第一章(3)
本屋敷の奥深く、当主の書斎からさらに冷え切った板張りの渡り廊下を幾つも隔てた先にある、一日のうちでただの一度も陽の光が差し込むことのない北向きの離れ。
結露で白く濁った硝子戸の向こうに、冬枯れして黒く変色した裏庭の寒々しい景色だけが広がるその薄暗い四畳半の部屋が、初葉家長男にして、一族の忌まわしき『瑕疵』として半ば幽閉されている青年、初葉清に与えられた世界のすべてであった。
天井の隅には土蜘蛛の巣が張り、足を踏み出すたびに床板が湿った嫌な音を立てて軋む。壁の漆喰はところどころ剥がれ落ち、そこから入り込む容赦ない冬の木枯らしが、部屋の空気を氷室のように冷やし続けている。
明治三十六年に生を受け、今年で二十歳を迎えるこの青年は、本来であれば初葉家の三代目当主として、あの重厚な書斎の黒檀の机に座り、一族の絶対的な権威と純文学の血脈を継承するはずの存在であった。
陽の光を浴びていない青白いほどに透き通った肌。長い睫毛に縁取られ、どこか狂気を孕んだように涼しげな瞳。そして、神経質に引き締まった鋭利な輪郭。それは、いかにも文豪の血を引く青年にふさわしい、見る者を惹きつける危ういほどの美しさと知性を感じさせる容貌であった。
しかし、彼を包み込んでいる空気は、二十歳の若者が本来持っているはずの生命の熱を完全に欠落させていた。まるで、自らの呼吸する音すらも他者の逆鱗に触れるのではないかと恐れるように、彼は部屋の最も暗い隅に膝を抱えて背を丸め、ただひたすらに己の存在の気配を殺し続けている。
清の喉は、呪われていた。
彼が十歳を迎える少し前から徐々に顕在化したその恐ろしい症状は、彼から『言葉』という、人間が他者と繋がりを持ち、己の存在を世界に証明するための最も基本的な手段を、あまりにも残酷で暴力的な形で奪い去っていった。
極度の吃音。
それが、初葉という文字と言葉を絶対的な神と崇める一族の長男に科せられた、逃れようのない絶望的な烙印であった。
何かを言葉にして外界へ伝えようと意思を持った瞬間、清の喉仏は己の制御を完全に離れ、まるで別の生き物が皮膚の下で名状しがたい蠕動を始める。
肺の底から押し上げられたはずの呼気は、鉛のように硬直した声帯に見事にせき止められ、決して音となって唇を越えることはない。気管が目に見えない麻縄で容赦なく締め上げられるような圧倒的な息苦しさが彼を襲い、腹部を鈍器で強打されたような鈍い痛みが走る。
己の意思に反して舌の根が口腔の奥で石のように強張り、美しく整った彼の顔面は、たった一言の単語を生み出せない凄まじい苦痛によって無残に歪み、醜悪な苦悶の色に染まる。
無理に音を捻り出そうとすればするほど、喉の奥には赤く焼けた火箸を直接突き立てられたような鋭い激痛が走り、こめかみには青黒い血管が不気味に浮き上がる。額からは玉のような脂汗が止めどなく滲み出し、酸欠によって視界の端が白く明滅し始める。
あまりの苦しさに奥歯を骨が鳴るほど噛み締めた反動で、口腔内の柔らかい粘膜が破れ、鉄錆のような血の味が舌の上に重く広がる。
そうして己の肉体を極限まで痛めつけ、爪が手のひらに食い込んで血が滲むほどの力を込め、何十秒、時には数分という地獄のような空白の時間を経て、ようやく彼の引き攣った唇から漏れ出すのは、誰にも意味をなさない濁った擦過音と、獣の呻き声にも似た惨めな喘鳴だけであった。
その醜悪なまでの苦痛の姿を前にしたとき、親族たちが彼に向けた視線は、血を分けた家族に対する同情でも、不憫な者への憐憫でもなかった。
それは、床に落ちた汚物を見るような、あるいは、初めからそこに存在しない無機質な空間を見つめるような、絶対的な無関心と氷のような冷遇であった。
純文学という完璧な文字の羅列のみを至上の価値とし、言葉の正確さこそが人間の格を決定づけると信じて疑わない一族にとって、言葉を滑らかに紡ぐことすらできない清の存在は、神聖な血脈に対する明らかな冒涜であり、取り返しのつかない汚点であった。
父である清太郎は、長男の症状が一生治らない致命的な欠陥であると悟ったその日から、彼に向かってただの一度も話しかけることはなかった。激しく叱責されたり、無能だと罵られたり、あるいは勘当されて屋敷から追い出される方が、まだ血の通った人間として扱われているだけ救いがあったかもしれない。
だが、父が選んだのは完全なる無視であった。視界に入っていても、決して目を合わせない。彼が目の前で痙攣して苦しんでいても、まるで路傍の石ころの横を通り過ぎるように、表情一つ変えずに歩き去っていく。
実の母である文子でさえも、一族の女帝としての重圧と初葉の狂信的な空気に呑まれ、彼を庇うことはおろか、ただ幽鬼のように冷たい目を伏せ、この哀れな長男の横を無言のまま通り過ぎるだけであった。
親族の集まりに顔を出すことは当然のように禁じられ、使用人たちですら、当主の意を完璧に汲んで清の存在を見ないふりをする。
彼の食事は、声をかけられることもなく無言のまま部屋の前の冷たい廊下に置かれる。彼がたまに厠へ行くために廊下を歩いていても、すれ違う者たちはまるで透明な空気を通り抜けるかのように、一瞥もくれず、足音すら変えずに通り過ぎていく。
初葉の人間でありながら、初葉の空間には存在しない。生きながらにして亡霊として扱われる日々。
言葉を発することができないというただそれだけの理由で、人間としてのすべての尊厳と生殺与奪の権利を根こそぎ剥奪され、誰の記憶にも残らない虚無として、この冷たい離れでただ己の寿命が尽きるのを待つだけの、無意味な木偶。
それが、初葉清という男の、逃れようのない現実であった。
己の存在意義を完全に否定された圧倒的な孤独と絶望は、黒く淀んだ汚水となって清の肺を冷酷に満たし、四六時中、彼に窒息するほどの苦しみを与え続けていた。声を上げて泣き叫ぶことすら、彼の痙攣する喉には許されていないのだ。
発散されることのない悲鳴と虚無感が、行き場を失って体内で腐敗し、彼の精神を内側から確実に蝕んでいった。
そんな狂気と絶望の底なし沼を彷徨う清が、己の自我を完全に崩壊させず、かろうじて正気を保ち続けるための唯一の命綱。
それは、彼の骨ばった長い指にすがりつくように強く握りしめられている、硬質な金属の塊――舶来の高級暗箱であった。
折り畳み式の黒い蛇腹を備え、上質な黒革と重厚な真鍮で縁取られたその精巧な機械は、清にとって単なる大衆の趣味の玩具などではない。それは、彼をこの残酷な言葉の世界から切り離し、絶対的な安全圏へと匿ってくれる、無音の避難所であり、唯一の救済の神であった。
清は、震える指先で真鍮の冷ややかな手触りを確かめ、鏡玉の周囲に刻まれた細かな目盛りを撫でながら、そっと焦点硝子に右目を押し当てた。
磨き抜かれた硝子の鏡玉を通して覗き込む世界は、現実の屋敷の息詰まるような冷たさとは完全に無縁の、四角く切り取られた別の宇宙であった。
焦点硝子の中の世界は、彼に言葉を要求しない。滑らかな会話も、気の利いた返答も、純文学の高尚な理念も、ここでは一切必要とされない。吃音を嘲笑う者も、彼を透明人間として扱う冷たい視線も、その四角い枠の外へと完全に排除することができるのだ。
彼が息を殺し、指先にわずかに力を込めて遮光幕を切った瞬間、硬質で機械的な音が静寂を切り裂き、その瞬間の光と影だけが、一切の感情や意味を持たないまま硝子の奥の乾板へと永遠に定着される。
言葉という不完全で、人を傷つける暴力的なものを使わずとも、世界をありのままに捉え、永遠に保存することができる。
流暢に言葉を操り、原稿用紙を文字で埋め尽くすことでしか己の価値を証明できない初葉の狂った人間たちを、清は焦点硝子の向こう側から、一切の音のない世界でただ静かに見つめ返す。
機械の持つ絶対的な客観性と静寂、そして無機質な金属の温度だけが、痙攣して熱を持った彼の喉を、唯一優しく冷ましてくれるのだった。
清は、遮光幕の機構を指の腹でゆっくりと愛おしむように撫でながら、北向きの結露した窓の外へと視線を向けた。
鉛色の分厚い雲から、白い粉雪が音もなく舞い散り始めている。
この窒息しそうな屋敷の中で、言葉を持たない空白の男が、唯一、己の肉声を持って対等に接することのできる、たった一人の存在。
自分とは正反対の残酷なまでの才能を宿し、己の代わりに次期当主としての巨大な重圧を背負わされてしまった、美しく、そして哀れな妹。
彼女が己の白足袋を滑らせてこの冷たい離れを訪れる足音だけを、清は硝子戸越しの絶対的な静寂の中で、暗箱を己の胸に強く抱きしめるようにして、ただひたすらに待ち続けていた。




