰めと安い涙に酔い痴れている。活字の価値は地に落ち、大衆新聞に載る小説はどれもこれも、文士気取りが書き散らした安直な消費物ばかりだ。だからこそ、初葉の血を示すのだ」
清太郎の目に、狂気じみた暗い情熱の炎が揺らめいた。
「お前が、あの新聞の紙面を初葉の純文学で支配しろ。大衆の安い娯楽などという生温かい土壌を、我が一族の圧倒的な文字の重力で根こそぎ叩き潰し、初葉の文学がいかに絶対的で孤高であるかを、帝都の愚民どもの眼球に直接焼き付けてやるのだ。お前は、そのための初葉の次期当主、三代目なのだからな」
お前は、三代目なのだからな。
父の放ったその断言は、見えない刃となって桜子の鼓膜を突き破り、彼女の脳髄の最も柔らかい部分を無残に切り裂いた。
三代目。それは本来、文才を持たず言葉を発することができないという理由で『物言わぬ木偶』として切り捨てられた、心優しい兄が呼ばれるはずだった称号である。
代用品として己を引きずり出した、初葉の掟の残酷さ。桜子の胸の奥で、兄への強い哀れみと、自分自身の運命に対する底知れぬ絶望が、真っ黒な渦となって逆巻いた。
小説を書くということは、桜子にとって単に文字を原稿用紙に埋めるという安易な作業ではない。夢の中で体験した他人の生々しい悲しみや痛みを、もう一度己の肉体に引き受け、血を吐くような思いで原稿用紙へと定着させるという、己の精神を極限まで摩耗させる過酷な儀式なのだ。
新聞という巨大な媒体で連載を持つことは、その神経をすり減らす儀式を日常的に、容赦のない周期で繰り返すという地獄を意味していた。
しかし、桜子にそれを拒否する権利など、最初から一厘も与えられていないことを、彼女自身が誰よりもよく理解していた。
もしここで父の命令に背けば、初葉の家における桜子の存在価値はことごとく消失する。そうなれば、自分という防壁を失った兄は、冷酷な女帝である母・文子と親族たちによって、真の意味でこの一族から排除され、最悪の場合は屋敷から追放されて野垂れ死ぬ運命を辿るだろう。
自分が初葉の道具として、完璧な文字の奴隷として機能し続ける限りにおいてのみ、兄はこの屋敷の片隅で、辛うじて呼吸を続けることを許されるのだ。
兄を守るためには、自分がこの途方もない重圧をすべて飲み込み、活字の狂気に身を投じるしかない。
桜子は、着物の袖の下で、凍えきった両手を血が滲むほど強く握りしめた。
美しく切り揃えられた爪が掌の柔らかな肉に食い込み、鋭い痛みが走る。しかし、彼女の青白い顔には、恐怖も、絶望も、反抗の色も、何一つ浮かぶことはなかった。
彼女は、感情の波を一切表に出さぬ静謐な顔のまま、床に擦れるほど深く、優雅な所作で頭を下げた。
「はい、お父様」
静かな書斎の空気に溶け込んでいく、一切の澱みもない完璧な肯定の言葉。
「私がお父様のご期待通り、初葉の血に恥じぬ物語を書き上げてご覧に入れます」
その言葉を聞き届け、清太郎は静かに深く頷くと、再び手元の書類へと冷たい視線を落とした。それは、これ以上娘と言葉を交わす必要はないという、家長からの退室の合図であった。
桜子は音を立てずに立ち上がり、一度も父に背を向けることなく、静かに後ずさりをして襖を閉めた。
廊下に出た瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、桜子の華奢な膝が微かに震え、彼女はその場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。
重い。あまりにも重すぎる。
初葉という家の歴史が、一族の狂気が、そしてこれから自分が文字にして晒さなければならないあの生々しい夢の重さが、目に見えない巨大な岩となって、彼女の両肩を容赦なく押し潰そうとしていた。
冷たい板張りの床を見つめたまま、桜子は自らの肺に溜まった澱んだ空気を、細い糸のようにゆっくりと吐き出した。
どれほどこの運命を呪おうとも、彼女はもう逃げることはできない。
桜子は、壁に手をついて辛うじて自らの身体を支え直すと、ゆっくりと顔を上げた。
その深淵のような瞳の奥には、すべてを諦めたような虚無感とともに、ただ一つ、この地獄のような屋敷の中で唯一己が愛し、守らなければならない存在への、痛切なまでの思いだけが暗い光を放っていた。
彼女が向かう先は、己の豪奢な自室ではない。
この屋敷の最も奥深く、凍えるような冷気の中で、たった一人、自分だけが訪れるのを暗箱を抱きしめて待ち続けているであろう、愛する兄の待つ、あの薄暗い離れの部屋であった。




