第一章(2)
凍てつく枯山水の前庭を抜け、冷え切った板張りの回廊をさらに奥へと進むと、冬の鈍い陽光すらも完全に届かなくなる屋敷の最深部に至る。そこは、初葉という一族の心臓部であり、同時に最も忌まわしい呪いの中枢とも言える当主の書斎であった。
漆塗りの分厚い襖を静かに開け放った瞬間、訪問者の肺腑を容赦なく侵食するのは、数十年という途方もない時間をかけて蓄積された、紙と墨の放つ異様な死臭である。
壁の四方を天井まで隙間なく埋め尽くす紫檀の書棚には、和装本から真新しい洋装本、あるいは半紙に書き殴られた草稿の束が、それこそ何万冊、何万枚という途方もない数でひしめき合っている。光を嫌い、風を嫌うそれらの古い紙片は、長い年月を経て繊維をどす黒く変色させ、綴じ糸を腐らせ、甘ったるくも饐えた独特の腐敗臭を書斎の重い空気に吐き出し続けていた。
さらにそこへ、硯の底で酸化した煤と膠の生臭さが重く絡みつき、この部屋には、歴代の初葉の人間たちが己の血肉を削って絞り出した無数の言葉の残骸が、目に見えない怨念の澱となって四隅に沈殿しているかのようであった。
その言葉の墓場の中心に、黒檀の重厚な机を前にして、初葉家二代目当主・初葉清太郎が端座していた。
今年で五十二歳を迎える男の背筋には、一本の鋼の杭が打ち込まれているかのような、異常なまでの狂いのなさが宿っていた。
上質な結城紬の着物には一寸の皺もなく、白髪の混じり始めた髪は乱れなく撫で付けられている。しかし、何よりも見る者を戦慄させるのは、その落ち窪んだ眼窩の奥で無機質な光を放つ、爬虫類を思わせる鋭い双眸であった。
清太郎の瞳には、人間としての生温かい感情や、親族に対する馴れ合いの情といったものは一切存在しない。
彼が世界を見る基準、人間の魂を量る尺はただ一つ。それが『初葉の純文学』として完璧であるか否か、それだけであった。
その酷薄な視線で射抜かれた者は皆、己の肉体が単なる活字の羅列に解体され、価値のない粗悪な紙屑として焼却炉へ放り込まれるかのような、凄まじい恐怖と錯覚を覚えるのだった。
書斎の入り口には、初葉の血に連なる親族たちが数名、極上の波斯織物の敷物に額を擦り付けるようにして平伏していた。
新年の挨拶を済ませ、今後の初葉の家の方針を伺う彼らに対し、清太郎は手元の万年筆を硝子の筆置きへと置き、ゆっくりと、ひび割れた氷のような低い声を響かせた。
「お前たちは、初葉という家の成り立ちを、まさか忘れてはおるまいな」
静かな、しかし有無を言わさぬ圧力を伴ったその一言に、親族たちの肩が弾かれたように強張る。
「我々初葉の血は、泥水の中から啜り上げた墨汁でできている。初代・清秋の狂気を、ゆめゆめ忘れるでないぞ」
そう清太郎の口から語られるのは、一族の人間であれば誰もが骨の髄まで叩き込まれている、血塗られた起源であった。
弘化四年に生を受けた初代・初葉清秋。
彼の本名は、八代喜之助といった。厳格な武家の生まれでありながら、彼は幼い頃から武芸をひどく嫌い、何かに憑かれたように文字を書き連ねる狂気の少年であった。
刀を握るべき手で筆を握り、武士の誇りを捨てる彼を、当時の八代家当主は激しく疎んだ。木刀で骨が軋むほど殴りつけられ、暗い土蔵に何日も閉じ込められようとも、喜之助の文学への異常な執着は、弾圧されるほどに青白い熱を帯びていった。
そしてついに彼は、自ら武家としての身分を捨て、実家から永遠の勘当を受けるという道を選んだ。
過去の名も、家柄も、すべてを塵芥に投げ打って、自らを『初葉』と名乗った男。
「父は、武家の血を自ら絶ち、活字の亡者に己の魂を余すところなく売り渡したのだ。初めは、今日の米を食い、明日の筆と墨を買うために、大衆に媚びた低俗な読本や人情本、浮世草子を書き散らしていた」
清太郎の口調に、明確な侮蔑の色が混じる。
「市井の無知な者たちの安い涙を誘い、一時的な慰めを与えるだけの、紙屑のような物語だ。父は自らの才能をそのような汚泥に浸し、安い原稿料で命を繋ぎながら、しかし、常にその先の絶対的な真理だけを見据えていた。人間の魂の深淵を暴き出し、世界の美しさと醜悪さを寸分の狂いもなく言語化する、至高の芸術。それこそが、我々初葉一族が己の血肉を削ってでも到達しなければならない『純文学』という孤高の頂なのだ」
大衆娯楽の底を這いずり回り、自らの筆の力だけで明治という新しい時代に純文学の礎を築き上げた初代・清秋。
外国の文化が怒涛のように押し寄せる文明開化の波の中で、彼は日本語の持つ恐ろしいほどの美しさと凄みを見事なまでに洗練させ、独自の純文学という境界を確立した。彼はまさしく、己の命を原稿用紙の升目に切り売りして死んでいったのだ。
その常軌を逸した執念と狂気を間近で見続けてきた清太郎にとって、文学とは大衆を楽しませる娯楽などでは決してない。それは、選ばれた天才のみが、己の人間性を完全に殺して挑む神聖な儀式そのものであった。
「大正という時代は、ひどく薄っぺらで騒がしい。活動写真だの、流行歌だの、洋酒場だのと、民衆は目を引く新しい玩具と安易な救いばかりを求めている。だが、初葉の人間がそのような俗悪な時代の空気に迎合することは、万に一つも許されない」
清太郎の冷たい眼光が、平伏する親族たちの頭頂部を容赦なく串刺しにする。
「我々は、文字によってのみこの世に存在することを許された一族だ。筆を握れぬ者、完璧な純文学を構築できぬ者は、初葉の屋敷に生きる資格を持たない。どれほど血の繋がりがあろうとも、才能なき者は一族の瑕疵であり、ただ息をして飯を食うだけの、物言わぬ木偶に過ぎないのだ」
その言葉は、書斎の重苦しい空気をさらに凍てつかせた。
初葉の人間にとって、文学的才能の欠如はすなわち『死』を意味する。
清太郎が放ったその刃のような断言は、決して単なる比喩や脅しではない。なぜなら、この広大な屋敷の奥深く、陽の当たらない離れの冷たい部屋に、その『才能なき木偶』として存在そのものを透明な虚無として扱われている哀れな青年が、実際に息を潜めているからだ。
初葉の血を引き、三代目当主となるはずだった長男でありながら、文才を全く持たず、極度の吃音によって言葉をまともに発することすらできない無力な男。この狂信的な血脈の掟の前では、たとえ鋭利な骨格を持つ美しい青年であろうとも、純文学という絶対的な神に対する供物として、無慈悲にその尊厳を剥奪されるのである。
清太郎が視線を落とすと、親族たちはまるで処刑を免れた罪人のように、深く、音の出ない安堵の息を吐き出した。
書斎を満たす古紙の腐朽臭と膠の生臭さが、にわかに濃さを増したように感じられる。
それは、過去の亡霊たちの怨嗟であると同時に、強固な呪縛に縛り付けられた初葉家をこれから襲う凄惨な悲劇を予感させる、冷たい死の気配の始まりでもあった。




