第一章(1)
大正十二年の一月。
帝都・東京の空は、朝からその分厚い鉛色の冬雲に低く垂れ込められ、骨の髄まで凍りつくような底冷えのする風が、鋪設されたばかりの土瀝青の路面を容赦なく吹き抜けていた。
第一次世界大戦の終結から五年という歳月が流れ、帝都は今、かつてないほどの異様な熱気と、相反する冷たさを同時に孕んだ巨大な坩堝へと変貌を遂げつつあった。
大通りを無遠慮に横断していくのは、網の目のように敷設された軌道を走る東京市電である。頭上の架線から散る青白い火花が鈍色の空に明滅し、車輪が硬い鉄の軌条を削りながら立てる甲高い摩擦音が、凍てつく空気を鋭く引き裂いていく。それは、近代化という名の巨大な歯車が、古い時代を物理的にすり潰しながら前進している産声のようでもあった。
超満員の車内では、乗客たちが車体の揺れに合わせて肩をぶつけ合いながらも、誰一人として不満の声を上げることはない。彼らの眼球に宿っているのは、急激な変革の速度に取り残されまいとする、焦燥を帯びた飢渇の光だけであった。
風に乗って鼻腔を突くのは、街頭の瓦斯燈の硝子火屋から漏れ出す微かな薬品の臭気と、煉瓦造りの西洋建築の煙突から休むことなく吐き出される石炭の黒煙。
そこに、路地裏の屋台から漂ってくる焼き芋の焦げた甘い香りや、新しくできた洋食屋の排気口から流れ出す、異国の香辛料の鋭い刺激と、獣の肉脂を揚げる重たい油の空気が入り混じり、帝都特有の濃密で猥雑な空気を形成している。これまでの日本には存在しなかった、胃袋を直接掴むようなその強烈な芳香は、行き交う人々の本能的な飢えを煽り、さらに歩調を早めさせていく。
行き交う人々の姿もまた、時代の混沌をそのまま映し出したような奇妙な不協和音を奏でていた。
仕立ての良い鳶色の二重回しに身を包み、中折れ帽を目深に被って銀の懐中時計を覗き込む知的な紳士のすぐ横を、洗い晒しの粗末な木綿の半纏を着た労働者が、重い荷車を引きながら泥臭い汗を流して通り過ぎていく。耳を澄ませば、舶来の革靴が路面を叩く硬質な足音と、昔ながらの桐下駄が泥を跳ね上げる乾いた木の反響音が、絶え間なく交差している。
特に目を引くのは、社会へと進出し始めたうら若い女性たちの装いであった。
伝統的な矢絣の着物に海老茶色の袴を合わせ、編み上げの革靴を履いた女学生たちの凛とした姿があるかと思えば、その向こうには、断髪に洋装を纏い、毛皮の襟巻きを巻いた新しい女たちが、活動写真の女優を気取ったような赤い口紅を引いて闊歩している。彼女たちの放つ安価な白粉と香油の匂いが、冬の冷たい風に乗って街角に散らばっていく。
西洋の合理と東洋の因襲、抗いようのない貧困と見せかけの富。それら相反する要素が貪欲に混ざり合い、大正という一瞬の徒花のような時代を、毒々しい極彩色に塗り潰していた。
活気、欲望、そして新しい時代への盲目的な熱狂。
それが、帝都の表通りを支配する圧倒的な生の熱量であった。
しかし、その喧騒の中心から幾筋かの路地を抜け、閑静な高台へと足を踏み入れた瞬間、その猥雑な空気は幻のごとく掻き消える。
まるで、見えない境界線によって空間そのものが断ち切られ、時間の流れが完全に分断されてしまったかのようであった。
市電の甲高い金属音も、洋食屋の脂ぎった匂いも、新しい女たちの嬌声も、ここまでは決して届かない。
足元の石畳は急速に熱を奪われて冷え切り、両脇を囲む黒板塀からは、湿った土と腐朽しかけた木材の陰鬱な空気が漂ってくる。太陽の光すらも遮断するような鬱蒼と茂った古木が天を覆い、枯れ枝が擦れ合う乾いた音だけが、時折風に運ばれてくるのみである。
帝都の中心であるにもかかわらず、そこには墓場のような重苦しい静寂だけが沈殿していた。
その静寂の最奥、周囲の邸宅を威圧するようにして建つ巨大な屋敷こそが、『初葉本家』である。
敷地の四方を広大に囲い込むのは、風雨に晒されて漆喰が幾重にもひび割れ、ところどころに深い苔が張り付いた分厚い土塀であった。
それは単なる境界線としての役割を超え、外の俗悪な世界を一切許容しないという、この屋敷の主たちの強固な意志の表れそのものに見えた。どれほど時代が変わろうとも、どれほど新しい文化が民衆を熱狂させようとも、我々は我々の血脈だけを守り抜く。土塀そのものが放つ無言の圧力が、近づく者すべての肺を締め付ける。
この屋敷を覆う空気は、由緒ある古い名家の静謐さとは明らかに異なっていた。それは、何かに憑かれた人間が、己の命を削って無理矢理に構築したような、異常なまでの執念と血の臭気を孕んだ異質な空間であった。
正面にそびえ立つのは、総檜造りの重厚な薬医門である。
黒光りする太い柱には無数の鉄の飾り鋲が打ち込まれ、観音開きの巨大な門扉は、まるで堅牢な城郭のように固く閉ざされていた。大の男が数人がかりで押さなければ微動だにしないその門は、内部に存在する得体の知れない権威の核心を、外界の泥水から守るための巨大な防波堤でもあった。
隙間風一つ通さないその重い門をくぐり、敷地内へと足を踏み入れると、外界の底冷えとはまた質の異なる、背筋を這い上がるような冷厳な空気が全身を包み込む。
廊下に焚き染められた白檀の高貴な香りが、鼻腔を通り抜けて感覚を重く縛り付けるように漂い、俗世の垢を強制的に洗い落としていく。柱一本、板一枚に至るまで塵一つなく拭き清められた廊下は、歩くことすら躊躇われるほどの静謐な緊張感を漂わせていた。
玄関から続く廊下の先に広がっているのは、広大な前庭であった。
しかし、そこに咲き誇るような花や、実りをもたらす樹木は何一つ存在しない。
庭師の手によって一切の野性味を徹底的に殺され、計算し尽くされた枯山水の庭園。
一面に敷き詰められた純白の砂利には、熊手によって一寸の狂いもない波の紋様が描かれ、その水面を模した砂の海の中に、鋭く切り立った黒々とした庭石が島のように鎮座している。
昨夜の冷え込みのせいだろう。白砂の表面には薄く霜が降り、朝日を浴びて砕けた氷のように冷ややかな光を乱反射していた。
乱れ一つない完璧な秩序。
感情の揺らぎや、人間の持つ泥臭い情動などという不純物は、この庭園においては一片たりとも許容されない。自然の命をわざわざ殺し、石と砂だけで構成されたその死の世界は、息を呑むほどに美しく、そして吐き気がするほどに無機質で恐ろしかった。
欠落も、破綻も、決して許されない。
完璧な秩序のみが真理であると信じて疑わない何者かの狂気が、この冷え切った枯山水の底には、目に見えない妄執の澱となって濃密に沈殿している。
大正の狂騒から完全に切り離されたこの閉ざされた箱庭の中で、一族の忌まわしき『瑕疵』として隠蔽された鋭利な骨格を持つ青白い青年と、恐ろしいほどの透明感と残酷なまでの才能を宿した少女の、誰にも語られることのない密やかな血の因果が、音もなく動き始めようとしていた。




